超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

古代史の復元4 卑弥呼と天照大神

「古代史の復元」の紹介

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/12/29/022326

 

150 孝元天皇開化天皇

https://mb1527.thick.jp/N3-19-1kougen.html

日本書紀における、即位年齢は、

神武・綏靖・開化・崇神天皇何れも51歳である。

偶然にしては重なりすぎである。

綏靖天皇は後で51歳で即位したように生誕年を逆算したようであるが、

51歳即位には何か意味があるのであろうか。

この当時成人年齢は31歳で孝昭天皇が最低年齢で即位している。

これは、前天皇が1年前に崩御しており、その崩御を隠していて、

孝昭天皇が31歳になるのを待って即位したためと考えられる。 

同様に皇太子が51歳になった時に前天皇は譲位する習慣があったのかもしれない。

天皇崩御直前は天皇として動くことができないのが普通である。

皇太子が後の時代に言われる摂政のようなものをするよりは、

次代の天皇として即位した方がよいと考えたのではないか。

 

153 伽耶諸国の体制強化

https://mb1527.thick.jp/N3-19-5kinkankaya.html

首露王の生誕はAD42年と伝承されているが、

金官伽耶国の年代も345年で半年一年暦と中国暦が切り替わっているとすれば

AD42年はAD193年となる。

首露王の寿命が158年と異常に長いが半年一年暦で考えれば79歳となり、

あり得ない年齢ではなくなる。

 

154 百済登場

https://mb1527.thick.jp/N3-19-4kudarasaiken.html

古代史の復元では百済建国はAD164年である。

公孫度は、遼東で勢力を拡大し、後漢が放棄した楽浪郡支配下に置いた。

192年、董卓が死んだ後は、公孫氏による独立国のような体制をとり、

周辺に勢力を伸ばし、高句麗烏桓を討伐した。

記録にはないが百済はこの頃、遼東にあり、

公孫度の攻撃を頻繁に受けていたと思われる。

これが、温祚13年の「楽浪が国境を侵している」という記事につながるのである。

『唐会要』百済伝には「百済高句麗に国を破られた」と記録されており、

(・・・中略・・・)

高句麗のこの攻撃で百済は領土を失って遷都を決断したのではないかと推定する。

遼東半島から海に逃げ、半島に沿って南下し、

漢江(韓国ソウル市)付近に上陸したものと考えられる。

 漢江付近はこの当時倭国の領域であった。

しかしながら、大和朝廷の施政権はほとんど及んでおらず、

ほとんど未開地のような情勢であったと思われる。

百済としては、まだどこにも所属していないと思い、

新しい国として百済再建を諮った。

 周辺がほとんど未開の地であるために、少しずつ領土を拡張していった。

その中でこの地が倭国領であることを知ったと思われる。

 百済王としては、倭国が巨大な領域を占めており、

かなりの強国であるという噂を知り、このままこの地を領有していると、

何れ倭国と交戦しなければならなくなり、

存亡の危機にかかわることになりかねないので、

倭国王との接触を図ろうとしたと思われる。

 その関連記事が神功皇后44年及び46年の記事であろうと思われる。

神功44年 百済王は、卓淳旱岐のもとへ、

日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送った。

神功46年 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。百済との交流が始まる。

 神功44年は364年である。百済が建国後200年も

倭国の存在を知らないなど考えにくいことであり、

この記事は神功皇后ではなく卑弥呼の時代のものと考える。

 神功44年は中国干支で甲子である。

この干支がこの当時の半年一年干支の間違いであるとすれば、

同じ甲子となるのはAD204年後半である。よって、

卓淳國で使者を送ったのは204年、百済との交流が始まったのは205年となる。

(・・・中略・・・)

この時、脱解王は百済王に使者を出し、

「その地は倭国領である。倭王卑弥呼の許可は取ってあるのか。

そうでなければ倭国に滅ぼされるぞ」とでも脅しを入れたと思われる。

今、倭国内は倭の大乱を終えたばかりで、安定状況になく、

海外遠征での戦いは避けたい気持ちがあった。

伽耶諸国を強く育てる対策は打ったが、まだ実用段階ではなかった。

 百済新羅と対立関係にある実力を持った国なので、

百済新羅に対抗できる国となれば、

新羅朝鮮半島での横暴も抑えられると思ったのではないか。

 

