ここの所、春日局を持ち上げる番組が増えています。
秀忠の嫁のお江(ゴウ)を虐めてなかった云々。
お江の墓は春日局と同じ寺の境内にあるそうで、
秀忠とお江の子・忠長の供養塔もあるとか。
そんなものは何の証拠にもならないと思いますが。
自分たちが謀殺した人物を神社で供養して
恨みをしずめようとする事など多々あるかなと。
家光は秀忠とお江の子ではない可能性が高いです。
家光誕生の前年の同じ七月に江が初を出産
https://president.jp/articles/-/76747?page=3
初を産んですぐに家光を妊娠というのは
ありえなくはないけれど、少々無理をする事になります。
家光は側室の子ではないかという話ですが
「乳母として雇われた」春日局の溺愛ぶりからすると
春日局の子の可能性だってあります。
「乳母として雇った」事自体がカモフラージュで
はじめから春日局に育てさせる予定だったのではないかと。
さらに、家光の父親が秀忠なのかも疑うべきかなと。
家康と子女たちの誕生年を列挙してみましょうか。
本人 1543 徳川家康=松平元信
長男 1559 松平信康(母は築山殿。武田との内通を疑われた)
長女 1560 亀姫(奥平。信康の同母妹。母は築山殿。)
非認 1568 松平康重(養父は松井忠次=松平康親、母は松平重吉の娘。
家康の御落胤説あり。子は松平利綱の正妻など多数)
次男 1574 結城秀康(母は長勝院お古茶=築山殿の侍女=水野忠政の娘の娘)
非認 1574 永見貞愛(結城秀康の双子の兄弟)
次女 1565or75 督姫(北条に嫁ぐが離縁。池田輝政と再婚。母は鵜殿西郡局)
三男 1579 秀忠(2代目将軍。母は西郷局お愛。忠吉の同母兄)
四男 1580 忠吉(尾張初代。母は西郷局お愛)
三女 1580 振姫(蒲生秀行の妻。浅野長晟と再婚。母は下山殿)
五男 1583 武田信吉(母は甲斐源氏の支流・秋山虎泰の娘・下山殿おつま)
六男 1592 忠輝(母は朝覚院・河村茶阿。信康と似ていたので家康に嫌われた)
七男 1594 松千代(忠輝の双子の兄。母は茶阿)
八男 1595 仙千代(義直の同母兄。母はお亀の方)
九男 1601 義直(尾張2代目。母はお亀の方)
十男 1602 頼宣(紀伊初代。母は養珠院お万)
十一 1603 頼房(水戸初代。母は養珠院お万)
孫説 1604 家光(3代目将軍。斎藤福と家康の子かも?)
できるだけ若いのを後継にしようとしてるのが見て取れます。
家光は十一男の頼房と一歳差でしかありません。
実際は家康の子で、
秀忠にとっては末弟ではないかと。
お江にとっては義理の弟。
だったら、秀忠とお江が忠長を溺愛するのも当然でしょう。
忠長は信長公の姪の子という事になります。
家康には、記録に残っているだけでも20人もの側室がいます。
同時に下賜された名号です。のちに従二位に昇進。
女性としては北条政子に匹敵する高位だそうです。
本名は斎藤福と言います。稲葉一鉄の娘と
斎藤利三の間に生まれた娘です。
二条為世の娘の昭訓門院も
足利義満の側室も
春日局と呼ばれていました。
他にも見かけた事があるはずですが
今検索して出るのはこの程度。
間には内親王のみで皇子はいないようです。
自分の部下として引き抜きました。
四国の長宗我部と同盟を結ぶ際、
嫡男の信親を産んでいます。
秀吉が長宗我部のライバルの三好と
同盟を結び、それに乗った信長公が
長宗我部を攻めようとするタイミングで
秀吉に誘導されたようなものでもあります。
秀吉はあくまで信長公を立て、
光秀を謀反人としているものの
本当は自分が仕組んだようなものだったようで。
光秀は娘のガラシャ(たま)が嫁いだ先の
細川家をあてにしていたものの、
細川はイエズス会とつるんで暗殺を計画した側
の可能性すらあり、少なくとも
秀吉に懐柔されており、元々は部下だった光秀に
臣下として加担するには至りませんでした。
信長公暗殺計画には家康も加担していた可能性大。
それというのも、武田が弱体化したため
家康との同盟は無用と考えた信長公が
家康暗殺を図っていた可能性もあるからで、
自業自得な側面も否定できません。
ただ、信長公が領民に優しい名君であるのに対し
家康は自己中心的なファシストでした。
餓死者を大量に出し
日本人の身長・体重を一番小さくした
江戸時代は史上最低の政権
https://gendai.media/articles/-/121908?page=2
太平洋戦争で日本人を殺した連中と比べても
最低と言えるかは分かりませんが・・・
まぁ明治政府も実際は「徳川」が仕組んだ
ようなものらしいです。
https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/09/15/064111
そもそも外人を優遇し日本人を虐待するのが
天智系や藤原氏の方針であり、それとつるんでるのが
秀吉の利休処断やバテレン追放令の背景:
なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が
世界中に拡散してしまったのか [その1]
https://iwahanjiro.exblog.jp/238020243/
明治維新の嘘
https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/07/23/234412
第六天魔王とは?
