超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

東遷したのは邪馬台国ではなく日本

*今回は新情報はあまりないです。

 諸説の整理・照合くらいかな。

 

昨年末から今年の正月にかけて紹介した

「古代史の復元」というサイトでは

神武天皇即位をAD82年末ではないかとし、

倭国大乱を紀元67年から119年の間とし、

7.80年後(後漢書によると147~189年の間)に

卑弥呼が女王となって大乱がおさまったとされています。

 

したがって、饒速日尊の河内降臨はさらに早く、

紀元前100年頃と想定されています。

 

「古代史の復元」が独特なのは

方形周溝墓や四隅突出型墳丘墓の分布から

そうした推論を補強している点です。

 

大和朝廷成立後に畿内系土器が全国に見られるようになるが,

この土器は河内地方の土器。大和盆地の土器ではない。

https://mb1527.thick.jp/N3-07hinomoto.html

大和盆地の形式の土器は大和からほとんど外部に出た形跡はない

 

方形周溝墓弥生中期末(100年頃?)になると、

一挙に関東地方から東北地方南部まで広がっている。

https://mb1527.thick.jp/N3-09higasinihon.htm

*なお方形周溝墓はBC100ではなくBC700頃からあるようです。

 華北とか朝鮮半島北部はそんなに関係ないかと。あくまで倭人

 

BC473年中国で呉国が滅亡し最後の王「夫差」の子「忌」が、

現在の熊本県菊池地方に上陸

 

BC209年、秦徐福が佐賀平野に上陸し、国を作った(吉野ヶ里遺跡)。

 

BC100年頃 饒速日尊の河内降臨

(ヒノモトの草香あたりに河内王朝。)

 

BC100年頃より現春日市一帯を中心とする奴国、前原市を中心とする

伊都国が勢力を伸ばしてきた。

 

BC10年頃、素盞嗚尊が宗像を確保(山陰から朝鮮半島への経路)

https://mb1527.thick.jp/N3-04kitakyuushuutouitu.htm

 弥生時代中期後半まで朝鮮半島南端部から夥しい量の弥生系土器が出土する。伊都国・奴国周辺の土器がほとんどであるという。ところが、この傾向は弥生時代中期末に一変するのである。朝鮮半島南端部からの弥生系土器は急減し、楽浪系遺物の出土が始まるのである。これは、それまで、北九州周辺域の有力豪族が我先にと朝鮮半島南端部と交流していたが、その実権を瀬戸内系勢力に奪われてしまったと解釈できる。また、北九州中心域を外して楽浪系遺物が出土するので、中心域が周辺から仲間はずれにされている状況が浮かび上がってくる。

 

四隅突出型墳丘墓の出現

https://mb1527.thick.jp/N3-06-4susanoonosi.html

 

AD82年末 神武天皇即位。

 

トミのナガスネヒコ様は娘婿の饒速日尊に斬られたとされるが

ナガスネヒコ様の兄君の子孫という奥州安倍氏とともに

饒速日尊を祖とする物部氏が東遷・北上して行く事となる。

 

谷川健一氏の「白鳥伝説」に詳しい

この「日田・飛騨・日高・北上」系地名を残す王朝を

ニギハヤヒ朝ヒノモトと私は呼んでいます。

飛驒一宮・位山の神様は神武天皇に位を授ける神という。

 

この「神武天皇」を応神天皇と考えています。

あるいはその5世子孫の継体天皇も含めてかも知れません。

水辺の八幡宮は、大歳大神ニギハヤヒ様の御子

御年神・瀬織津姫様が本来の主祭神

応神天皇は配偶神だったと考えて来ました。

最近では、応神天皇は配偶神ですらなかった

のではないか、と疑問を持つようになりました。

応神天皇神功皇后の御子として八幡神となったわけですが

(いや神功皇后の方が後付けかも知れませんが)

瀬織津姫様の母神は白山菊理媛様と考えます。

 

ともかく、倭国奈良県に入った後にも

物部氏石上神宮周辺などに残っていたし

移住先の尾張など東国と倭国の関係も良好でした。

「奈良・邪馬台国尾張・狗奴国の対立」は無いのです。

ヒノモトの故地に前方後方墳はあるのです。

 

大化の改新大宝律令の頃(645~701年頃)に

ニギハヤヒ朝は静岡に移転していたようです。

 

新唐書』日本伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。

 

そして800年頃、百済人の孫「桓武天皇」の命令で

坂上田村麿らが東北侵略。

この頃の日本の首都は青森の千曳あたりだったようで

都母の碑と呼ばれる

「日本中央(ひのもとのまなか)」碑があります。

 

