超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

古代史の復元2 饒速日尊の統一

「古代史の復元」の紹介

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/12/29/022326

 

75 東海・関東地方統一

https://mb1527.thick.jp/N3-09-2higasinihon.html

一宮    香取神宮    千葉県香取市    経津主大神    饒速日尊   神武期

神代の時代に肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、

開拓を行いながら常陸国に勢力を伸ばした。

この際に出雲国の拓殖氏族によって農耕神として祀られたのが、

香取神宮の起源とされている。

 

参考:クナト神と鹿島

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/09/23/152040

 

鳥見神社    茨城県印西市平岡    饒速日命 

大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は、

土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫命を妃として宇摩志真知命を生んだ。

その後東征して印旛沼手賀沼利根川に囲まれた土地に土着したその部下が、

祭神の三神を産土神として祭り鳥見神社と称した。

一般に建御名方命出雲国譲りで建御雷命と争い、出雲から逃げて

信州に来たとなっているが、神社伝承をつなぐと、少し違うようである。

建御名方命は越国を統治しており、御雷命は饒速日である。

このことは、饒速日建御名方命に越国を譲らせたことになる。

建御名方命が来る前から饒速日尊は信濃国にいて、

建御名方命信濃国を開拓させたようである。

阿智神社の思兼命饒速日尊に従って大和に降臨した人物である。

饒速日尊に従っていたと思われる。

信濃国諏訪族・安曇族・阿智族の三系統の人々によって開拓されたようである。

 

参考:日月神示「諏訪 麻賀多 榛名 甲斐」

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/11/10/224102

 

76 饒速日巡回の役割

https://mb1527.thick.jp/nigihayahiyakuwari.html

漢式鏡は3期までは前漢で、4期から後漢となる。

AD20年ごろ以降、AD100年ごろまでが大体漢式4期の時代である。

漢式3期までは、北九州の特定墳墓より集中出土するが、

漢式4期からは全国分布しているのである。

しかも、4世紀以降の古墳に副葬されていることが多く、

製造時期と大きくずれている。

これは、それまでの期間どこかで大切に保管されてきたことを意味している。

1時間ぐらいで移動できる距離が妥当かと思われ、

最も離れたところで、5kmぐらいが限度と考える。

そうすると、一つの国の面積は大体100km2となる。平野でなければならず、

平野面積は大体北海道を除けば65000km2ほどとされている。

単純計算で650ほどの国があったことになる。

ヒノモトで考えるとその半分の300前後があったのではないかと考えられる。

饒速日尊はそれだけの数の後漢鏡を手に入れればよいわけであり、

不可能なほどの数ではない。

今でも神社では祭りが行われ、人々の集会がよく行われている。

神社の由緒というものはその土地の人々にとって

心のよりどころとなるものであり、昔から大切にされてきたと思われ、

これが、現在神社伝承として残っていると考えている。

そのため、神社伝承はかなり真実の部分を含んでいるのではないかと考えている。

 大国主命という名は固有名詞ではなく、普通名詞ではないかと思う。

大国=大きな国=倭国・ヒノモトを意味し、

その主=国王となれば、倭国王・ヒノモト国王を大国主命と呼ぶことになる。

 饒速日尊=大国主命ではあるが、

饒速日尊が後の時代に抹殺されることになったので、

大己貴命大国主命のみが残ることになったと考える。

 

