超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

古代史の復元5 神功皇后と八幡神

「古代史の復元」の紹介

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/12/29/022326

 

173 日本武尊征西

https://mb1527.thick.jp/N3-23-14yamatotakeru.html

BC108年頃、出雲国に流れ着いた八島野命以降15代続いた出雲王朝も

景行天皇によってAD307年頃廃止されたようである。

このことを伝えるのは次の古事記伝承であろう。

(・・・中略・・・)

めいめいの刀を抜いたときに、出雲健は偽物の太刀のため抜けなかった。

すかさず、倭建の命は太刀を抜いて出雲建を打ち殺した。

(・・・中略・・・)

この話のあらすじは出雲振根とその弟の飯入根との戦いのときのものと

同じであり、真実ではないと思われる。

 

177 仲哀天皇

https://mb1527.thick.jp/N3-23-5chuuai.html

仲哀天皇は即位後、群臣に詔して、「自分はまだ二十歳にならぬとき、

父の王はすでになくなっていた。」と言ったと日本書紀に記録されている。

仲哀天皇は仲哀9年に52歳(現年齢26歳)で亡くなっている。

即位時44歳(現年齢22歳)となり、

古代史の復元では景行天皇18年(307年後半)誕生となる。

日本武尊が亡くなったのは景行43年(312年前半)であり、

この時10歳(現年齢5歳)であった。

 

178 神功皇后年代推定

https://mb1527.thick.jp/N3-23-6jinguunendai.html

 応神天皇の即位年

 日本書紀では応神天皇の即位は庚寅の干支の年である。

この年は中国暦に従うと390年であるが、

日本書紀応神天皇から倭の五王時代にかけて

明らかに年代が附け加えられている。

それを元として、半年一年暦の干支だとすれば、

応神天皇即位は367年後半となるのである。

 日本書紀ではこの年は神功47年に相当し、

百済新羅が共に朝貢してきた年となっている。

応神天皇の即位を祝っての朝貢と考えられる。

 

181 神功皇后富国強兵策

https://mb1527.thick.jp/N3-23-8fukokukyouhei.html

 一般的には八幡神応神天皇のこととされている。

八幡神の始まりは伝承によると、神功皇后三韓征伐(新羅出征)の

往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、

また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされている。

次第に応神天皇の別名が八幡神となっていったものと考えられる。

 古代史の復元では比売大神は日向津姫八幡大神素盞嗚尊と考えている。

比売大神は「奈良名所八重桜」では「伊勢国渡会宮天照大神の分身」

と記されており、比売大神は日向津姫であることを示している。

また、宇佐八幡宮奉祀の氏族は辛島であるが、その祖神は素盞嗚尊である。

宇佐の地は素盞嗚尊が九州統一の拠点としたところで、

その後、素盞嗚尊と日向津姫が新婚生活をした安心院の地の玄関口にあたる。

安心院は素盞嗚尊が一時期倭国の都にしようと計画していた地である。

その玄関口にあたる宇佐神宮

素盞嗚尊・日向津姫が祀られるのが当然と考えられる。

実際周辺の神社には素盞嗚尊がよく祭られ、また、

素盞嗚尊の祭器である中広銅鉾が集中出土する地域でもある。

神功皇后は兵卒の士気を高めるために住吉大神を利用し崇拝した。

しかし、人々の心を一つにするには、目に見える形での神が

必要だったと思われる。それが、自らの産んだ誉田別命だった。

この頃の最高の武神は倭国創始者素盞嗚尊である。

瀬戸内海沿岸地方・北九州地方はその大半が素盞嗚尊が統一した地域であり、

これらの地域では素盞嗚尊が最高神として扱われていた時代である。

 神功皇后誉田別命誕生時からそれを意識しており、誉田別命誕生のとき、

誕生した家屋の上に八つの旗をひらめかせ、

人々に八幡神素盞嗚尊の生まれ変わりとして印象付けたと思われる。

そして、誉田別命が人前に出る時、八幡神の生まれ変わりとして宣伝し、

人々も誉田別命を素盞嗚尊の生まれ変わりとして認識するに至った。

 