新唐書旧唐書によると、670年頃には既に

大和朝廷」が河内王朝を併合して国号を背乗りしていたようですが

その後もいわゆる日高見王朝は

日本(ヒノモト)という国号を使っていたようです。

 

したがって、私の認識では、

東北を侵略したのは日本人ではなく

百済人とその手先。

 

縄文人弥生人とは性質が違います。

北方騎馬民族そのものですから。

 

 * * * * * * *

 

ところで、邪馬台国九州説の安本美典氏、

古田武彦氏、福永晋三氏、内倉武久氏を

はじめとする一大勢力は、邪馬台国東遷

によって福岡の地名が奈良にうつされた

という説をとっていますが、これを

饒速日尊の河内降臨によるものだとし

邪馬台国は纏向に東遷していない、

と説く人もいらっしゃいます。

 

考えてみればそうかも知れませんね・・・

九州説の中にも、東遷は奈良時代より後だ

という意見もありますから。

 

どういう事かと言えば、続日本紀には

隕石に関する記述が多いけれど、これは

鶴見火山伽藍岳からの火山弾だ、都は九州にあった

というわけです。

 

その前の有名な煬帝への遣隋使ですが

聖徳太子ではなくアメのタリシヒコないし

アマのタラシホコからの遣使だった事が

中国側では記録されており、阿蘇山

崇拝されている様子も描かれているのです。

 

 * * * * * * *

 

安本美典氏は即位年を統計的に分析し

神武天皇即位は271年頃とされています。

 

九州内というか筑豊の神社伝承によると

「初代・神武天皇」は筑豊を侵略した人

らしく、九州から外には出ていないようです。

考古学や他の伝承などを勘案すると出身地は

熊本の菊池地方らしく、狗古智卑狗をククチヒコ

と読む説と関係深そうです。鉄の矢じりの分布は

奈良周辺よりも九州の方が圧倒的に多いのですが

中でも菊池地方が多く、北部九州勢力にも勝っている。

 

けれど、熊本の中でも神武天皇を祀る神社が多いのは

菊池・山鹿ではなく天草!らしいです。

そして、アイラトビカズラのある菊鹿吾平山でなく

鹿児島の姶良郡などが吾平津媛の出身地とされるように

なった理由はよく分かりません。

「初代・神武による筑豊ヤマト征服」は

はじめ肥前・筑紫方面からだったが失敗し

豊後・豊前方面からに改めて成功した

という話のようですから、豊後水道とは

関係していますが。

 

薩摩・大隅を含む日向国の中心地は、

玉璧が出土した串間だったのかも知れませんが

筑豊を侵略した初代神武」と関係あるかは不明。

 

継体天皇の時代には女狭穂塚など西都原が

重視されていたようですが。

 

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ともかく九州のどこかから神武東征ないし

応神天皇の東遷がはじまったとして。

日本書紀は「遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の

青雲の白肩之津に至ります」としています。

その記述が正しければ、AD150~350年の河内湖Ⅰ時代

の話ではないか、とボート部経験のある人はおっしゃいます。

 

したがって、神武ないし応神天皇畝傍山あたりへの到達は

紀元82年前後ではない、という事になりそうです。

 

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記紀にある白肩津、白肩之津は生駒山麓の日下町よりも

2.3kmほど下った枚方・枚岡あたりかも知れないと

ボート部経験から記紀を読み解く人はおっしゃいます。

ヒラの山側がヒラ岡、海側がヒラ潟だったのではないかと。

その事からも河内淡水湖時代の話だと裏づけられると。

この点に関しては、安本美典氏の271年説が近いと。

710年頃の生駒山周辺(想像図)

なお、枚岡神社は出雲井町にあり、

出雲の日下町には久佐加神社があるという事で

「日下のクサカ」が出雲系の地名

である事も指摘されています。

 

さらに言えば枚岡神社は元春日ですから

もしかするとKuSaKaKaSuGaに変化したり

その逆だったりする可能性もあるのかなと

私は思ったりもします。

 

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ただ、「古代史の復元」には、

安本美典氏をもうならせるかも知れない面があります。

弥生時代後期初頭まで、九州の鉄矢じりは無茎のが多かった

けれど、後期中葉から、畿内と同様に有茎のが多くなる

という話です。

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2024/01/02/000000

もちろん、単純に新しい形式の有茎の方がよいなと

九州倭国の人々も思っただけの可能性がありますが。

 

