超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

どうする家康?がダメなワケ

初回視聴率が歴代大河ワースト2位で

ぎりぎり2桁を維持している大コケ状態

だそうですが・・・。

 

私から見るとかなり家康びいきな方でも

信長公への不当な扱いには疑問を持つようになっている。

https://ameblo.jp/hidekifukunaga/entry-12797951026.html

 

どうする家康(NHK)感想投稿中止のお知らせ

https://ameblo.jp/hidekifukunaga/entry-12792542137.html

 

そもそも「か弱いヒロイン的主人公」が次々に難局を

乗り越えていくという「新たな見方・歴史認識」を

提供するという「ふれこみ」でしたし、

今までは悪役だった今川氏を再評価し

築山殿を悪女でなく優しい妻と描き

それを信長公が処刑させたとして

一方的に信長公を悪役にするというような

話が初めから発表されていました。

 

家康が今川から楽な生活を保証され

京都的な今川の風潮に感心していたのは事実

のようで・・・一方で家臣たちは苦労させられ

ていたので後の記録では今川を悪く描く

というのが真相のようですが。

 

で、問題の築山殿(大河ドラマでは有村架純さんが演じる)

と長男・信康の処刑なのですが

実際は信長公ではなく家康自身の意向による処刑だった

という説も強くなって来ている。

家康や家臣たちの主張を真に受ける必要はないわけで

むしろ脚色がかなり濃いのが家康側の言い分です。

 

まず将軍になるにあたって、源氏でないと

将軍になれないからと新田源氏だと主張してるけど

こじつけである事を渡辺世祐という人が論証してるそうです。

「世良田政義」という人物について記した

『浪合記』は江戸時代に著された偽書だそうですし、

家康は本来源氏では成り得ない官職「三河守」を得るため

本姓藤原氏を称したりもしているそうです。

家康は平気で嘘をつく

信用できない人物。

 

松平信康自刃事件

通説への疑問

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/松平信康#信康自刃事件について

不仲や不行状というだけで信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問がある[12]。また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていてそのような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は窺えず、事件の発端となったとされる徳姫に対して徳川政権成立後に家康が二千石の領地を与えている理由も通説では説明できない(実際に所領を給与したのは徳姫の義弟にあたる松平忠吉)。さらに築山殿がいかに家康の正室といえども武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問である。しかも信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。それにもかかわらず家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解である[13]。また酒井忠次は、その後も徳川家の重臣上位の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっている[14]。

また、家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○の中なおしニ」と破損しており、信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠久松俊勝松平康元)であるとの説も提示されている。また「御母様(=築山殿)」の可能性もあり、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もあるとされている。於大に関しては天正3年(1575年)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、信康との仲が険悪になっていた可能性があるという。なお、数正は後年に徳川家から出奔している[15]。ただし「御」の前には信康の名がくるため「御家門」と「御前様」の説には無理があるとの見解もある。

また、家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていないとする説がある[13]が、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立し信康の菩提寺に指定し、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などを建設しており、「信康山長安院清瀧寺」と号させている。また各所に墓所を建立しているので、これは誤りである(#墓所・祭祀も参照)。

父子不仲説
このため近年では、家康が信長に要求されたためというより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになった。

安土日記』や『当代記』[注釈 1]では、信長は「信康を殺せ」とは言わず、徳川家の内情を酌んで「家康の思い通りにせよ」と答えている。つまり家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということである。また、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる[17]。また『家忠日記』によると、事件が起きる前年天正6年(1578年)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている[18]。さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことがうかがえる[19]。また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」[20]とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることをうかがわせる。

また信康の異母弟・松平忠輝は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残している。

「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。
「世に伝ふるは……つくづくと御覧し、おそろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけりと仰せけり」(新井白石『藩翰譜』巻十一「上総介殿」)[21]。
この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことがうかがえる。

関ヶ原の戦いで戦況が一時不利になった時、家康は狼狽のあまり「せがれがいればこんな思いをしなくて済んだ」と口走り[3](側にいた家臣が遅参している秀忠のことだと思い「間もなくご到着されると思います」と声を掛けたところ家康は、「そのせがれのことではないわ!」と吐き捨てた)、また晩年には「父子の仲平ならざりし」と親子の不和について言及している[22]。