182 倭国軍初陣

https://mb1527.thick.jp/N3-23-10shosen.html

 新羅本紀は持久戦に持ち込んだら倭軍は退散したと書かれているが、

これは、要求を受け入れたために退散したと考えたほうがよいであろう。

通常、食料が尽きるのは城に籠っている方である。

そうでなければ、有利に戦っているのに何のために遠征したのかわからなくなる。

倭軍は、要求が受け入れられたとして、退散したのであろう。

 唐津から壱岐を経由して対馬に至った軍団の他に、

津屋崎から沖ノ島を経由して対馬に至った軍団もあったと考えられる。

後に「海北道」と呼ばれる大陸への渡海ルートである。

沖ノ島の祭祀遺跡がそれを裏付けている。

沖ノ島は津屋崎の北50~60kmの沖合いに浮かぶ、

周囲4km足らずの絶海の孤島である。

四世紀代から十世紀初頭に至る祭場の跡と、

十二万点にものぼる奉納品が発見されている。

この祭祀遺跡は、航海の安全を祈願したものとされるが、

奉納された鏡、剣、馬具、装身具など、その遺物に

大陸系の遺物を多く含むこと、奉納品の豪華さ、その量の多さ、更に

祭祀の主体が、大和王権という中央政権によって執り行われている事は、

単なる航海の安全だけを祈ったものでないことを示している。

朝鮮半島へ出兵する際の、戦勝祈願と戦勝報告の場所と考えるほうが自然である。

 

