超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

古代史の復元3 神武と倭日合併

「古代史の復元」の紹介

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/12/29/022326

 

119 神武天皇日向発港
https://mb1527.thick.jp/N3-15-1tousen2.html

一説には狭野命は美々津までは陸路を通ってきたというが、

ここまでの立ち寄り伝承地の多くは海岸(河口)であり、

船が繋ぎとめられる場所である。

陸路を通った場合はこのような場所に伝承地が数多くできるとは思えない。

以上の点から狭野命一行は海路美々津まで来たと判断する。

 北九州と日向を物資交流する時、ここから北は豊予海峡という難所が続くため、

往路・復路共に船の修繕を必要としたのであろう。

そのために、美々津は造船・漕船の海洋技術の先端地となったのである。

 

123 吉備国高嶋宮

https://mb1527.thick.jp/N3-15-1tousen6.html

大和朝廷成立後(弥生時代後期中頃以降)、

芦田川流域から、三次地方にかけて出土する外来系土器が

出雲系から畿内系にかわるのである。これは、朝廷成立後出雲との交流は

大和朝廷主体で行われていることを意味している。その拠点が田尻の地であろう。

 

124 熊野迂回経路

https://mb1527.thick.jp/N3-15-2tousen.html

須賀神社

徐福が求めたといわれる天台烏薬は日本では、

日向の高千穂と熊野以外には自生しないため、

神武天皇が東征の途上、この地に植えたのだとする説もある。

佐野命の新宮への上陸伝承地

 

125 神武天皇大和進入

https://mb1527.thick.jp/N3-15-3tousen2.html

*リンクされてる地図は見れないようです。

高城岳北東には出雲系の神社が多く、南西には日向系の神社が多い。

熊本県天草地方は神武天皇を祀った神社が全国一多い

 

127 三天皇即位   

綏靖・安寧・懿徳三天皇の即位年特定

https://mb1527.thick.jp/N3-16-2santennou.html

地図ソフトによる計測では

三輪山山頂・神武天皇陵中心付近間の距離は8360m、

神武天皇陵・鏡作神社本殿間は8340m、

鏡作神社・三輪山山頂間の距離は8360mと

驚くほど正確な正三角形

 

133 新羅の建国

https://mb1527.thick.jp/N1-04-1siragi.html

『北史』新羅

 新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、

 前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、

 秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、

 ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。

 辰韓初め六国だったが、十二国に細分した、新羅はその一国なり。

 あるいは魏の将軍の毋丘儉が高麗を討ち破ると、高句麗は 沃沮に奔走、

 その後、故国に復帰したが、居留する者があり、遂に新羅を立てた、

 斯盧ともいう

新羅には二つあるように思える。

遼東に居を置いた新羅朝鮮半島南東部に居を置く新羅

前者を新羅A、後者を新羅Bとしよう。

倭と深い関係にあったのは新羅Bである。

新羅本紀に描かれている新羅新羅Bと思われる。

以降は新羅Bを新羅として論ずることとする。

 