155 帯方郡設置

https://mb1527.thick.jp/N3-19-6taihougun.html

 公孫度は遼東から百済の旧領から高句麗を追い出し、その地を引き継ぎ、

東の馬韓(現在の北朝鮮西側領域)に手を伸ばした。

楽浪郡の領域を現在の平壌の領域まで急拡大したのである。

203年公孫度の後を継いだ公孫康は204年、勢力範囲をさらに拡大し、

南方の土着勢力韓・濊族を討ち、百済のすぐ北の領域まで支配するようになった。

さっそく公孫康楽浪郡18城の南半、屯有県以南を割くとともに、

巨大な城塞都市帯方郡を作った。

 ここに、新羅帯方郡連合と百済倭国連合の形が出来上がった。

 

156 纏向に都を作る

https://mb1527.thick.jp/N3-19-7makimuku.html

  AD200年頃より、それまでの古代都市、

唐古・鍵遺跡がこの頃より衰退を始め、

それと入れ替わるように纏向に巨大都市が誕生している。

 纏向遺跡の特徴

① 纒向遺跡は大集落でありながら、人の住む集落跡が発見されていない。

 祭祀用と考えられる建物と土抗、祭祀用具、

 物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。

 遺跡の性格としては居住域というよりも 、頻繁に人々や物資が集まったり

 祭祀のための聖地と考えられる。

② 平成21年に3世紀前半~中頃の大規模な建物群の遺構が見つかった。

 4棟の建物が軸線をそろえて東西に一直線に並んでおり、

 立地は人工的に整地が施され、付近には特殊な工房跡もみつかっている。

 高い規格性と、この時代最大の建築物であることから、

 卑弥呼の居館ではないかと推定されている。

③ 日本全国で作られたと思われる遺物の出土が多い。

特に伊勢国尾張国が突出している。

 また、搬入品のほか、大和で製作されたが各地の特色を持つとされる土器も多く、

 関連遺構ではその比率が高くなる。

 これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、

 および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、

 弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったと思われる。

 卑弥呼就任後地方に祭祀を広め、吉備国で巨大祭祀施設、祭器の研究が

おこなわれてきており、AD200年頃その成果が表れてきたものと考えられる。

卑弥呼はその研究成果を踏まえ、出雲国とも協議を重ね、

互いに認めることのできる巨大祭祀施設を大和に作ったのである。

 地方から人々を呼び寄せ、その祭祀施設を見せることにより、

大和朝廷の権威を高めようとしたものであろう。

そして、それらの人々が地方へ帰ることにより、

地方に中央の権威を示そうとしたのではあるまいか。

 現在確認されている最も初期の前方後円墳を探してみると,

纒向石塚である。その後,いくつか小さい 前方後円墳が造られた後に,

巨大な箸墓が造られているのである。

纒向石塚を調べてみると次のようなことが分かる。

前方部が三輪山の方を正確に向いている。

立春立冬の日に三輪山山頂から太陽が昇る。

冬至の日に大神神社の方から太陽が昇る。

春分秋分の日に巻向山頂から太陽が昇る。

夏至の日に竜王山頂から太陽が昇る。

⑥前方部の開き角度(50度)は,立春の日の出のときに、

 この地点にくる三輪山の影の角度と一致し ている。

⑦纏向石塚は戦前、後円部が削られたが、埋葬施設が存在しなかった。

 墳墓ではなく祭祀施設であるということになる。

石塚の周壕から出土したヒノキ材の年輪年代法による年代が195年

また、後円部から出土 した土器は纒向一式。

土器片を調べた結果、201-225年のものと推定。

盛り土に、この時期の土器片が混じっていた。

この頃までは鏡は共同体の持ち物であったようで、代々伝世されていた。

そのため、弥生時代後期中葉の墳墓からは鏡の出土がなかったが、

弥生時代後期後葉~終末期にかけて、

漢式四期(1世紀後半)の鏡が副葬されることが多くなった。

これは伝世されていた鏡が個人の持ち物になってきたことを意味している。


157 伽耶諸国新羅との戦い

https://mb1527.thick.jp/N3-19-8kayasiragi.html

艮神社(広島県沼隈郡沼隈町下山南1126)伝承

孝霊天皇皇子吉備武彦開化天皇10年に熊曽新羅と戦い給う時、左の眼を射る。
熊曽は大隈・薩摩なり、筑紫にては別名を豊武彦之命という。」

 この伝承でも球磨国王は熊曽新羅王と伝承されており、

球磨国と新羅国は大変な友好関係にあったことが分かる。

 