183 応神天皇即位

https://mb1527.thick.jp/N3-23-9oujinsokui.html

 倭国軍第二次新羅遠征

 新羅本紀364年の記事

夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。

王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、

吐含山の麓に並べさせた。さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、

敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく

倭兵を打ち破った。今度は新羅の戦い方も具体的であり、

倭国軍はかなり苦戦したと思われる。

しかし、この後、新羅が倭に対して朝貢するようになっていることから、

この戦いも倭国軍の勝利であると判断する。

 倭国軍は苦戦しながらも勝利を得ることができ、

新羅伽耶諸国に手を出さないことと、

倭国に対して貢物を送ることを承諾させたようである。

 この時、倭国軍を指揮したのは神功皇后ではなく、

誉田別命ではないかと思われる。新羅高句麗の支援のもと、

第一次遠征の時よりも明らかに強くなっていた。

前回よりも苦戦が予想されたため、八幡神の生まれ変わり

と人々が信じている誉田別命の方が軍卒がまとまりやすく、

誉田別命も有能な人物に育っていたので

神功皇后も安心して任せたものと考えられる。

この時、誉田別命は現年齢計算で31歳であった。

 これに対して忍熊天皇は大和からほとんど出たことなく、

対外政策は神功皇后及び誉田別命がほとんど独占していた。何れ、

自分の地位が危うくなるかもしれないと思っても無理がない面があった。

 神功皇后としても、ほとんど無名の忍熊天皇よりも人気のある

誉田別命天皇になって指揮してくれた方が、倭国は一つに

なりやすくて対外政策も成功するはずだと考えていたことであろう。

 しかしながら、忍熊天皇誉田別命神功皇后を亡きものにする程の

気持はなかったと思われる。それは日本書紀の以下の記事から類推できる。

 建振熊命は

神功皇后は、すでに亡くなりました。これ以上、戦う理由はありません」

 と言い、すぐに弓のツルを切り、降伏した。すると伊佐比宿禰

その嘘を信じて、同様に弓のツルを外し、武器を収めた。

 この機を逃さず、神功皇后の軍勢は、髪を束ねていた紐を弓に張って、

 戦闘を再開し、忍熊王の軍勢を追撃した。

この記事は、誉田別命を殺害する意思はなく、

本気で戦う気も弱かったことを意味している。

おそらく、忍熊天皇の反乱ではなく、神功皇后の計略ではないかと思える。

 誉田別命新羅から凱旋してきた時、神功皇后香椎宮にいたと思われる。

神功皇后は、おそらく、大和に向かってうわさを流したのであろう。

神功皇后誉田別命皇位につけるために忍熊天皇の命を狙っている」

というような噂である。その噂はたちまち忍熊天皇の耳に入った。

最初は「そんなばかな」と思って信じなかったと思われるが、

神功皇后にとってはあり得ることだと思い、

大和に凱旋する神功皇后一行を待ち受けることにした。

365年頃のことである。

 忍熊天皇は大和に残っている豪族に出陣するように要請し、

難波の住吉の地で神功皇后一行を待ち構えた。

忍熊天皇神功皇后の描いた筋書きに乗ってしまったのである。

追い詰められ逃げるところを失った忍熊天皇は瀬田の渡し場から

琵琶湖に身を投げて亡くなった。366年のことであろう。

翌367年、誉田別命天皇に即位し第15代応神天皇となった。

神功47年のことである。

忍熊天皇に加担した豪族は処罰を受けることになった。

その中に鏡を作る一族があったため以前のような鏡を作ることが

できなくなり踏み返し鏡などを使うことになったのではないかと想像する。

 神功皇后陵までが前期古墳 と考えられ,次の応神天皇陵から中期古墳である。

389年崩御したことになり、神宮皇后陵がその数年後には築かれ、

応神天皇は394年崩御であるから、その数年後に

応神天皇陵が築かれたことになり、

前期古墳と中期古墳の境目は400年ごろと見ることができる。

 

# ちなみに私は誉田御廟山をはじめとする「中期古墳」

# 北方騎馬民族のものではないかと疑っており

# この辺りの記紀の記述全般鵜呑みにできないと考えます。

 

広開土王碑によると、391年に倭が百済新羅を破っていますが

404年には、高句麗が倭に大勝したそうです。

そして、大仙陵は5世紀末から6世紀はじめのもので

本当は雄略天皇の陵墓の可能性が高いです。

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/08/27/170846

 

本当は高句麗に負けた際に侵略されてるのを隠して、

元から隼人と近い関係のはずの息長氏(沖永良部島出身かも)

神功皇后が隼人を討っているという話に

人物合成・事績転嫁されているのではないか

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/10/11/180139

 

186 高句麗との戦い

https://mb1527.thick.jp/N3-24-koutaiou.html

390年9月、百済高句麗の都押城を占拠した。

高句麗新羅に使者を送り協力を仰いだのである。

新羅高句麗の要請を受け、早速出陣した。百済軍主力は

都押城に赴いていたため、百済の首都漢城は手薄であった。

新羅軍は漢城を占領することに成功したのである。

漢城が落ちたとの情報を得た百済は、動揺し、高句麗の攻撃を受けて総崩れ

となって敗退した。漢城を失った百済は戻る地を失い倭国に救援要請をした。

百済からの救援要請を受けた応神天皇倭国軍を急遽朝鮮半島に送ることにした。

加羅に上陸した倭国軍は、軍を二手に分け、一隊は洛東江を遡り、

卓淳国から新羅の首都金城を襲撃しこれを落とした。本隊は半島西海岸を

北上し、百済軍と合流し新羅軍が占拠している漢城を奪い返した。

そして、高句麗軍を北に追いやったのである。

 このような出来事であるなら、他の資料と矛盾せず、

好太王碑文の391年の出来事が説明できる。

 このような時に高句麗好太王が即位した。

その強さに恐れ入った百済の辰斯王はとても対抗できないと高句麗に服属し、

新羅は王子実聖を人質として送った。好太王はたちまちにして

朝鮮半島の覇者となったのである。392年のことである。

この情報を得て怒った応神天皇

紀角宿禰・羽田矢代宿禰・木菟宿禰を派遣して百済を責めた。

百済国内では高句麗に従うより倭に従おうという意見が主力であったが、

辰斯王は高句麗に従ったのである。

百済国の重臣たちは倭に従うことを望んでおり、

その重臣たちが辰斯王を殺害して、倭に対して陳謝した。

紀角宿禰らは阿花を王として帰ってきた。

 好太王は折角服従させた百済が、また倭についたので、

394年、倭に書簡を送った。その上表文に

「高麗の王、日本国に教う」とあったため、応神天皇皇子の

菟道稚郎子は怒って、高句麗の使いを責め、書簡を破ってしまった。

おそらく、「倭国百済に手を出すな、高句麗の意向に従え」

というようなことが書いてあったのであろう。

 このような時に61才の応神天皇崩御した。394年のことである。

応神天皇は末子である菟道稚郎子を皇太子として決定して亡くなったのである。

ところが菟道稚郎子は382年(応神16年)百済から来朝した王仁によって、

「先王を継ぐものは長子である。」という教育を受けたために、

兄である大鷦鷯尊が天皇を継ぐべきだとして、天皇即位を拒んだ。

396年

 後燕王広開土王を遼東、帯方二国王に封じる。

北魏後燕王が死んだのを好機とし山西省全土を制圧した。

好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、

百済王に多数の生口や織物を献上させ、

永く隷属することを誓わせた。(高句麗本紀)