77 近江国開拓

https://mb1527.thick.jp/oumikaitaku.html

AD32年ごろ思兼命と和歌姫は結婚したものと考える。

結婚後の二人が住んでいた地は紀州一宮日前宮・国懸宮の地ではないだろうか。

この地で長子天御影命が誕生していると思われる。

和歌姫と結婚したばかりの思兼命は、早速、近江国にやってきた。

 思兼命は知恵の神と言われているように知恵のある人物だったようで、

粘り強い交渉の結果、この地方の人々は、

ヒノモトに加盟することに成功した。この地で天表春命が生誕した。

 思兼命が饒速日尊から任されたのは、

飛騨国との関係維持と伊吹山周辺での製鉄事業の開拓である。

伊吹山麓の強風を利用した製鉄事業を始めたと思われる。そして、

長子の天御影命にその技術を継承させた。天御影命は製鉄事業を引き継ぎ、

美濃国から近江国にかけて製鉄の基礎を築き、

鍛冶の神とされる天目一箇神とも呼ばれるようになり、

後に三上山の麓の御上神社主祭神として祭られるようになった。

思兼命家族は天御影命が近江国の開拓を行い、

思兼命・表春命は信濃国の阿智に赴いたと伝えられているが

妻の和歌姫に関してはここで、伝承が消えているのである。

和歌姫は丹生都姫とも呼ばれており丹(朱)の神としても知られている。

縄文人は1万年もの長期にわたって平和に暮らしており、

芸術・装飾に力を入れていた。饒速日尊は日本列島を統一するために

縄文人の多い東日本一帯に赴くことになった。

この時縄文人集落に行ったときに何か手土産があれば、

縄文人と交流しやすいはずである。

その手土産に朱を用いたのではないだろうか。

紀伊半島には辰砂が産出するところが多く

弥生時代後期から本格的に採取が始まっているようである。

 

91 東倭青銅器祭祀の終焉

https://mb1527.thick.jp/koujindani.html

 猿田彦命が北九州地方を統治していた頃,

大和国王になった饒速日尊が,畿内で銅鐸を生産することに限界が生じ,

猿田彦命に,菱環紐式銅鐸と外縁紐式銅鐸 をサンプルとして渡し,

同じものを生産してくれるように頼んだ。

猿田彦命は,頼まれたとおり銅鐸を生産して饒速日尊の一族に渡していたが,

国譲り事件の後猿田彦命が出雲に移ることになり,

饒速日尊から受け取った銅鐸と自ら製作した青銅器を

出雲に持ち込んだものと考える。

このように考えると,出土している銅鐸と銅矛に関する特徴が説明できる。

 

94 漢委奴国王 女王日向津姫誕生

https://mb1527.thick.jp/N3-11kinin.htm

ヒナ国(日向)=イナ国? 倭の最南端

 

96 越国国譲り

https://mb1527.thick.jp/N3-09-5higasinihon.html

大己貴命が越国を統一したのがAD20年頃で、

饒速日尊が越国国譲りを成功させたのがAD50年頃と思われる。

大己貴命は越国統一後その子建御名方命に国を任せていたようである。

考古学上の遺物も出雲によって統一された割には出雲系遺物が少なく、

間もなく、畿内系遺物が多く出土するようになる。

これは、越国が出雲の支配下にあった期間は短く、

すぐ後に畿内支配下に下ったことを意味している。

伝承上でもそれは裏付けられたことになる。

 

114 倭国・ヒノモト合併交渉
https://mb1527.thick.jp/N3-12-1gappei.html

後期中葉より糸島に方形周溝墓が出現、

畿内系土器が集中的に出土するようになる。

後期中葉に中国地方に方形周溝墓が出現しない。

日向(当時は大隅・薩摩を含む)にもこの時点で方形周溝墓が出現しない

 

115 銅鐸について

https://mb1527.thick.jp/N3-13doutaku.htm

銅鐸が東日本地域に急激に広まっている。

それまで,鳴り物であった銅鐸が巨大化し,見るのが目的になってきた。

銅鐸にはほとんどすべてに鋸歯文が刻まれ,

銅鐸鋳造の時,絵の部分がはっきりしない場合,そのままになっているが,

鋸歯紋がはっきりしない場合は追刻をしている。

これは,銅鐸の鋸歯紋に特別な意味があることを意味している。

鋸歯文はニギハヤヒの霊廟である三輪山の形を表したもので,

ニギハヤヒのシンボルであり,

大和朝廷のシンボルとして使われていたと考えられる。

 

I 菱環紐式と,II 外縁付紐式の一部が朝鮮半島の青銅から作られていて,

それ以降華北の青銅から作られていることが分かっている

 