158 天日槍命来日

https://mb1527.thick.jp/N3-09-11hiboko.html

 伝説をまとめると、脱解の誕生はAD201年31歳で即位したことになるので、

脱解誕生はAD170年となる。

AD200年頃丹波国の脱解朝鮮半島にわたり、

新羅国第4代脱解王となったということになる。

天日槍命はこの王の子なのでAD219年頃再び日本列島に戻ってきたのであろう。

第9代開化天皇の時代となる。


160 天照大神の誕生

https://mb1527.thick.jp/amaterasu.html

天照大神」「天照皇大神」「天照大御神」を同等神と考えれば、

圧倒的に多く祀られているのが、

新潟県富山県、愛知県、岐阜県、長野県である。

この地域はいずれも飛騨国の隣接地域である。

天照大神は本来飛騨国の神であると推定しているが、

まさにそれを裏付けているといえる。

同等名を含む「大日霊女貴尊」で祀られている地域は、

新潟県山形県、関東地方が多い。

饒速日尊」あるいは「火明尊」という名で祀られているのは、

愛媛県、千葉県、愛知県、福岡県、大阪府三重県が多い。

 天照大神が祭祀された最初の神社は、調べた範囲では、

孝元6年(AD189年)紀伊国の内原王子神社

和歌山県日高郡日高町大字萩原1670番地)が最初のようである。

正式には祭神は「皇大神」であるが、天照大神のこととされている。

卑弥呼に就任した直後である。

 縄文人飛騨国の太陽神及び35代上方様(ウガヤ朝第67代春建日姫)を

崇拝しており、関東地方を中心として活躍している物部一族は饒速日尊を

崇拝しており、九州出身の豪族たちは日向津姫を崇拝していた。

また、出雲出身の人たちは素盞嗚尊を崇拝しており、

このように、崇拝している神が地方や豪族によって異なっているのである。

 崇拝している神が異なる中で祭祀を統一するのは不可能である。そこで、

卑弥呼はそれらの神々を統一した総称「天照大神」を考え出したのではあるまいか

天照大神」は各豪族が崇拝している神を合わせた神なので、

自らの神格化を合わせて、

それら豪族が一柱の神を崇拝でき、人々の心を統一できると考えたのであろう。


161 卑弥呼魏への朝貢

https://mb1527.thick.jp/N3-21himikotaigai.html

伽耶諸国と新羅が34年間戦っている間に

倭国軍はほとんど直接は手を出していない。

卑弥呼倭国軍を派遣したのは、婆娑王が即位した直後と、

新羅を降伏させた時と推定している。

聡明であると思われた婆娑王を牽制する目的と、

降伏させる目的と有効と考えられる2回の派遣である。

帯方郡の動きを警戒していたためであろう。

卑弥呼の知恵が優れていたあかしである。

卑弥呼の使者が帯方郡を訪れたのはAD238年6月である。

帯方郡太守劉夏が韓国の手を借りて、

帯方郡を奪還したまさに直後のタイミングである。

 それまで、倭国帯方郡と対立関係にあったので、

倭国帯方郡を奪取した直後のタイミングで朝貢してくることは、

劉夏にとってこれ以上ない程の喜びではなかったかと思われる。

魏も帯方郡を直接支配した直後の訪問であるから、

卑弥呼を特別扱いする程の歓待ぶりであったことは容易に想像がつく。

 卑弥呼新魏倭王として魏からかなり上位の地位を

得ることに成功したのである。

卑弥呼の238年の魏への朝貢は絶妙のタイミングだったわけである。

 球磨国にとっても、新羅にとっても

目の上のタンコブのようになっているのが伊都国である。

伊都国王の権限は強く、九州一帯を治めると同時に、

朝鮮半島の監視役も行っているのである。

新羅で何か起これば、伊都国王を介して大和朝廷に情報が伝わるのである。

球磨国伊都国をつぶせば、倭国と魏の交流を断ち切ることができる。

倭国と魏の関係が断ち切られれば、楽浪郡倭国との関係が冷え込み

新羅としては独立しやすくなるのである。

 AD246年球磨国が伊都国に戦いをしかけた。

卑弥呼の情報網はしっかりしており、早速朝廷軍が応援に駆け付け、

球磨国大和朝廷の戦争が始まった。

これが、古代史の復元で推測している狗奴国との戦いである。

 卑弥呼はこの戦いの様子を魏に伝えたのである。

卑弥呼は球磨国の背後に高句麗新羅国がいることを見抜いており、

魏に対して高句麗新羅を牽制してくれることを臨んだのであろう。

 