https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/07/16/232832
家康の軍師的な人物だった南光坊天海には
明智秀満(三宅弥平次)だった可能性があります。
日光東照宮などを計画したのも天海。
日光には明智平という地名がありますが、
名づけたのは天海ではないかとも言われます。
また、徳川家光廟(大猷院)は
天海の墓所である慈眼堂を向いています。
主君の廟が臣下の墓所を向いている・・・
天海の方が親とか主君という実態があったのかも。
初対面のはずの天海と家康が旧知の間柄のように
親しく話し合ったとされています。また、
春日局も「初めて」天海と会った際、
平伏し「お久しゅうございます」と言ったそうです。
このため、天海を秀満でなく光秀とする説もあります。
そして、光秀が千利休になったという説を唱えてもおられます。
光秀と利休は同時に別人として存在していた時期もありますが。
裏千家とは何だろう?とは思います。
天海は1536年生まれ、
1643年11月13日没とされています。
数え年で108才と、かなりの長寿です。
光秀は懇意だった吉田兼見の日記の
光秀の妹・妻木の記述から逆算すると
1540年以降に生まれた事になるそうです。
仮に1540年生まれで光秀が天海だとしたら
実際は103才。それでもかなりの長寿。
一説で従兄弟とされる秀満も、同様の年齢と思われ、
Wikipediaでは現在、天海=秀満説に基づいてか
生誕は「1536年?」とされています。
光秀の娘(たま=ガラシャの姉・お藤?)と
秀満の間の子が三宅重利で、その妻は
妻木範煕の娘で、その子・重元は
1643年に細川光尚に召し抱えられ、
その家系は重臣として幕末まで続いたそうです。
このような事実があるにも関わらず、
忠長よりも家光を推していたのが
家康と春日局の2人だけであるかに説く者は
明智光秀ないし秀満が天海となって
斎藤利三の孫・家光を支えていた可能性の高さと、
妻木とか細川とかも関わっている事を隠そうとする
真相隠蔽・歴史捏造の工作員ではないかと。
徳川忠長の生涯。
1606年0才 生誕(数え年1才)
1618年12才 甲斐国甲府藩20万石藩主
1620年14才 従四位下参議左近衛中将
1623年17才 従三位中納言
1624年18才 駿河・遠江・甲斐3国で知行55万石
1626年20才 従二位権大納言
11月3日に母のお江が死去すると急に昇進が止まる。
深酒に耽るなどの問題行動が目立ち始めたとされている。
1631年25才 甲府へ蟄居仰付
1632年26才 10月20日 改易
細川忠利などの伝聞や観察の記録では、改易はあくまで彼個人の素行・乱行が原因とされている。
1633年27才 配流地の上野国高崎で切腹を命じられた。数え年28才。
細川忠利の意見は、大本営側の意見でしかなく
真実かどうかは疑ってかかる必要があるのではないかと。
後ろ盾がいなくなったから
鬼畜が信長公の姪の子を殺した、というのが真相ではないかと。
家斉の続柄大名への依怙贔屓
庄内藩主・酒井忠器が「人品アシク」と悪評を立てられた
のは何故だろうか。百姓に慕われた名君
ttps://bungeishunju.com/n/n4d9fa0e35e73
なお、 妻木貞徳(光秀の妻・煕子の従兄弟)の
キリシタンになったり、権力のために
言動を変える人物で、天草の石高を
実情の倍に算定して過酷な徴税を行った。
「天草・島原の乱」が起こった。
この時に富岡城の城代だったのが
明智秀満の子で光秀の孫の三宅重利。
本渡の戦いに破れ自刃したそうですが。
なお、妻木貞徳の母親は水野信元の姪。
水野信元の父親は水野忠政で
その娘が於大の方(家康の母親)。
江戸幕府の背後関係を見誤ってはならないと思います。
ついでに、奥平家の系図。
弟・源頼信にあやかっているのかも知れない。
徳川吉宗はその辺にあやかった名なのかも知れない。
(なお、源満仲には左馬助だった時期があり、
明智秀満も左馬助と称していた。)
大分県で城を持っている家康子孫って誰だろう?
と調べてみた結果、こういう系図を書く事になりました。
名に信がつく人物も信康だけではないのだなと。
まぁ、「パーティーちゃん」の信子は好きですが、
それと家康への評価は別の話で。
パーティーちゃんはネタがおもしろいわけではないし。
どうする家康?がダメなワケ
https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/05/21/084907
何をもって歴史好きというのか?