銅鐸の鋳型が出土したのは北九州の四遺跡と近畿地方の九遺跡であり,

鋳型の出土量から考えて,畿内に匹敵するほどの需要があったと考えられるが,

北九州からは銅鐸本体はほとんど見つかっていない。

作られた銅鐸はどこへ行ったのだろうか。

 銅鐸の鋳型の紋様は畿内と九州に共通するものがあり,

畿内勢力が北九州勢力に銅鐸を作らせたと考えれば説明が付く。

おそらく,ニギハヤヒ畿内に持ち込んだ技術や青銅では大量生産が

できないため,北九州に頼み込み,外縁付紐式の銅鐸を生産してもらい、

できた銅鐸を中国地方や近畿地方に持ち帰ったものと考える。

そのために,青銅の成分に変化が起こったと考える。

その証拠にII 外縁付紐式の銅鐸の分布領域は他の銅鐸よりも西に偏っている

サルタヒコの本拠地と考えられる福岡県春日市周辺から,銅鐸の鋳型が

出土しているということから,青銅不足に悩んでいたニギハヤヒが,

その子であるサルタヒコに銅鐸の製造を頼んだということが推定される。

畿内で重要な意味を持つ銅鐸を,

全く関係ない勢力に頼むと言うことは考えにくく,

自分の子供がいたからこそできたことではないだろうか。

また,山陰地方II 外縁付紐式銅鐸の出土が多いが,

これもサルタヒコによって,もたらされたものと考える。

 

III 扁平紐式銅鐸は,東部瀬戸内沿岸地方から畿内にかけての分布である。

この銅鐸は後期中葉あたりのもので大和朝廷成立後のものと推定され,

平型銅剣との共伴が多い。平型銅剣にニギハヤヒのシンボルである

鋸歯文が刻み込まれ,このような出土状況になったと考える。

 

116 大和朝廷成立
https://mb1527.thick.jp/N3-14yamatochoutei.htm

第三項 土器について

 後期中葉になると,西日本の広い範囲で畿内系土器が出土するようになる。

畿内に,各地方の土器が出土するわけではない。

 方形周溝墓が出現している北九州北西部では,

畿内系の高坏が出土するようになる。

これは,高坏は祭祀土器であることから,北九州北西部で

畿内系の祭祀が行われるようになったことを示している。

その他の地方で出土する畿内系の土器に祭祀系のものが見られないことから,

北九州北西部大和朝廷にとって外国交易上特別な場所であり,

特別な役人を配置して,重点支配したものと考えられる。

 

第四項 鉄器について

下のグラフは、九州地方と中四国近畿地方で出土した鉄鏃のうち

有茎のものが占める割合を各時期毎に表わしたものである。これを見ると、

後期初頭までは,鉄鏃の分布領域がきれいに分かれていたが,

後期中葉以降,九州に畿内系の有茎鉄鏃が見られるようになることがわかる。

鏃(ゾク)=矢尻(矢の尖った先端)

*だいたいこんな感じという「イメージ」です。パソコン作図の都合で。

そして,有茎鉄鏃の占める割合は,時が経つにつれて増加する傾向にあり,

終末期には畿内の比率に近くなっている。

しかし,九州系の鉄鏃は,九州から外へ出る傾向は見られない

次第に出土比率が減少しているのである。

これは後期中葉あたりに大和朝廷が成立して、畿内の勢力が

九州に及ぶようになったためと考えられる。

 槍鉋も,後期中葉以降,九州系のAタイプは広島地方には一部見られるが,

それ以外に九州の外に出る傾向は見られない。

 それに対し、中期末に中国地方に発したBタイプの槍鉋

九州へ入り込んでいる上に、後期後葉には全国に分布するようになっている。

瀬戸内系の土器が中期末に畿内で出土するようになっていることから推察して、

瀬戸内地域から畿内に流れたBタイプ槍鉋畿内勢力によって

地方にばら撒かれたと考えることができる。

 後期中葉に広島県下に九州系槍鉋が出土するのは、同じ時期

広島県地方に大分系土器が出土するのと共通であり、

大分宇佐地方からの集団移住があったためと考えられる。

 鉄剣は後期中葉以降,関東地方までの広範囲に分布するような傾向が見られる。

特に,関東地方では,他の鉄器はほとんど存在しないのに,

鉄剣のみよく出土する。

この鉄剣は短剣タイプが多い。 *実際は槍の先かも知れない。

中国(大陸)ではこの時期鉄剣から鉄刀に主力が移り,

日本列島でも鉄刀がかなり出土しているが,

より実践的な鉄刀はほとんどが九州からの出土である。 *刃が片側で反ってる?

