超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

超革新ひふみ神示 33 継体天皇の「神武東征」

< 33 > 継体天皇の「神武東征」

*第26章の後が適切な配置かも。29章まで書き終わった後で知った話。

 

最近、とあるブログで、「前方後円墳の大半は

被葬者が1人であるのに対し、前方後方墳

複数の被葬者がいる事が多い」という事を知りました。

 

前方後円墳は前段階の円墳や円形周溝墓の頃から、

前方後方墳も前段階の方墳や方形周溝墓の頃から

そうした傾向があるらしく、円墳のある地域では

一人に権力が集中していたのではないかと推測され、

方墳のある地域では共同統治のような形だったのではないか、

と推測されるわけです。

 

前方後方墳ニギハヤヒ朝ヒノモトの故地に多いですから

そういう事もあるだろうと思います。

 

そうした指摘をされてる方のブログも、はてなブログなのですが

今日(2023年8月20日)は午前10時45分頃から

1時間くらいだったか、つながりにくい状態に

なっていました。

 

何らかの妨害がある可能性もありますから、

そのサイトの詳細は、まだ伏せておきます。

 

他にも、古墳石室の「石囲い木槨」という構造は

讃岐・阿波・播磨地域で多く見られる、といった

指摘もあるのですが、私はそれを崇神朝ヤマトか

ニギハヤヒ朝ヒノモトが河内(大阪西岸だった地域)入り

する前段階でのものではないかと思っています。

*現在の河内は内陸部で、大和川の流れも昔は淀川に

 向かっていたのが変更されたりもしています。

 

崇神系イリ王朝は隼人を熊襲と蔑視しているので

「石囲い木槨」があるのが隼人系の土地ならば

ニギハヤヒ朝の可能性が高く、そうでなければ

崇神系イリ王朝のものかも知れません。

 

出雲大社の配置は、伊勢神宮などとの位置関係を

考えた上で、継体天皇から元明天皇の時代に

決められている可能性が高いと示されています。

 

出雲の古くからの聖地は熊野大社などで

出雲大社は新しいものである事は

わりと知られているかと思います。

 

古事記日本書紀に描かれた出雲の話で
出雲国風土記にないものは、実際は
記紀編纂からそう遠くない時代の思想の挿入
だろうと推測なさってもおられます。

 

わざわざ新しく出雲大社をつくったのは

天文・暦や風水・吉凶などに通じている天武天皇などが

配置を考えての事だろう、というわけです。

 

出雲大社から伊勢神宮は380km、

伊勢神宮から香取神宮までも380kmで

二等辺三角形を形成。

また、伊勢神宮から諏訪大社は215km、

諏訪大社から香取神宮も215kmで

こちらも二等辺三角形となるようです。

 

 別の方の指摘では、伊勢・出雲と西都原古墳群の

 女狭穂塚で二等辺三角形となるようです。ついでに。

 https://pixy10.org/archives/post-6487.html

 レイラインの基礎

 https://pilgrim-shikoku.net/leyline-about

 

そのような「現在の都を中心とした聖地配列」をもとに

「歴史的事実の正確な記述」とは違う形で

記紀を書いているような部分もあるかも知れません。

 

そのためスワが山口の周芳から長野の諏訪になったり

気比(キビ=吉備)がケヒ(越前敦賀)になったり

したのかも知れません。

 

鹿島・香取神宮あたりには、那珂川がありますが

同じ名の川が阿波(徳島)と筑紫(福岡)にもあり

博多湾志賀島こそが鹿系地名の祖かも知れません。

 

また、伊豆のキノミヤ信仰があるところは、鹿島踊りの盛んな地域だそうです。

熱海では来宮と書きますが、海人の拠点であると考えると

船にする木材と関係していて紀ノ川などと同じ語源かも知れません。

 

住吉大社神代記』には、神功皇后に関して

「角ある鹿の皮を着て衣袴と着す梶取・水手(かこ)人の大神の舟を漕ぎ持ちて來るなり。故、其の地を鹿兒(かこの)濱と号く。」

とあるそうです。鹿兒だと鹿児島の地名由来みたいですが。

加古川も水手(かこ)地名なのかも知れませんね。

「鹿角庫」というものがあるのは志賀島で、本来の角鹿(つぬが)は

この辺かも知れません。転じて敦賀、鶴岡などとなるようですが。

信州安曇野(長野県)には鹿島川が存在し、茨城の鹿島と地名が共通

しています。光明子を女鹿の娘とする伝承も、鹿系地名と関係している

かも知れません。その伝承では藤原不比等は女鹿の子の養父でしかありません。

通説では母親は県犬養三千代ですが、美努(みぬ)王との間に葛城王がいます。

どういう経緯で別れて藤原不比等の後妻となったのか不明です。

 