134 百済の建国

https://mb1527.thick.jp/N1-03-3kudara.html

国史尉仇台を百済の祖と記している。

三国史記だけ高句麗の始祖である朱蒙の三子温祚が百済を建国したと主張する。

温祚が即位したのは、古代史の復元での年代では164年である。

温祚が尉仇台の子(あるいは孫)と考えれば、両者はつながる。

三国史記は半年1年暦で年代 がくるっていることに気づかず、

年代の一致する朱蒙の子としたのではあるまいか。

公孫度は、夫餘が高句麗鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため

夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、

故地に残留した旧扶余

公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。

このときの尉仇台系の扶余が韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。

扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、

その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。


136 孝霊天皇とその皇子たち

https://mb1527.thick.jp/N3-16-11koureiitizoku.html

雀部家の記録は、持統天皇記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。

他に春日臣安部氏穂積氏十六家の系図が没収の憂き目にあっているらしい。

済州島出身と考えられる背乗り安倍氏は無関係かと。


140 月支国王来襲 *紛らわしいが大月氏、小月氏とは別かと。

https://mb1527.thick.jp/N3-18-4gessikoku.html

孝霊61年朝鮮半島の月支国の船団が来襲したという伝承が

日御崎神社に伝わっている。

孝霊天皇関連伝承において、孝霊61年より前は戦いの伝承が存在しないが、

これ以降積極的に武力を使っている伝承が残されている。

月支国の来襲は孝霊天皇に大きな影響を与えたものと思われる。

この頃吉備国では、吉備津彦の活躍が目覚ましく、

出雲国の拠点が次々と落とされていったのである。

このままでは、吉備津彦吉備国を平定し、出雲にやってくるのは

時間の問題であった。出雲振根

月支国軍の援軍を得て吉備津彦軍との戦いに備えようとしたのであろう。

月支国軍は月支国から朝鮮半島東岸を南下し、

新羅国の浦項の迎日湾に軍船を集結し、

新羅国の援助を受けて、日本海に船出をし、

孝霊61年日御崎沖に大挙してやってきたものであろう。

しかしながら上陸直前に嵐によって軍船の大半が沈んでしまったと考えられる。

 

145 吉備津彦出雲侵入

https://mb1527.thick.jp/N3-18-11kibituhikoizumo.html

孝霊天皇伊弉諾尊の伝承の一致

 この大乱が,黄泉国神話の基となっているとすれば,

イザナギ孝霊天皇となり

その子である三貴子(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)は

アマテラス=倭迹迹日百襲姫で,

ツキヨミ=大吉備津彦命彦狭島命で,

スサノオ=若建吉備津彦命(稚武彦)となる。

この三人は,大乱の後の和平交渉(禊)により、

 倭迹迹日百襲姫が大和(高天原を治め,

 大吉備津日子彦狭島命)が吉備国で祭祀(夜の食国)を,

 若建吉備津日子(稚武彦)が鬼(山賊・海賊)の平定(海原)

することになったのと大変よく対応している。

またスサノオ高天原を追放されて出雲に降り立った

最初の地は「鳥髪」となっているが

これは中国山地の奥地で, 海上からこの地に最初につくのは難しい。

若建吉備津彦吉備国を平定後,

阿毘縁の関を打ち破って斐伊川沿いに進んだとき,

出雲国で最初に着くのがまさに「鳥上」である。

イザナギは妻であるイザナミが亡くなったのち黄泉国へ行っているが、

孝霊天皇は皇后である細姫を伯耆国平定(国生み)中失っている。

(死因は皇子出産によるものか?)

その後、出雲を攻めているのである。出雲国風土記によると、

城名樋山の項に「天の下をお造りになった大神大穴持命が、

八十神を討とうとして砦を作った。だから、城名樋という。」とある。

この城名樋山は木次町里方にある城名樋山といわれている。

この山が出雲振根が陣を張った山ではないだろうか。

出雲・伯耆に残る出雲系神話に登場する人物を、

出雲国王=大穴持

八十神=大和朝廷とすると、

大変よく倭の大乱に照合するのである。このように考えると、

この山こそ出雲振根が吉備津彦に対抗するために陣を張った山に該当する。

 

吉備津彦の陣のあった天辺とは斐伊川を挟んで向かい合う位置であり、

互いに様子を伺うには良い位置関係にある。

斐伊川と赤川が合流する下神原の地に兄塚(草枕麓)がある。

出雲振根の墓と伝えられている。

近くに草枕山がある。この山にヤマタノオロチの伝承が伝わっている。

「神代の昔、簸の川上で毒酒を飲んだ大蛇が、素盞嗚尊に追い立てられ、

転々苦悶して川を下り、この地まで流れ来て、草を枕に伸き居る所を、

尊は遂に其の八頭 を斬り給うた所である。」

一説には出雲振根はここに追い詰められ、自害したと伝えられている。

出雲振根の終焉の地とヤマタノオロチの終焉の地

二つの伝承が非常に似通った位置にある。

出雲振根がヤマタノオロチとして言い伝えられていると判断される。

大原郡大東町幡屋(現雲南市)に石井谷がある。

この地はその昔大国主命八十神を討伐したところと言い伝えられている。

大国主は八十神に対して敗北した伝承 あるいは陣地を作ったという伝承があるが

八十神を討伐したというのは知る限りここのみである。

おそらく、この地が出雲軍吉備津彦を撃破した地であろう。

この地には吉備津彦が意宇の方面よりやってきて

天場幡屋内の字)の地で神事を行なった。」という伝承もある。

吉備津彦斐伊川沿いに 下っている伝承の方がはるかに具体的であるので、

意宇方面からやってきたのは出雲軍ではないだろうか。


146 孝霊天皇出雲侵入

https://mb1527.thick.jp/N3-18-12koureiizumo.html

黄泉国とはイザナミが死んだ国で,

イザナミ陵があることから,出雲国と考えられる。

イザナギ命の行動の跡は,出雲地方周辺に全く見られないことと,

黄泉津平坂は島根県揖屋の地にあり,

出雲の東側出雲中心地入口にあたることから考えて,

これは,出雲と対戦した相手が,出雲の東側に存在し,

イザナギのいた日向地方ではないことを意味している。

*見れない地図
ttp://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4
 2019年3月4日に停止された旧国土地理院地図らしい。