 

第五項 漢鏡について

漢式三期までは前漢と言われているが,極一部を除いて,

すべてが北九州の特定地域からのみ出土している。

漢式四期になると,関東地方から南九州地方まで,全国分布をしているのである。

漢式四期の鏡は一世紀後半の鏡と考えられている。

 漢式三期までは鋳造時期と副葬時期にそれほど差が見られず,

そのほとんどは特定の墳墓からの集中出土である。

当時の特定の有力者が鏡を独占し,個人の持ち物だったことがうかがわれる。

 漢式五期以降は鋳造時期と副葬時期にずれが見られる。

終末に副葬されることもあれば,古墳時代になってから副葬されることもある。

共同体の持ち物になったことがうかがわれる。

 漢式四期はこの両方の性格が見られ,後期初頭の北九州の墳墓

から出てくる四期の鏡は三期までと同じく集中出土の傾向があるが,

全国分布している四期の鏡は五期以降と同じ傾向にある。

 これは,鏡の出土傾向に変化が起こったのは

四期にあたる時期であることを意味している。

四期は一世紀後半頃と推定されている。それまで,

北九州の一部有力者が独占していた鏡を

大和朝廷が全国に配布したと考えれば説明が付く。

 

小型方製鏡について

第1期

 方格規矩鏡を中心とする中国鏡の流入時期とほぼ一致し,

後期初頭から前半にかけての時期と考えられている。その分布は,

朝鮮半島南部・対馬・宮崎県以外の九州一帯・瀬戸内沿岸地方である。

第2期

中国鏡の長宣子孫内行花文鏡の時期に当たり,弥生時代後期中頃から

後半にかけての時期と考えられている。

その分布は,北部九州を核とし半島南部から近畿地方までの分布である。

本格的な国産化が行われたと考えられ,

その生産拠点は北部九州であると考えられる

第3期

 弥生時代後期から終末期に当たり,その分布は,近畿地方を中心として,

北陸・東海・関東地方への広がりを見せる。

 生産拠点が北部九州から近畿地方に移動したと考えられる。

土器や墓制から考えて,鋳鏡工人が移動したと言うよりも

近畿弥生人が作り出したと考えられる。

第4期

 弥生時代終末から古墳時代前期に当たる。

第3期と同じく近畿地方を中心とする分布である。

九州地方からの出土は今の所ない。 

伝承との整合性

 第1期の後期初頭の鏡が分布している領域は,

スサノオが統一したと推定される領域と一致しているため,

スサノオによって統一された結果,

その範囲で鏡が流通するようになったためと考えられる。

 第2期は,大和朝廷が成立した結果,近畿地方も統一政権の領域に

入ったために,畿内へ鏡が流入するようになったと説明できる。

 第3期は,それまで北九州地方を一大卒の自治にまかせていた大和朝廷が,

倭の大乱を契機として直轄地にし,

方製鏡の製造拠点を畿内に移したためと考えられる。

 第4期は,邪馬台国時代に魏の技術導入によって変化したものと

とらえることができる。

 

第七項 銅鏃について *茎については鉄鏃を参照してね。

 銅鏃は青銅製の鏃で中国では,戦国時代から

漢代にかけて無茎のものが使われていた。

日本では,弥生時代前期から中期にかけて流入したようである。

出土の状況をまとめてみると,

①中期以前の出土地域は,近畿・北九州を中心とし,

瀬戸内海沿岸地方に見られる。

②中期以前はすべて無茎の銅鏃である。

 ③人骨に突き刺さった状況で出土することも多いため,

実用されていたと考えらる。

④弥生後期に入ってから国産化されたようである。

弥生後期に出土するものはすべて,有茎である。

⑤弥生後期になってから分布の範囲は広がり,

 弥生後期中頃には,関東地方から九州地方まで分布するようになる。

分布の中心は畿内であるが,近畿から東海地方にかけて集中的に出土する。

銅鏃も,九州中心の分布の時期は無茎で,畿内中心の時期になると有茎化する。

これも,後期中頃あたりに大和朝廷の成立があったことを裏付けている。

 