鉱物資源の採れた所に聖地が多いのは

割とよく指摘されている事なのですが、

それをつなぐ河川交通の要所に

安曇族・隼人などの拠点があり、

ネットワークを形成していたようです。

 

兵庫県の瀬戸内海側(播磨)から

京都府日本海側(丹波)には、

加古川から由良川へ、

日本一低い90メートル程の分水嶺

越えれば行けるという指摘もあります。

「水分れ公園 資料館」で検索すると分かるかと。

 

朝鮮半島南西部からは九州に行けるけれど

南中部からだと海流に乗って出雲など、

南東部からだと丹波や福井、

東部からだと山形や秋田に漂着しがちとの事で

丹波や播磨に海人の拠点があったらしいです。

 

そして、海人集団の中には阿多隼人もいて

京都の愛宕山の「アタゴ」もアタ隼人から

来ている可能性もあります。松尾大社の近くの

月読神社なども、487年という、平安京より

ずっと前から存在していたらしく、吾田神という

地名も残っています。

もちろん、487年というのは九州内での話

という事もありえますが。桜島にも月読神社があります。

 

九州南部にいた阿多隼人が半島に進出するようになり

宗像などに居ついたため、宗像土笛はココヤシ(南方の果実)が

元になっているとの指摘もあります。

土笛分布は下関、出雲、丹後半島に集中しているそうです。

 

今は秦氏の領域と考えられがちな

太秦周辺も、隼人、物部、息長氏(神功皇后)、

継体天皇などとの関係の方が深そう、ともされています。

 

また、大本教団の拠点である丹波亀岡の

辺りに犬飼川があるのですが、これも

隼人関係と思われます。

そして、県犬養氏は、藤原不比等の時代

までは、絶大な権力を握っていたようです。

 

しかしながら・・・私から見れば、

天武天皇から橘という姓を賜りながらも、

藤原氏に利用され背乗りされただけとも

見えるわけです。

 

私は倭人弥生人、海人、天つ神)

高句麗百済系(元は北方騎馬民族アッカドの血筋)

区別しますから、そう見えるわけです。

 

2つに分けずに3分する、という発想が重要かと。

 

九条兼実源頼朝公と親しかったから味方だとか

近衛前久が信長公と親しかったから味方だとか

決めつけもしません。そんな偽装で利益が得られる

と分かっていたら、いくらでも偽装しかねないでしょう。

藤原北家の中でも、道長などは菅原道真公と仲が良かった

例外的な藤原氏(忠平)の血筋だったそうです。

そういう実例を知っていたら、親しいふりくらいするかと。

 

松尾大社の元宮は、藤原不比等を風刺する

竹取物語(作者は紀貫之?)の発祥の地と考えられる

京田辺あたりで、継体天皇の筒城(綴喜)宮があった所あたりとか。

同志社大学内に記念碑がありますが、一説では三山木垣内の

大神宮跡や、対岸の綴喜郡井手町手宮ノ本ではないかとも。

その辺りに県犬養=橘氏の拠点があったそうです。

大住の月読神社には隼人舞が伝わっていますし

住吉大社の元宮は博多にありますが、大隅半島や鹿屋に

もっと古い起源があるのかも知れません。

迦具夜比売命の父は大筒木(おおつつき)垂根王(たるねのみこ)

 で、筒城宮あたりに拠点があったと考えられています。また、

 竹取物語の時代に孟宗竹は輸入されてないので、真竹のある地域。

 求婚者は『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿に

 そっくりで、藤原不比等の母親が車持氏なので、偽造で騙そうとした

 最も卑劣な車持皇子のモデルは不比等と考えられます。

*701年の文武天皇は19才くらいで、祖母の持統天皇太上天皇と称し

 院政を敷いていました。文武は707年に25才で崩御。母親が

 元明天皇として即位しています。後の聖武天皇はまだ7才。

元明天皇の次は聖武天皇姉の元正天皇が即位。

天智天皇の娘の元明天皇の娘が元正天皇
天皇の娘から生まれた子どもが天皇になれば「女系天皇
という条件を満たした前例は存在しています。

存在しないというのは男系カルトの大嘘です。
元正天皇が即位した時、甥の聖武天皇は15歳で
父の文武天皇が即位した年齢。
年齢を理由に「中継ぎ」を挟む必要はなかった。