 

147 幼少時の卑弥呼

https://mb1527.thick.jp/momosohime.html

山陰地方と,瀬戸内沿岸地方の青銅祭祀は終わりを告げ,そのかわり,

素盞嗚尊祭祀者が全国に派遣され,出雲系土器が全国分布するようになった。

そしてその双方の祭祀を統一するため, その中間地である吉備国を中心として

新しい祭祀形態(巨大墳丘墓による祭祀)が始まることになるのである。

大物主の神(饒速日尊)の妻という地位、すなわち邪馬台国女王卑弥呼の誕生。

出雲の人々にも知らしめるためにも、

結婚式は大和ではなく出雲国の近くで行なわれる必要があった。

しかし、大物主神との結婚式には三輪山がどうしても必要なのである。

そこで、鳥取県の大山を 三輪山に見立てて冬至の日に大山山頂から太陽が

昇ってくる位置に宮を造り盛大に就任の儀式を行なった。

淀江町小波の三輪神社である。

この三輪神社は、江戸時代の初期までは現在の場所から南東に

約1キロメートル離れた小波三輪山にあり

壮麗な社殿や大鳥居、三重塔のある神宮寺などが

立ち並んでいた時期もあったということである。

この旧社地こそ、大山山頂から冬至の日に太陽が昇る位置である。

以降百襲姫は卑弥呼(日霊女)呼ばれることになった。

200年ごろ大陸から二十四節気の導入により

一年でもっとも大切な日が冬至の日から立春の日に変わった。

このとき、大神山神社の地も創始の位置から岸本町丸山の地に移った。

この地は立春の日に大山山頂から太陽が昇ってくるのを見ることができる。

淀江町の佐陀・中間・小波・平岡地区を合わせて「大和村」と呼ばれていた。

この三輪神社の氏神大和国とつながっている由緒にもとづいている。

倭迹迹日百襲姫は吉備国でも結婚の儀式を行なった。

その位置が総社市三輪山から冬至の日に

太陽が昇ってくるのを見ることができる正木山(麻佐岐神社)の麓である。 

大物主の妻とは神に仕えるのではなくて,

大和最高神饒速日と同等の地位に着くわけであるから

天皇といえども逆らえず,

当時の大和朝廷の実質的最高権力者となるものであった。

饒速日尊の妻であれば,同時に,素盞嗚尊の娘となるわけであるから,

出雲朝廷双方の心を繋ぐにはちょうどよいのである。


148 和平交渉、百襲姫、卑弥呼就任

https://mb1527.thick.jp/N3-18-13wahei.html

倭の大乱収拾のため、倭迹迹日百襲姫は讃岐国田村神社の地から

吉備中山を経由して菊理神社の地にやってきて、

ここで朝廷側・出雲側の言い分を聞き、双方に収拾案を提示したのである。

これは,素盞嗚尊を形の上で朝廷の上に位置させ,

同時に朝廷が出雲国造サルタヒコの血を引く天穂日命一族から任命する

もので,双方を 立てるという苦肉の策である。

これは,後の時代における神賀詞の原型である。

(神賀詞とは平安時代に出雲の国造が都に上り、

朝廷に勾玉を献上すると共に天皇の 前で出雲大神の言葉を伝えるもので、

朝廷はこのときすべての業務を停止してその言葉を聞き入ったそうである。)