 菟道稚郎子自害(日本書紀

 好太王の活躍を見た後燕王は好太王を遼東、帯方二国王に封じた。

しかし、新しく起こった北魏後燕王が死んだのを好機とし

山西省全土を制圧したのである。

 背後の安全を確保した好太王は、396年、

百済に一挙に攻勢をかけ漢江を越えて侵攻し、

百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、

永く隷属することを誓わせた。

 この時、倭国応神天皇崩御の後、次の天皇が即位できない状態が続いていた。

百済に救援を送らなければならないはずであったが、それができない状態が続き、

百済高句麗に隷属しなければならない羽目に陥ってしまった。

 この状態を知った菟道稚郎子はいつまでも皇位を空けておくことは許されないと、

大鷦鷯尊に皇位を譲るために、自らは自害して果てた。

これを知った大鷦鷯尊はやむなく、翌397年、

第16代仁徳天皇として即位したのである。

 高句麗に散々な目にあわされた百済の阿華王は、仁徳天皇が即位したことを知り、

すぐに、王子腆支を人質として倭に送り、倭に支援を要請したのである。

398年、早速倭国軍を大陸に派遣し、百済を救援した。

大和国内の人々は兵役に駆りだされて、農作業の人材もなく、

貧しい状態にあったのであろう。

仁徳天皇はその様子を見て課役を免除したのである。

仁徳天皇が課役を次の命じたのは仁徳10年(401年)で、

戦いが終わり、大陸に派遣されていた人々が返ってきた時である。

大陸情勢と日本書紀の記述ががぴったりと一致しているといえる。

 仁徳天皇の時代の記事は半年1年暦に戻っているようである。

半年1年暦で読み取ると、外国記事とよく一致するのである。

好太王碑文3

高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。

新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、

これを追って任那加羅に迫った。

ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

400年2月、王は燕に朝貢した。

燕王は礼が高慢であるとして、兵3万を率いて襲ってきた。

新城、南蘇城を落とされた。(高句麗本紀)

燕王盛は兵三万を率いて高句麗の背後を突いた。(中国)

 後燕が遼東を襲撃するタイミングはあまりにも絶妙であり、

あるいはこれは仁徳天皇の作戦であったのかもしれない。

高句麗は燕との一進一退の戦いが継続され、高句麗は国力を消耗した。

新羅の支援ができず、401年、人質実聖を新羅に返したのである。

高句麗の支援をなくした新羅は、高句麗にひと泡吹かせた倭国に恐れをなし、

新羅本紀に、402年、倭国と国交を結び、

奈勿王の王子・未斯欣を人質として送ってきた。

百済本紀に百済も同じ年、使臣を倭国に遣り、大珠を求めたとある。

仁徳12年(402年)高麗国が鉄の盾・鉄の的を奉った。

 高句麗は燕との戦いで国力を消耗している時であり、

倭国に背後を突かれるのを恐れたのであろう。

倭国と和平交渉をしたのである。これで、暫らくは平和が訪れたのである。

 仁徳13年、14年(403年)にかけて土木工事の記事が多くなる。

難波堀江、茨田堤築造(仁徳11)、山城に大溝掘る(仁徳12)。

和爾池、横野堤を築く(仁徳13)