孝謙称徳天皇も、異母弟の安積親王がいても
皇太子となってます。

※ 710年頃の生駒山地周辺(想像図)かなり大雑把 ※

※ 普通に考えれば当時の淡海は琵琶湖でなく河内湾 ※

佐保川と書いてる辺りも弥生時代は湖かも。

*北部九州の遠賀川も淡海状態。「近つ淡海」かも。

*首都は筑豊ヤマト、副都が難波だったのかも。

 半島から海流で丹波・若狭・越前に着くとしても

 行きは北部九州からの方が近い。

*なお、弥生時代対馬から岡山まで銅矛文化圏

 出雲から長野南西部まで銅鐸文化圏

 島根(出雲)、岡山(吉備)はどちらもある地域。

*銅鐸は記紀に登場しませんから、弥生時代
 今の畿内への「神武東征」達成はないかと思われます。

 あるとしたら銅鐸勢力の移動、銅鐸勢力との和合。

*古墳地帯は生活の地とは別の可能性あり。

 奈良の「大和三山」辺りが首都とは限らず、

 記紀は本当はどこの話なのかよく考えた方がよいかも。

 「ヤマト」と難波に分かれて住んでるのは不仲だからではなく

 単純に「離れた重要拠点だから」かも知れません。

*鳥見山は私の知る限りでも近畿だけで3ヵ所(宇陀市榛原、桜井市生駒山地近辺)、
 また出羽の鳥海山も本来はトミヤマのようで、2ヵ所あります。秋田県境と月山・蔵王の間。

 鳥海のナガスネヒコ兄の子孫という安倍=奥州藤原
 https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/09/03/080336

 それと北部九州にも鳥見山があります。迦楼羅衆(烏)=白鳥の可能性も。

*「寝屋川 太秦 由来」で検索してもたいした情報は出ないのに

 「伝 秦河勝墓」で検索するとあっさり情報が出るようになります。

 http://inoues.net/club8/2014apr_neyagawab.html

 広隆寺の記録などからも寝屋川が本拠という説が有力だそうで。 

 http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage418.htm

 奈良盆地が先と思ってると分かりにくいですが、難波が先である

 事を隠したのだと考えれば順当だと理解できるようになるかなと。

*石清水八幡と対岸の離宮八幡は本来、「両岸祭祀」だと思います。

 ニギハヤヒ朝の日神・水神の雌雄一対祭祀の形態です。

*サコ、サクもシャク神系地名かも。今井野菊さん等の研究によると

 ミシャグジ信仰は滋賀から千葉までで、その圏内で天白信仰は

 滋賀から長野まで、千鹿頭神信仰は長野から群馬までだそうです。

 けれどサコ、サク、シャク地名は京都より南西にもあります。

 また諏訪大社が勧請されてる所がシャクジ系地名である事は

 西日本でもあるようです。坂越、蛇越池、寂地山もシャクジ地名かも。

 柳田國男「石神問答」などを現代語訳で読んでみるとよいかと。

 荒脛巾信仰は東北・関東を中心としながら

 三河一宮の奥宮末社にも荒羽々気神社があります。

 出雲の荒神は元はアラハバキだったという話も。

 

天武天皇の時点までは、特に元伊勢の

天照神男神(天火明・ニギハヤヒ様)だった

可能性が高く、不比等が自分をスサノヲ大神様に、

姉の持統や元明を「女神・天照大御神」に見立てて

「神話」を「現在の自分たち」に都合よく改竄している

可能性が大いにあります。

 

神武元年は紀元前660年とされていますが、
これは辛酉革命という思想から来ていると考えられます。

60年に一度の辛酉の年に革命が起こるとされ、

60年周期の21回目の1260年で大革命が起こるとされていた

ため、斑鳩宮の601年から1260年前に設定されたようです。

 ちなみに601年の1261年後となるのは1862年

 文久遣欧使節ロスチャイルドと会見)、皇女和宮徳川家茂との結婚、

 リンカーン南北戦争ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』、

 ビスマルクの首相就任などの年です。いや1861が辛酉ですが出来事が薄いです。

 