岩沢愿彦が1968年に『家忠日記』の原本を検めたところ、この事件については、6月4日に「信康御〇〇の中をなをし二被越候」として、家康が岡崎に出向いた。この段階では徳姫との不和の仲介とも読める。しかし、8月4日に岡崎城にて家康と信康が争論により物別れとなった。家康は和解に積極的だが信康が応じず、その結果として信康が降伏の形で岡崎退城に追い込まれた。これは信康が武田氏との連携に傾いて、信長との同盟を継続しようとする家康との政治的立場の相違が不和の原因であるという傍証になるとする[23]。

派閥抗争説
作家の典厩五郎は、この時期の徳川家は、常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(織田家との)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部正成に暗殺された疑いがあるとして、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えている。また信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電(逃亡)する者が続出し、派閥抗争の末の粛清や懲罰があったと唱えている[注釈 2]。歴史研究家の谷口克広も典厩の説を支持し、岡崎衆は家康への不満か家康の旗本に対する反発から信康を担いでクーデターを起こすことを企み、築山殿もそれに関係していたのではないかと推測している[24]。

大岡弥四郎事件と武田通謀説
柴裕之は、信康の非道な行いや徳姫との不仲、築山殿と家康の不和を事実と見たうえで、天正3年(1575年)に起こった大岡弥四郎事件との関連で起こった事件だとしている。大岡弥四郎事件の頃は武田氏が徳川氏に対して軍事的に優勢であり、『岡崎東泉記』『石川正西聞見記』にあるように武田氏との和睦を主張する岡崎家臣団が信康を擁して武田氏に寝返ろうとし、築山殿もそれに深く関係していたとしている。大岡弥四郎事件は徳川家中の動揺を抑えるために最小限の処分で終わったため、その後も築山殿・信康や岡崎家臣団は武田氏に通謀し続けていたとしている[25]。

一方、本多隆成は、信康事件において処分された岡崎家臣団がいないことから、家康も大岡弥四郎事件の後は岡崎家臣団の武田氏への通謀を相当に警戒して善後策を講じたはずで、その後も武田氏に通謀し続けていた首謀者は築山殿だとしている[26]。

また黒田基樹は、大岡弥四郎事件は最小限の処分で終わったが、天正7年(1579年)になって徳姫による父信長への書状で、過去の築山殿・信康の武田氏への通謀が発覚したとしている[27]。

 

築山殿殺害の謎

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/築山殿
通説には疑問点も多く、桑田忠親は「確かな文献には、築山殿が武田と内通したとか、唐人の減敬と密通したとか、信康を共犯にしたとかいうような記事は全く見あたらない。これは彼女が冤罪であった証拠と考えられる。」としたうえで、処刑に際して正当な理由が見つからなかったから、作りあげられた理由とし、家康が築山殿を暗殺したのは、「信康の死を知った彼女が狂乱して事を起こすのを未然に防ぐためだった」とする。

 

大賀弥四郎事件

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/大賀弥四郎
『岡崎東泉記』にあるように松平氏譜代の岡崎家臣団が信康を三河の新国主として武田氏に寝返ろうとする可能性は十分に考えうる。この事件は家中の動揺を抑えるため、大賀弥四郎一党が起こした騒動という小事件として処理されたが、後年武田氏に対する軍事的優勢に転じた事によりようやく信康と築山殿の処分という形(松平信康#信康自刃事件について)で岡崎処分が完遂されたという見解もある[13]。また『三河物語』が述べるように、同年5月の長篠の戦いは、大賀弥四郎らの内通によって武田軍が侵攻の機を得たものとする説もある[5]。

人物
『岡崎領主古記』によれば、大岡弥四郎は松平新右衛門・江戸右衛門七とともに岡崎城松平信康の下で町奉行を務めていたといい、諸書とも一致する。

天正3年(1575年)、松平新右衛門らとともに武田勝頼に内通して武田軍を岡崎へ引き入れようとする謀反を企てたが、事前に計画が露見したため不発に終わった。弥四郎は捕らえられて岡崎及び浜松城下において引き回しの上、鋸挽きの刑に処され[注釈 2]、弥四郎の妻子は磔となった(後述)[9]。

出自
名字について、寛永3年(1626年)成立の『三河物語』を始め『朝野旧聞裒藁』『徳川実紀』は彼の名を大賀弥四郎とするが、元禄年間成立の『岡崎東泉記』や『伝馬町旧記録』といった岡崎地方の史料では大岡弥四郎としている。

大賀氏は松平氏の家臣として名が見られる一族ではあるが、大岡氏は弥四郎と同様に松平信康に仕えた人物として大岡正成・義勝を出しており、そのため大岡弥四郎とすべきものを後世の誤謬ないし作為によって大賀弥四郎と伝えられたとする見解がある[5][6][7]。

三河物語』は弥四郎は譜代の「御中間」であったとするが、その出自を松平氏譜代の家臣筋である大岡氏とすれば『烈祖成績』が「奴隷」と表現するような下賤の出身であったことを意味しない。この事は後述の事件を矮小化しようとする後世の操作によって、出自を低く見積もられたとみられている[8]。

 

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そういうわけで・・・「信長公が残酷だった」

として責任を押し付けるのは間違いではないかと。

怒り狂って大岡弥四郎をノコギリで殺させたのは

家康なんでしょ?