小橋、大道を作る。石河の水を引く(仁徳14)などである。

 高麗・新羅百済からやってきた人々を使って土木工事をしたのである。

好太王碑文4

404年、高句麗領帯方界まで攻め込んだ倭軍を高句麗軍が撃退した。

ここでいう帯方界はほとんど高句麗の本拠地近くである。

倭軍は戦って高句麗を追い詰めたのではなく、

高句麗の隙をついて攻め込んだと思われる。

この時、高句麗後燕との戦いで疲弊しており、

倭軍はその隙を突いたのではないだろうか。

 倭国軍は折角の平和を壊してまで、なぜ、帯方界まで攻め込んだのであろうか。

次の405年(仁徳17年)新羅朝貢しなかったと記録されている。新羅も真底

倭に朝貢しているわけではなく、倭国軍の強さに恐れをなしているだけである。

高句麗新羅が裏でつながっており、高句麗後燕との戦いを終了した後、

再び倭を攻撃すると言った情報を手に入れたものではないかと推定する。

 体勢を立て直した高句麗軍はたちまち倭国軍を打ち破った。好太王

あまりの強さに倭国軍は退却したが、高句麗軍は倭国軍を深追いしなかった。

後燕が背後を狙っているからである。 その様子を見ていた新羅

高句麗健在と思い倭国への朝貢をしなかったのであろうが、

勢力が衰えていない倭国は405年(仁徳17年)新羅を責めたのである。

新羅本紀では「倭兵が明活城を攻めたが、これを打ち破った。」とあるが、

日本書紀では新羅は謝罪し貢物を送ったとある。

好太王と勝負できる当時の倭の国力から判断すると、

日本書紀の記事の方が正しいといえる。

 このように考えると、日本書紀、中国史書、好太王碑文、高句麗本紀、

百済本紀、新羅本紀の記述がほぼ完全に一致することになる。

 

187 倭の五王の年代推定

https://mb1527.thick.jp/N3-25-goou.html

倭王讃は413年~425年までの間には確実に存在していたことになり、

古代史の復元年代では第16代仁徳天皇となる。

倭王珍は第18代反正天皇となる。

倭王済は443年~451年には存在している。

古代史の復元年代と会わせると第19代允恭天皇がこれに該当する。

倭王興は462年に朝貢している。第20代安康天皇であろう。

安康天皇は在位3年で暗殺されており、推定没年は462年である。

そうすると、倭王武はその後の雄略天皇となる。

倭の5王の関係は、宋書によると、倭王讃の弟が倭王珍

倭王済の子が倭王興でその弟が倭王武となっている。

済・興・武の関係は日本書紀反正天皇安康天皇雄略天皇の関係

と同じであるので問題はない。

ところが、珍は讃の弟ということになっているが、

仁徳天皇反正天皇は親子である。

この矛盾を解決するのが、438年の朝貢記事である。

使持節、都督倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、

安東大将軍、倭国王を自称する。

上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に叙爵した。

珍はまた倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔国将軍号の正式な除爵を求め、

詔を以てすべて聞き届けた。(『宋書』夷蛮伝)

 この記事の中に登場する倭隋なる人物である。

倭王隋は第6番目の倭王となる。

 430年に宋に朝貢しているが、この時の倭王が記されていない。

第16代仁徳天皇が427年に亡くなっており、反正天皇は433年即位である。

430年に朝貢した倭王は第17代履中天皇以外に考えられない。

倭王隋が履中天皇と考えられる。 宋書は本来

「讃が死に、子の隋がたち、隋が死んで、弟の珍が立つ」とあったものが、

間が抜けて「讃が死に、弟の珍が立つ」と記録されたものであろうと推定する。

 

188 阿知使主の謎

https://mb1527.thick.jp/N3-25-1ati.html

382年(応神16年)に弓月君が一族郎党を率いて来朝している。

機織りを職とし、秦氏の先祖である。阿知使主はその4年後に来朝し

同じく機織りを職とし、秦氏の先祖といわれている。

阿知使主が日本へやってきた時はまさに朝鮮半島が戦乱の真っ最中である。

霊帝のひ孫に「循」という人物が存在している。阿知使主と同族である。

魏の勢力が朝鮮半島に及んだのは、245年である。

「循」が次の246年に倭に渡来したのではあるまいか。

崇神天皇即位直後のことである。

386年は半年一年暦の干支で丁卯で、246年が中国暦の干支丁卯である。

来朝後崇神天皇に仕えたと思われる。

 