ともかく、神社伝承の応神天皇神功皇后の子で八幡宮の御祀神だが

本来の主祀神は瀬織津姫、本来の八幡神は大日霊女貴かも)は

実は継体天皇をも指しているのかも知れません。

八幡太郎義家が元服した岩清水八幡は継体樟葉宮の近く。

桂川宇治川、木津川が合流し淀川となる重要地点。)

気比神宮の笥飯大神と名を交換し誉田別となった」というのも

継体天皇と関係している可能性もあるのかも。

 

名に「わけ」がつくのは「分家」と解釈なさる方も

いらっしゃいますが、それは違うかも知れません。

「わけ」は王を意味しているという指摘もあります。

後にワケ称号が廃止されてキミとなってもいます。

「分家」では意味が通らないケースも多々あるのは

後から意味が変わったというより

初めから王という意味だからなのかも知れません。

「誉田と誉田別は別人」とするような解釈は違うかも知れません。

 

また、ミミはタミル語(ドラヴィダ系)だと神、主といった意味だそうです。
https://anisakuayataka.blog.fc2.com/blog-entry-551.html

ホアカリ、オシホミミ、ホのニニギ、ホホデミといった

ホやミ、ミミがつく名は、谷川健一氏のご指摘の通り、

揚子江系=隼人系でしょう。

(ニニギ系皇族を隼人とすると。受け入れた国つ神が隼人かも知れませんが、

そうなると安曇がニニギ系皇族の末かという話になるかも知れません。)

 

ちなみに神示には「大切なことはミミに聞かしてあるぞ。」

等あり、大半は「耳」時々「御身」かも知れませんが

「ミミ系王朝の身魂」を指している箇所もあるのかも知れません。

 

当て字はさほど氣にしなくてもよいです。

原書では富士は二二なので、ミミは三三だと思われます。

 

ヘブライ語のアルファベットは22文字で、

それぞれが数字とも対応しているそうです。

数秘術では11と22が特別視されますが、33も特別視する

場合もあるようです。また、偽ユダヤ

数秘術をパクり背乗りしていたりもします。

よく「33階級」などという話を耳にしますね。

また、京都に「三十三間堂」と呼ばれる寺社があり

後白河法皇の御所の一角を成していた事をご存じの方も多いでしょう。

 

ミミついでの話が少し長引きましたが

カヤがつくのも南方系という指摘もあります。

 

実際は「万世一系」ではないので、

王朝の時期・系統によって傾向が異なるのです。

 

「前の天皇の后や親類を娶ってるから継続してる」

などと言えるなら、ナポレオン3世も「神聖ローマ帝国」の

後継者だと言わねばなりません。そのような継承を

繰り返して、同一王朝と言えるでしょうか?

建て前の話でしかないと思います。

 

神示は本質第一です。粉飾には意義がありません。

 

 * * * * * * * *

 

それから、Google Mapなどの機能を用いて

古墳、神社などの間に線を引き、

二等辺三角形とか、五芒星を描かれたりもされていますが、

埴輪制作などに関わる土師氏が

古墳をつくるのに五芒星を活用していたであろう

という事は、他にも指摘している人もいらっしゃいます。

http://pentacross.seesaa.net/article/494784796.html

おそらくは前世が土師ではないかと思われます。

こちらの方は既に、引っ越しの際に資料を盗まれる

という被害にあわれていらっしゃいます。

 

おそらくそれがきっかけで、ある程度自由を奪われて

しまわれたようです。以前より移民礼賛みたいなのが

増えたように感じます。無理もない事かと思います。

本名などを出しているのは危ういのです。

 

くれぐれも、細心の注意をはらっていただきたいと思います。

 

こうした知性ある人は、

自民党政府を批判している事も多いです。

政府を妄信しない知性があるというのは

非常に重要な事だと思います。

 

「危険な集団がそこら中にいる事を知らなかった」

のは罪でも何でもなく、無理もない事です。

罪は隠している犯罪集団にこそあるでしょう。

加害者の罪を被害者に着せ責めるのはおかしな事です。

 

 * * * * * * *

 