都市牛利=丹波大縣主由碁理(武諸隅)

難升米=梨迹臣(中臣氏)

伊聲耆=伊世理(中臣氏)


162 天の岩戸

https://mb1527.thick.jp/N3-21himiko3.html

 多神社はこの正三角形の底辺の正確な中点の位置より

100mほど西に位置している。この位置は三輪山の真西にあたり、

春分秋分の日に三輪山山頂から昇る太陽の姿を見ることができる。

実際は三輪山山頂との標高差が400mほどあるので、

この地より300mほど北側の道路の位置で

春分秋分の日に三輪山山頂から太陽が昇る姿を見ることができる。

この二地点は古代の多神社の敷地内ではなかったかと考えられる。


163 武埴安彦の乱と卑弥呼の死

https://mb1527.thick.jp/N3-21-2himikosi.html

 魏志倭人伝では卑弥呼が亡くなった後に邪馬台国内で騒乱があった

ことが記録されているが、日本書紀にはその記録がない。

卑弥呼が亡くなる直前に武埴安彦の乱が記述されているのみである。

古代史の復元では武埴安彦の乱が卑弥呼が亡くなった直後に

起こった騒乱ではないかと推測している。

武埴安彦は四道将軍が出発した直後を狙って大和襲撃計画を立てていた

のであるが、内通者がいたために計画が失敗したのである。

卑弥呼自身AD249年には現年齢計算で83歳になっており、

自らの余命はあまりないのも分かっていたであろう。

自らの死後武埴安彦が反乱をおこすことを予想して、

四道将軍の一人大彦命にそのことを伝えていたと思われる。

 卑弥呼に変わる人物を新しく大物主の神の妻にする必要が出てきた。

出雲系の人々が納得する人物といえば、

吉備国出雲大和両方から信頼を受けていた吉備津彦の系統の人物

しかいない。また彼は、卑弥呼の男弟として卑弥呼を補佐した人物である。

そこで,その娘である 台与(豊受姫に白羽の矢を当てて,

次の大物主神の妻にしたものと考える。

 豊受大神は全国にお稲荷さんとして祀られている神で、

スサノオの娘で饒速日尊の妹である倉稲姫といわれている。

天照大神ムカツヒメと倭迹々日百襲姫の重なった存在であり、

イザナギ孝霊天皇が重なっているように、

豊受姫も倉稲姫台与が重なったもの ではあるまいか。

 4世紀後半ごろより、それまで前方後円墳が出現していなかった

前方後方墳主体だった出雲地方や東海地方に前方後円墳が出現したり、

近畿地方から前方後方墳が消滅するなど

大和朝廷の地方支配力が急激に増大している。

景行天皇の多くの子を地方の国造として派遣したと記録されており、

前方後円墳はこれら国造の墓と考えられるため、このころの大和朝廷

地方支配力の増大は景行天皇の方針によるものと考えられる。

景行天皇の熊曾征伐(「日本上代の実年代」によると312年で,

台与75歳程)の頃になると出雲を意識した「大物主神の妻」は必要なくなった。

この存在を認めることは出雲を特別視していることになり、

朝廷の権限強化の妨げになるとの判断から景行天皇

台与の死を境に大物主妻という特別な地位を廃止してしまったのではあるまいか。

 