190 仁徳天皇
https://mb1527.thick.jp/N3-25-2nintoku.html

垂仁天皇の在位期間は99年であるが、半年一年暦で考え、

さらに後半60年は附け加えられたものであった。

日本書紀の記事も垂仁39年までが多く、その後の記事はほとんど存在しない。

仁徳天皇の記事も同様のようである。

仁徳68年~86年までの記事は全く存在しないのである。

おそらく、後半の何年間かは年数を付け加えているのみであろう。

垂仁天皇の記事と同じ手法だとすると、仁徳62年までが半年一年暦の記事であり、

それ以降は同じ干支の別の年ということになる。

これらのことを考えると、これらの仮定の中で、最も自然なのは

履中天皇の時代の記事が仁徳天皇の時代に入り込んでいるという仮定である。

仁徳天皇日本書紀の記事は半年一年暦で書かれており、

仁徳天皇の時代とされている記事は

履中天皇の時代の記事がそのままの年代で挿入されていると判断する。

仁徳天皇は即位時弟である菟道稚郎子を失っている。

これは、王仁が「王位継承は長子を持ってすべき」

という中国の思想を持ち込んだためであった。

仁徳天皇菟道稚郎子の死を相当悲しんだと思われ、

それが、中国暦に対する嫌悪感につながり、

中国暦から慣れ親しんでいた半年一年暦に戻そうとしたのではないだろうか。

 

191 履中天皇

https://mb1527.thick.jp/N3-25-3richuu.html

倭国には代々領土的野心はほとんどなかったと思われる。

これまでのすべての大陸での戦いは新羅の行動をけん制するためか、

百済からの救援要請で動いているのである。それが、なぜ、

高句麗と戦って領土拡張をしたのであろうか。 

 この原因を、427年の高句麗平壌遷都にあるのではないかと推定する。

高句麗はそれまで現中国の集安市に拠点を置いていた。

これが、平壌に遷都されると、百済新羅にとっては

いつ責められるか分かったものではないと警戒するのも当然であろう。

 この推定に対する裏付けが倭王武の上表文内にある。

昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、

東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、

北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、

強大な一国家を作りあげました。

王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、

中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。

これらの内容と倭隋の平西将軍の記事を総合して判断すると、

431年に倭国軍が大陸を平定したと判断できる。

飛騨国反乱について

南北朝時代飛騨国姉小路基綱(1504年没 )は自ら選んだ和歌集の裏書に、

この山の主が「両面四手」であり、しかもそれが

神武天皇へ王位たもち給ふべき」神であったと

記しており、両面宿儺のことと思われる。

飛騨口碑によると36代天忍穂耳尊の子の瓊々杵尊が九州に降臨、

饒速日尊が大和に降臨したが、天火明命飛騨国に残ったとされている。

 飛騨王家は古代において、

大和朝廷皇位継承に口を出す権限を持っていたと考えられる。

応神天皇までは末子相続であり、飛騨王家も末子相続であったと考えられ、

応神天皇までは実際に飛騨王家が口出しすることはなかったと思われる。

 ところが、応神天皇の時代に王仁が来朝し、

仁徳天皇の弟である菟道稚郎子王仁から、

長子が後を継ぐのが本道であるという思想を学び、

応神天皇の後を継承するのを拒否し自殺した。やむなく

兄である仁徳天皇が即位することになり、ここに末子相続は終焉を迎えた。

 この事態に対して飛騨王家は皇位継承の口出しをしたのであろう。

仁徳天皇の場合は弟の自殺でやむを得ないことであったと判断されたが、

履中天皇を皇太子として決定したのは、

飛騨王家にとっては認められない内容だったのであろう。

仁徳天皇は飛騨王家の抗議を無視して履中天皇に継承させた。

 皇位継承に対する抗議を無視する朝廷に対して、

飛騨王家は飛騨王家の存在を軽く見られたのは、

飛騨王家の存続にかかわる危機をはらんでおり、

飛騨にて反乱を起こしたのではあるまいか。

神武天皇即位からかなり年月もたっており、

飛騨王家の存在は、朝廷にとって邪魔でしかなかったのであろう。

これをよい機会として、履中天皇は飛騨王家を廃止したのであろう。

 祭祀者としての飛騨王は大和朝廷によって廃止されたが、

細々と継承されていったのではないだろうか。

それが、美濃・飛騨地方の古寺の開基伝承となったと思われる。