 そして、朝廷から役人が派遣され、方形周溝墓が中国地方に出現することになる。

稚武彦は祭祀を大和でも出雲でもない地を選んで研究していく必要があり,

その中間点として吉備国が最良であると申し出た。出雲も朝廷も共に承諾し,

吉備中山周辺にその拠点を設け巨大墳墓や特殊器台の開発にかかわった。

彼の墓はおそらく楯築遺跡であろう。彼は大吉備津彦と間違えられて伝えられた。

孝霊天皇の皇子たちは孝霊天皇と共に出雲を攻めているので、

孝霊天皇の皇子が次の皇位に就くことも認められなかった。

そこで名前が挙がったのが神武天皇の長男で日子八井耳命の系統の

雀部臣の子である国牽尊(クニクル)が以前より,素盞嗚尊祭祀に

理解を示していた関係で第八代天皇孝元天皇)に推挙された。

 孝元天皇孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、

神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天皇だという。

原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。

纏向遺跡は180年ごろから大きくなり始めている。

 

149 大乱後の改革

https://mb1527.thick.jp/N3-19kaikaku.htm

第一項    四隅突出型墳丘墓

四隅突出型墳丘墓は古墳時代になると,方墳と入れ替わるように姿を消している。

方墳と四隅突出型墳丘墓の関係を考えてみよう。

方墳四隅突出型墳丘墓同じ地域で群集墳を造っている。

②同じ時期に共存している様子がない。

③四隅突出型墳丘墓も方墳もその分布の中心は出雲にある。

④四隅突出型墳丘墓も方墳も周溝がない

方形周溝墓、円墳、前方後円墳周溝があり、さらに同じ地域に

群集墳を作っていることもあるので、これらとは別系統と考えられる。

これらのことより、

四隅突出型墳丘墓が方墳や前方後方墳に変化したものと考えられる。

四隅突出型墳丘墓は王以外が対等であるといった考え方から生まれた墳丘墓で,

階級がピラミッド構造をしてくると都合が悪くなり、

一方向からの祭礼に適している前方後方墳や方墳が誕生したものと考えられる。

また、方墳前方後方墳前方後円墳よりも先に出現している。

 