長男の信康とその母である築山殿を処刑したのも

家康の方が望んだ事で、

信長公に命じられて仕方なくというのは嘘だ

と考えられるようになって来た。

「徳川」の言い分・偽書などを妄信しなければ

当然そうなっていくでしょう。

 

しかるに、信長公のせいにして悲劇の主人公を

気取らせるような「どうする家康」は

歴史捏造みたいなものではないかと。

 

築山殿を演じる有村架純さんも

秀忠の母である於愛の方を演じる

広瀬アリスさんもパッチリ二重まぶたの美人。

 

昨今の韓流細目ごり押し風潮の中では

異例の力の入れようです。

で、家康役がジャニーズの松本潤

信長公役が岡田准一でしょ?

細目ごり押し大本営

これだけ二重まぶたを揃えるのは

染脳したい事情がある場合。

 

家康は「かわいそうな被害者」などではない。

 

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NHK大河「どうする家康」視聴率1ケタ目前…

安易な“BL展開”に視聴者ソッポが大苦戦の元凶か

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/323168

 

これはNHKの意志というよりは

「芸能界のドン」バーニングの意向ではないかと。

 

創価学会』に乗っ取られたNHK大河
https://ameblo.jp/seichiro/entry-10008103436.html
2004年12月9日、創価学会の「本部幹部会」会場。1000人の幹部会員の前で、池田大作名誉会長が「えー、『義経』に出ることになっている滝沢秀明上戸彩石原さとみ創価学会のファミリーです。みなで『義経』を見て、応援しよう」と発言。

 

タッキーこと滝沢秀明くんはジャニーズ系の社長に

なったりもしていました。

上戸彩ちゃんは創価バーニング系エイベックス系

LDH社長HIROの妻。

HIROはエイベックス松浦の舎弟。

 

「Eダンスアカデミー」を放送してる時点で

NHKは「創価毎日TBS化」したとも言える。

 

ダンス深夜営業の怪 エセ左翼

https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11883115100.html

 

TBS在日朝鮮人に乗っ取られた経緯

http://edokkoisho.blog.fc2.com/blog-entry-260.html

エグザイルの最初の拠点は紛れもなくTBSだった。

 

NHKは芸能エンターテインメント部門がダメなわけで・・・

海外ドキュメンタリーなどの放送では

まだ他の放送局よりも良心的な部分を残している。

 

最初に創価学会統一教会のカルト性を告発した朝日は

今や韓流ごり押しAbema化している。

Abema藤田はエイベックス松浦の遊び仲間。

 

ましな順にたたき、悪い順に持ち上げる者を疑うべし。

NHKを悪くしているのは、実際にはNHKバッシングであり

創価バーニングをこそ徹底して糾弾しなければ

改善は期待できない。悪化はまぬがれないでしょう。

 

SMAP分裂騒動の実態は、創価バーニング系列が

女性マネージャーごとSMAPを引き抜き

男性アイドル・ビジネスを根こそぎ奪おうとした

という事ではないかと思っています。

 

滝沢体制化で、ジャニーズが韓流細目化しているので

実際は男性アイドルの韓流化(劣化)は既に実現されている。

TOKIO長瀬、国分、松岡と嵐の松潤櫻井翔らの世代が

消えると、セクゾ中島健人くらいしかまともなパッチリ目の

ジャニーズ顔がいないのでは?

 

分かっていてNHKバッシングしてるのが反日工作員

右翼社民系エセ左翼(実際は体制の犬)が

創価バーニングをたたかずにNHKをたたく事で

ますます悪くしようと企んでいる。

http://cyrus2.blog.fc2.com/blog-entry-266.html

 

 

家康なんかは強姦魔のボスでしかない。

黒田が描かせた大坂の陣絵巻やお菊物語によると。

 

家光は家康の孫? 春日局と天海の正体!

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2024/02/03/144353