また、方形周溝墓は、北摂茨木の東奈良遺跡のが最古で

弥生時代前期中頃に近畿地方ではじまったもの。

後期中葉になると九州北西部・糸島地方にも出現する。

という事で、「古代史の復元」では

「近畿勢力」ニギハヤヒ朝ヒノモトが

九州への影響力を持つようになったとし

九州勢力が近畿勢力に影響を及ぼしたのではない

としているわけです。

 

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私には前世の記憶があるわけでも何でもないのですが

父が守護の諸神霊様から御指導いただき

私の用語で言えばニニギ朝ヤマトが崇神朝ヤマト(イリ王朝)に

国東半島あたりで破れ、その後、ヤマトの名を継いだ崇神朝が

淡路島に駐屯している所へ、飛騨王朝の皇子が骨肉の争いを避け

亡命、崇神朝の娘と結婚し、東征3代目・神武(応神)天皇が生まれた

という話をうかがっているものの、私も父も考古学の知識がない頃の

話であり、それが正確なありのままの史実なのかは分からず

私は何事も吟味検証する性格のため、神話伝承や

考古学知識を取り入れているわけです。

 

こればっかりは、情報があまり公開されていないのもあり

少数の篤志家というか、金儲けなどそっちのけで

研究している人の知見を日々、取り入れているというか

吟味検証を続けているわけです。

 

崇神朝の評判はさておき、「古代」に

詳しくなると、白村江の戦いで大敗した後、

鮮卑族の王朝である唐と、匈奴の金氏新羅と、

扶余・高句麗系の百済王族という

北方騎馬民族が侵入して来た可能性があると

わかってくるわけで、国東半島あたりで

一度埋葬したヒミカ様を阿蘇ピンク石棺と

共に移し申し上げたかどうかはともかく、

古墳や寺院の移築、亡命百済王族による

九州倭国破壊、近畿日本侵略、

そして百済王族による東北日本侵略、

家康以降の松前藩による北海道侵略と

大本営による日本人虐待が続いてるというのが

大本営発表盲信をやめれば分かるかと思います。

 

新羅の昔氏・朴氏は倭人とされているので

匈奴の金氏新羅とは本来関係なく

伽倻の王族ではないのか?また、

金官伽耶の王族とされる金氏は

もともと匈奴の金氏新羅の関係者では?

といった疑問もわいてきます。

 

岡山の鬼の城は「朝鮮式山城」とされますが

白村江で敗れた後に、唐などの侵略に備えて

防衛拠点として築かれたと宣伝されています。

けれど、侵略者を監視するにしては海から離れている。

そんな所に軍をおいても敵は城まで攻めず

無視して通過するだけ、という指摘もあります。

実際は吉備の鉱山を監督する占領軍の施設ではないかと。

 

もともと隼人に近い沖永良部島出身の可能性がある

息長氏の神功皇后と紀氏の武内宿禰による

隼人侵略みたいな話も、実際は高句麗に負けて

侵略された事を隠して別人の事績を転嫁してる

のではないか、といった事が推測されるのです。

 

また鞠智城などは、唐などに備えるために築かれた

のではなく、もっと古い時代からのククチヒコなどの城

の可能性が高いわけです。

 

継体天皇の「神武東征」

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/08/27/170846

大部分の朝鮮びいきの方とは逆の見解になるでしょうが

現実を見てれば当然そうですよね。

凶悪な騎馬民族を美化して譲らない方がおかしい。

 

「だから右翼を支持しない」となるのが

最も重要な所で「だから右翼を支持する」という方は

現実を見ていないわけです、ミスリードを盲信するだけで。

 

政治的見解などの場合、自分の他にも同じ見解の方がいると

示すためにリンクを張っている事が多いです。

そうしなければ、大本営発表と異なる見解を示すと

精神異常扱いされ殺されかねないからでもあります。

 

極端な話、ひふみ神示なども、自分の意見と近いから

引用している、という側面もあります。

「大神様がおっしゃっているという事だから

絶対正しいはず!」と決めつけているわけではなく

右翼の話よりずっとすんなり理解できる、

大神様は「超々超々超々極左」だから、というのもあります。

何でも検証する姿勢はあります。検証できない段階では

間違ってるとも絶対そうだとも決めつけない。

 

「そうなのかもね」という程度で聞いてるけれど

嘘をついてる方はだいたいボロを出す。

矛盾したりする。

 

まずは現実を見る事、目の前で起こってるわけではない

過去の話や遠い地域の話は科学的・論理的に検証する事、

自分の見解が正しいと決めつけずに「新事実」を

吟味検証しながら取り入れていく事、日々これです。