第二項  方墳

 方墳の特徴を挙げてみると,

出雲地方に多い,特に松江市南部の国府のあったあたりに多い。

 出雲地方の古墳時代初期は,すべて,方墳か前方後方墳だったようで,

 円墳や前方後円墳が現れるのは,古墳時代3期に入ってからである。

 吉備地方でも初期は方墳である。

 発生期の古墳はすべて方墳で,出雲・吉備地方によく見られる。

器・勾玉の副葬が多い。勾玉の産地は出雲である。

 出雲では勾玉を神宝として扱っている。

西都原古墳群中に唯一基方墳が存在するが,その位置は

 男狭穂塚のとなりで,古墳群のほぼ中央に位置している。これは,

 古墳の大きさの割に重要視されていることを意味している。

*西都原の方墳女狭穂塚の南西にある171号墳の事かと。

方墳の付近から出雲系土器がよく出土する。

⑤円墳と方墳の混在地方でも,

 円墳の存在する領域方墳の存在する領域分かれている

複数の埋葬施設を伴うことが多く,それらは,規則正しく配置されている。

⑦築造技術にかなり高度なものが要求されるので,

 外国からの技術導入がないと難しい。

⑧勾玉には,素盞嗚尊の意味が込められている(八坂瓊勾玉

 八坂は素盞嗚尊を意味する。)。

 これらを見てみると出雲が関連していることがわかる。

 そこで,出雲に関する情報を集めてみると,

⑨出雲の国造は熊野神社(素盞嗚尊霊廟)から火継ぎの儀式を受けて

 初めて神に使えることができた。

 これは,出雲大社の神事として現在まで続いている。

⑩出雲の国造は他の国造と共に朝廷から任命されるが,8世紀においては,

 その一年後,朝廷に赤・青・白の玉を神宝として献上し,

 神賀詞をするという風習があった。

 このことは,朝廷も出雲を特別扱いしている証である。

日本書紀にも出雲の国で出雲大神を神宝と共に祭っていたという記事があり,

この出雲大神は素盞嗚尊以外には考えられないので,

素盞嗚尊を祭っていた証である

出雲地方では方形周溝墓を山の頂上に造る風習があった。

出雲出身の素盞嗚尊も饒速日尊も高い山の頂上に葬られている。

 このことからこのような風習になったのではないか。出雲の国造は,

火継ぎの儀式を受けなければ素盞嗚尊を祭ることができなかったようであり,

地方でも,素盞嗚尊を祭るための斎主にはそれなりの資格が必要なようである。

そのための斎主を出雲から呼び寄せたり,出雲へ修行に行かせたりした

のではなかろうか。方墳はこのような人物の墓と考える。

なぜ四角なのかであるが,素盞嗚尊の別名(八幡,八坂,八千矛など)に

八がつくものが多いことや,出雲系の神社が四拍手であることや,

素盞嗚尊の神紋が十字形であることが関係しているのではなかろうか。


第三項  出雲地方の古墳分布

出雲地方の四隅突出型墳丘墓、方墳、前方後円墳

出現時期、分布領域には様々な特徴がある。

①倭の大乱の直後と思われる時期(2世紀末)に斐伊川下流

 西谷墳墓群と呼ばれている大型の四隅突出型墳丘墓群があった。

 この墳墓からは吉備系の大型特殊器台が出土している。

 その後この地域では大型墳墓が断絶し、

 4世紀になってから、そこを遠巻きにするように

前方後円墳や円墳など大和系の古墳が出現する。

②能義平野周辺では、四隅突出型墳丘墓から方墳へ継続的に変化している。

③松江周辺では5世紀まで大型古墳は造られていない。

 5世紀以後では円形墳と方形墳が混在する形になっている。

これを伝承と繋ぎあわせて考えてみると、次のようになる。

倭の大乱の直前、出雲国の政治の中心域は斐伊川下流域であった。

しかし、倭の大乱において若建吉備津彦の侵入を許し、打撃を受けた。

この地域は戦後、朝廷の占領地域となった。しかし、戦後交渉のこともあり、

素盞嗚尊祭祀は強化され、吉備からの技術導入で巨大な西谷墳墓群が築造された。

朝廷の監視の元で素盞嗚尊祭祀が執り行われていた。出雲地域では、

素盞嗚尊信仰に配慮し、大和系(円形墳)の古墳の築造は、差し控えていた。

その後、素盞嗚尊祭祀の場所(西谷墳墓群周辺)から離れたところに、

朝廷系の古墳を造ることとなったのである。倭の大乱においても、

素盞嗚尊の聖地である出雲中心域には出雲軍のすさまじい抵抗のため、

朝廷軍は侵入できなかった。

出雲中心域では、熊野山周辺で祭礼が行われていたため、

四隅突出型墳丘墓は築造されず、古墳築造は大幅に遅れ、

5世紀になってからである。この地域が前方後円墳を受け入れたのは

神功皇后の行動(後出)との関係が考えられる。


第四項  吉備国の繁栄

考古学的事実

吉備国古墳時代中期になると造山古墳のように

全国指折り規模の大古墳を築造するなど、かなり力を持っていたらしい。

その繁栄は弥生時代後期後葉に始まるようである。

この頃始まる考古学上の変化をあげると。

1 吉備系土器が薄くなり、技術的に高度なものへと変わる。

2 土器に畿内系の文様(鋸歯紋)が入ってくる。

3 墳墓に版築の技法が使われ巨大墳墓が登場する。

4 方墳・前方後方墳は全国に先駆けて吉備国で出現する。

5 吉備系の土器が出雲と大和に進出するようになる。吉備系の特殊器台は、

 出雲および大和の発生期の古墳での祭礼に用いられている。

6 吉備には楯築遺跡における双方中円墳がある。