巴形銅器

 副葬の仕方などから判断して宝器として使っていたことがうかがわれる。

墓の副葬品や共伴遺物から後期初頭に出現したと考えられる。

・後期前半は北九州を中心とし,中国・四国地方までに限られている。

 佐賀県吉野ヶ里遺跡から鋳型が見つかったことから

 後期前半は北九州地方で製作されていたことがわかる。

・後期後半になり,関東地方まで分布するようになっている。

 後期前半までは倭国の領域と分布領域が重なっているが,

 後期中頃以降関東地方までの分布に変わり,

これも大和朝廷成立の影響と考えられる。

 

第九項 銅釧

 元々貝製の腕輪を青銅で模したものである。

貝製のものは縄文時代から存在したが,弥生前期後半あたりから,

ゴホウラ・イモガイなどの南海産の大型巻き貝を用いたものが出現している。

弥生後期になってそれらが衰退していく代わりに青銅器として登場してくる。

 その形によりいくつかに分類される。

円環型 原型は楽浪。北九州対馬の中期から後期にかけての墳墓から

出土するのがほとんどであるが,一部,山陰大阪湾沿岸地方に見られる。

イモガイ 弥生中期末頃に使われたもので,北九州地方のみの出土である。

ゴホウラ形 弥生中期末から後期にかけて存在する。その分布は,

西北九州を中心として,一部拠点的に近畿・東海・関東にも見られる。

帯状円環型 弥生時代後期に属するのがほとんどで,

一部は古墳時代にかかるものもあると考えられる。

 中部地方と関東地方に分布する。

他の青銅器と同様な変化に従っていると考えられる。

 

第十項 方形周溝墓について

後期初頭までは,近畿地方以東にしか存在しなかったものが,

後期中葉以降,九州と四国地方に出現するようになる。

九州に出現する方形周溝墓は,九州北西部の,福岡市南部及び,糸島地方で,

北部九州の中心部と言われている場所の周辺と球磨国である。

 方形周溝墓は畿内勢力の祭祀を受け入れた地域に出現するニギハヤヒ祭祀者

の墓なので,九州と四国地方が,畿内系祭祀を受け入れたことになる。

南九州(日向)地方と山陰(出雲)山陽(吉備)地方には,この時点で

まだ出現しないが,これは,共に,大和朝廷の聖地であるために,

自治にまかせていたためと考えられる。

 

第十一項 副葬品について

 後期中葉になると,全国的に副葬品が乏しくなる。

鏡にしても鉄器にしても後期中葉の墳墓からは

全くといってもいいほど出土しない

王墓と考えられる墳墓が消滅するのである。

 漢式四期以前の鏡は,鋳造時期と副葬される時期にほとんど差がないが,

これ以降は大きくずれる傾向が出てくる。

つまり,伝世するようになっているのである。

 この傾向は九州を含む全国で一斉に起こっている。

これは,地方から有力者が消滅し,それまで有力者が持っていた

宝器は共同体の持ち物になったためと推定される。

 

第十二項 北九州北西部の住居

前期または中期に形成されたものは後期初頭あたりまで続くが

後期中頃を境に断絶する傾向がある。

集落内の特定の小集団に鉄器や後漢鏡片が集中するようになる。

その領域には畿内系土器の出土が多い。

また,高床倉庫に見られる食糧管理の集中化も起きている。

これらの変化はいずれも後期中頃に現れる。

大和朝廷が成立して,この地に朝廷の役人が派遣されてきたとすれば説明できる。

 

第十三項 まとめ

ここに挙げた土器・鉄器・青銅器・墓制・副葬品・住居跡などの考古学的事実は,

いずれも,後期中葉に大きな変化が起こっており,畿内勢力が急激に

関東地方から九州地方まで勢力を伸ばしていたことを示している。

 系図から計算した大和朝廷の成立年代は80年頃で,

魏志倭人伝邪馬台国成立年代とも一致している。

 倭国大乱(後漢書によると147~189年の間)の70から80年前に,

邪馬台国大和朝廷)が成立したことになる。

逆算すると,紀元67年から119年の間となり,

この復元古代史の推定する大和朝廷の成立時期と一致する。

 一般には大和朝廷成立は四世紀以降で,一世紀には国家概念も十分でない時期で

とても統一国家の存在は考えられないと言われているが,前に述べたように

大和朝廷は宗教統一であるからこそ,

国家概念が不十分である一世紀に成立したのである。

 