164 四道将軍

https://mb1527.thick.jp/N3-21-4sidou.html

四道将軍の行動した地域から,方格規矩鏡がよく出土することから,

四道将軍は地方の有力者に鏡を配って協力をさせたと考えられる。

 卑弥呼は何年も時間をかけて鏡が国造の任命証となるように下準備

をしていたのである。AD249年頃になり、鏡の意義が地方に浸透した

と判断し、卑弥呼四道将軍の派遣を決定した。

卑弥呼四道将軍の派遣を決定した直後に亡くなった。卑弥呼が亡くなった後は、

国中が混乱している状況ではあったが、卑弥呼の遺命であるために、

崇神天皇四道将軍を計画通りに派遣を決行したのである。

祭祀形態を統一することと,鏡を作るための青銅不足を補うために,

全国の銅剣・銅矛・銅鐸などの青銅祭器を没収することにした。

民衆は祭器を没収されるのには抵抗を感じ,

その祭器を埋めてしまったと考えられる。   

纒向石塚の周辺から破壊された銅鐸が見つかっているが,これは,

潰すのを目的に破壊したのではないかと考える。

三角縁神獣鏡の鉛同位体比の分析結果を調べてみると,

個々のばらつきが大きく,銅鐸の成分後漢の成分の中間あたりに位置している。

多量に使われているはずなのに,鉛同位体比が一致する産地が存在せず

同位体比によって,その青銅の産地が全く特定できないのである。

国産の鏡は輸入品に比べて一般に錫の量が少ないようであり,

三角縁神獣鏡他の鏡よりも割れやすく,

同じ鋳型で作られた鏡も成分がだいぶ違うという事実も説明できる。

大彦をはじめとする四道将軍の役割は地方平定ではなく、

地方情勢の確認にあったと思われる。

地方の役人は大彦命が到着すると、もてなし、中央の技術を伝授してもらった。

大彦命はその代表者を国造に任命し、

大和朝廷の名のもとで地方統治を任せたのであろう。

 神社伝承には戦いの伝承は岩手県以外にはない。

また、崇神10年に出発して崇神11年には大和に帰還している。

約半年の巡回である。非常に速いため、戦いはほとんどなく、

地方では大彦命を好意的に受け入れたものと考えられる。

 

大吉備諸進命の子である稚武彦は主に吉備下道で活躍していたために、

彼が生きていた頃は吉備下道が発展しており、さまざまな遺跡が残されている。

しかし、古墳時代になってからは

吉備上道がむしろ発達していて吉備下道は衰退している。

吉備津彦(五十狭芹彦)が吉備に派遣されてきたのが260年ごろ

その後吉備上道が発展しているのである。吉備津彦の功績と考えられる。

備前車塚古墳は古墳時代初期の前方後方墳である。

三角縁神獣鏡が多量に出土したので有名な古墳である。

出土した土器に弥生終末期の様 相を示すものがあることから

古墳時代弥生時代の境目の時期に築造されたと見るべきであろう

(推定250年ごろ)。

# クガミミとは、国神の事だそうだ。ミミは「主」なので、クガが国神。

 日子坐王

弥生時代終末期のみ出雲系土器が全国に分布するようになっている。

出雲国から素盞嗚尊祭祀を広めるために全国に出雲の人々が広がっている。

丹波の民話でも出雲百済の人々が流れ着いたとされている。おそらく、

倭の大乱後出雲の人々がこの地に流れ込んだのであろう。匹女も同じであろう。

この周辺は饒速日尊祭祀が非常に強い地域であり、また、秦徐福の系統なので、

素盞嗚尊祭祀は受け入れにくい地域であったと思われ、

彼らは次第に周辺から浮いていったのではあるまいか。

四隅突出型墳丘墓が山陰地方・越地方には見られるが、

その中間である丹波・若狭地方にはほとんど存在しないのである。

これは、この地域が素盞嗚尊祭祀を受け入れなかったあかしであろう。

 丹波道主命がこの戦いの後出雲を訪れ、出雲の神を丹波地方に招いている。

これは、出雲系の陸耳御笠を殺害した結果、

出雲との戦いが再発するのを恐れたためではあるまいか。


166 古墳時代の始まり

https://mb1527.thick.jp/N3-22kofun.htm

日本側の記録によると,崇神11年多くの外国人がやってきたとある。

倭人伝との対応により,この外国人は張政一行のことと思われる。

墓が完成するまで 日本にいることになり,箸墓の完成は266年頃になる。

纒向遺跡には,全国の外来系土器が非常に多い。

纒向の外来系土器は大阪の庄内式、三重や愛知などの東海系、

山陰、北陸、山陽、関東、近江、西部瀬戸内、福岡、鹿児島と

当時の朝廷の勢力範囲のほぼすべての領域である。

 朝廷が全国から呼び寄せたものと 考えられるが、

何のために呼び寄せたのであろうか。

全国の有力者に箸墓築造の協力をさせると同時に、

古墳築造を初めとする各種技術を全国に 伝えるためとは考えられないだろうか。