双方中円墳は古墳時代のごく初期にしか見られず、

 階級がピラミッド構造化する中での祭礼の方法としての試行錯誤が伺われる。

また、 2つある方形部の片方を取り去ると、

大和の纒向石塚とまったく同じになるようである。

また、ほぼ同時期に宮大塚と呼ばれる前方後方墳が築造されている。

いずれも2世紀末と思われる。

7 全国的に広まっている方形周溝墓が吉備にはまったく見られない。

中国地方自体方形周溝墓が少ないのであるが

出雲地方では、倭の大乱後あたりになって出現するが

吉備地方だけは、まったく出現しない。

8 弥生時代後期後葉から古墳時代初期に吉備に

 州・出雲・東海・北陸・近畿・讃岐地方の土器が見られるようになる

上東遺跡)。

9 東日本での初期の古墳はそのほとんどの地域で、前方後方墳である。

しばらくして前方後円墳が登場するようになってから、

前方後方墳は衰退している。

10 特殊器台・特殊壺という大型の祭祀系土器が吉備国を中心に分布する。

11 後期中頃までは吉備国は小集落が広い地域に分散していたが、後期後葉になると

 平野部の特定地域に集中し、大規模集落が生まれる(上東遺跡など)。

 集落が都市構造を有してくる。かなりの技術変革があることがわかる。

 なぜこのような繁栄をするようになったのだろうか。

吉備国は投馬国

魏志倭人伝畿内説ではそのほとんどが吉備国を「投馬国」と比定している。

「投馬国」は5万戸と「邪馬台国」に次ぐ人口を擁する国で、

北九州の「不彌国」から海上水行20日で行き着くと記録されている。

一日の水行距離を23km程とすると、460kmとなる。

現在の岡山―福岡間は450km程でほぼ一致している。

吉備国は黍がよく取れるところから付けられたようであり、

呼び方としては「キビ」だと推定する。

3世紀の吉備国の中心地は吉備中山の北西部の上東遺跡周辺(吉備津)と思われる。

この南側地域一帯は現在では「玉島」、「玉野」などの地名に代表されるように

「玉」と呼ばれていたようである。魏の使者はこの頃の吉備国の中心地である

上東遺跡には行かず、児島半島南端の現在の宇野港がある周辺(玉野市玉)に

上陸し休憩を取ったものと考える。

この魏の使者が立ち寄った港が「玉」(岡山県玉野市)であるところから

「投馬国」となったのであろう。

魏の使者張政一行がこの玉に着いたのは崇神11年(251年)のことと思われる。

大和朝廷から四道将軍が派遣されたのはちょうどこの前年である。

吉備国にもその中の五十狭芹彦(大吉備津彦)が派遣されている。

このことから、吉備国の中心地上東遺跡周辺に不穏な動きがあり、

朝廷側の案内役は中心地に導かずに児島半島南端部に導いたものと考える。

浦間茶臼山古墳・網浜茶臼山古墳はいずれも吉備上道(備前南部)に存在する。

古墳時代直前の大型墳丘墓はいずれも吉備下道に多いのに

古墳時代に入ると吉備上道に初期の巨大古墳が多くなる。

吉備津彦が吉備上道に赴任してきたためと思われる。

浦間茶臼山古墳箸墓の二分の一網浜茶臼山古墳箸墓の三分の一

共に、箸墓の相似形をしている。

中山茶臼山古墳は当時の聖地であった吉備中山の山頂に築かれた

崇神天皇陵の二分の一サイズの古墳である。

この位置に築かれること自体が吉備にとって重要な存在の人物であったはずで、

その時期も崇神天皇陵が築かれたのとほぼ同じ時期(三世紀後半)と考えられる。

伝承どおり吉備津彦の墓であろう。


第五項  東海地方の前方後方墳

東海地方を初めとする東日本地域には前方後方墳が多く存在している。その特徴は

①西日本の前方後方墳とはさまざまな部分で違いが見られる。

②東海地方の前方後方墳古墳時代の初期に存在する。

③吉備地方の古墳時代初期に東海地方の土器が出土している。

④吉備地方の古墳時代初期に見られる外来系土器は九州・出雲・北陸・東海

 であり、東海地方以外は明らかに素盞嗚尊祭祀が強い地域である。

  出雲と東海を繋ぐものとしては神社伝承を元にすると次のようなものがある。

サルタヒコの終焉の地は伊勢である。

コトシロヌシの終焉の地は伊豆である。

タケミナカタの終焉の地は諏訪である。


第六項 伊都国王

糸島地方は,九州地方で最も初期の古墳が集中していて,

その存在密度も九州の中で特に高い。

さらに,この地方に存在する初期の古墳には,纒向型古墳が含まれている。

纒向型古墳は大和でも極初期に作られており,全国でもこの型の古墳は,

千葉県と大和とここしか存在しない。 *下関の仁馬山古墳も近いかも。

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/纒向型前方後円墳

 

第七項 考古学的事実の解明

古事記日本書紀に出てくる吉備津彦関連の名前は年代が会わないものが多い。

その代表が吉備武彦である。吉備武彦は、

吉備津彦の子として吉備に赴任してきている。

吉備津神社の祭神は大吉備津彦ではなくて吉備武彦であるとの伝承もある。

吉備武彦は景行天皇の時代にも活躍している。

その生存期間が異常に長いのである。天皇系図に狂いがあるのかとも考えたが、

他の点が一致しているため、天皇系図の狂いとは考えられず、

吉備に赴任して活躍した人物につけられた普通名詞であると判断した。