第十四項 神武天皇東遷

 サヌは旅立つのにあたって、もう二度と会えないであろう、

さまざまな人に挨拶をすることになった。

まず、柏原から鹿屋、宮浦宮を通って西へ向かい鹿児島神宮

ヒコホホデミに挨拶をした。そして、再び柏原に戻り、柏原海岸から

串間へ向けて出航した。串間には数年前になくなったムカツヒメの墓

(王の山)があったからである。そこから再び船に乗り、

油津のアビラツヒメに別れを告げた。

宮崎でも人々に別れを告げ、宮崎から方々に挨拶をしながら陸路をとおり、

美々津海岸より日向国を出航した。

 宇佐にいたスサノオの娘であるイチキシマヒメ(60歳程と思われる)が、

安芸国までついて来ているようである。イチキシマヒメ一行はそのまま安芸に

滞在している。サヌ一行は1年半(半年一年暦で3年)程安芸国に滞在している。

 可愛村宮之城で休息し比婆郡庄原市の本村川を遡って葦嶽山(日本ピラミッド)

に登り、鏡岩(神武岩)を祭壇として遥か比婆山の国母イザナミを祭った。

そして、出雲に使者を立てて都を大和に移す素志を述べて諒解を求めた。

このとき出雲のコトシロヌシへの使者は本村川を遡って帝釈を通り、

戸宇→八幡の地を経て出雲国へ入った。これを諒としたコトシロヌシは、

その誓約のしるしとして、比婆山に宝剣を埋めたと伝える。

 また、サヌは安芸国から島根県邑智郡郷の内に行幸し山に登って

諸国をご覧になったところ諸山はことごとく石のように見えたので

石見国と名づけた。とも伝える。

 福山市金江町にある「天津盤境」と呼ばれている遺跡は

松永港に聳える御陰山に対峙する磐田山の山頂付近に設けられた祭壇で、

そこから、弥生式の祭具の破片が出土している。

ここは神武帝の祭祀の跡と伝えている。

 広島県内では東倭に所属しても後期中葉以降畿内系土器は散見し

畿内の技術者が訪問してきているようである。

 吉備国高島宮で3年半(半年一年暦で7年)滞在したようである。

 唐古鍵遺跡から三輪山山頂に太陽が昇ってくるのが見られるのが冬至の日

であるから、おそらく冬至の日が当時の一月一日であろう。よって、

神武天皇が即位したのはAD82年12月22日あたりということになるが、定かではない。

 栗原基氏著「新説日本の始まり」によると広島県高田郡向原町の大土山に

住んでいた市杵島姫の子供が行方不明になったのをきっかけとして,

向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→東広島市志和町奥屋→

広島市瀬野川町東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→生口島大崎上島矢弓

大崎上島木ノ江→江田島町伊関廿日市市宮内→大竹市→宮島町と

転々と移動している。

 この滞在の地にはいずれも厳島神社が存在している。そして,

この転々としている領域と同時期の大分系土器の出土する領域が一致している。

大土山のある向原町には,水田の跡と考えられる伝承地が点在している。

この伝承地は神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、

神武天皇の行動と内容がよく似ている伝承もある。

また、厳島神社神武天皇を祀ったものと思われえるが、

市杵島姫を祀っているのも事実である。

市杵島姫と神武天皇は同時に広島へやってきたのではないかと考えている。

⑫ 広島県南西部にのみ大分系土器が弥生時代

後期中頃(1世紀後半から2世紀初頭)に出土する。

⑬ 大分系土器出土地域に厳島神社があり、

この地域には素戔嗚尊統一伝承がない。

 この時期のみ大分県地方からの人々の流入があったことを意味する。

一方的で一時期のみであるから計画的な移動と思われる。

移動の目的は市杵島姫に協力して拠点づくりをするためであろう。

大分系土器が出土する地域は素戔嗚統一伝承のない地域で、

且つ、出雲系土器の出土しない地域の海岸線である。