継体天皇は鬼畜雄略の迫害から逃れた家系で、

応神天皇の5世子孫とされています。

雄略天皇は「倭の五王」の武に比定されていますが

倭の五王」を広開土王の一族ではないかとする説もあります。

 

広開土王碑によると、391年に倭が百済新羅を破っていますが

404年には、高句麗が倭に大勝したそうです。

そして、大仙陵は5世紀末から6世紀はじめのもので

本当は雄略天皇の陵墓の可能性が高いです。

仁徳天皇は、むしろ古墳を縮小して民の負担を軽減する人です。

雄略系の悪政が終わった後に、大伴金村から見出されて

即位したのが久々の応神系とされる継体天皇なのです。

尾張一宮に伝わる真清探當證によると継体は顕宗天皇の子です。

 民話を収集している松波逸雄氏によると

 母の豊媛(振媛)の父は隼人を思わせる吾田彦だそうです。

 この吾田彦の本当の名が彦主人王で、応神天皇の五世子孫だとか。

 雄略系からの迫害に遭わぬよう、仮名を使っていたとか。

 通説では彦主人王と振姫は近江高島安曇川の三尾氏とされています。) 

 

大伴金村物部麁鹿火らは527年の磐井の乱を平定したとされていますが

磐井を高句麗天皇と考える方もいらっしゃいます。

ところが、古事記によるとこの年に継体天皇崩御しています。

また、百済本紀によると、531年に継体天皇と皇子たち全てが没しているというのです。真の継体天皇陵と考えられる今城塚には少なくとも3つの棺が確認されており、安閑天皇宣化天皇も合葬されていたとも考えられます。百済の勘違いで同じ干支の60年前の話ではないかとする説もありますが。大伴金村も左遷されています。

 なお、役行者には、継体の子の欽明天皇と同日同刻に生まれたという、双子のような伝承もありますが、賀茂氏とされています。

 そして、538年に百済仏教が伝来したと言われていますが、臼杵大仏には529年と九州年号で記されていたそうですから、もっと早い時期に百済王族が来ている可能性が高いです。百済王族は扶余・高句麗系です。

 

継体天皇の時代の気比(キビ)が吉備なのか越前敦賀なのか

私は断定はできませんが、尾張一宮や越前二宮の伝承では

一族は奥美濃から越に入っているようです。

支持する人々と一緒になって、

東国から九州までの勢力を結集して

半島勢力との戦いに備えていたのかも知れません。

それが「神武東征」の実態かも知れません。

 

崇神天皇磯城水垣宮にいたとされますが

奈良県磯城は山沿いで、海も磯もありませんから

神武天皇とヤタガラスの話は英彦山での話、

崇神天皇も福岡か四国かといった説があるわけです。

 

天武天皇の聖地結界の時代には、さらなる「神話」の改編があったようです。

欠史八代の后妃の出身氏族家系には天武朝前後の時期における政治情勢が反映され、功績のあった一族や神が系譜に組み入れられたと考えられる」そうです。(直木孝次郎)

「臣姓氏族はその大半が欠史八代を出自としており、特に蘇我氏を始め代表的な有力氏族がそれに該当する。

それ以外の天皇に出自を持つ臣姓氏族には地方氏族など中堅以下の氏族が目立つ。

臣姓に次いで有力な氏族が多く、元は地方の首長に由来するものが多かったであろう君姓氏族は、臣姓氏族とは逆に欠史八代以外の天皇に祖を持つものが全体の7割以上を占める。

そしてこれらよりも下級の氏族であった国造姓氏族は皇別のものは神武天皇に出自を持つものが多く、それ以上に天照大御神などに由来を持つ神別氏族であるものが多い。」だそうです。

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/欠史八代

つまり・・・新しく功績を認められた氏族ほど、遠い時代に功績があった人物の末裔と位置付けられた、という事らしいです。

そうでなければ、古くからの家系ほど落ちぶれている、という事になるかと。

 

そうした系図ができた上で、藤原史人、のちに「不比等」と称した、

あるいは子孫からそう呼ばれるようになった人物による、

高句麗百済寄りの歴史改竄があり、

暗号のような記紀になってしまったのかも知れません。

 

そして・・・ひふみ神示は改竄批判なのです。

 

※ 以下は、尾張一宮の「真清探當證 」などを元に

「もしかするとこんな事もありうるかな」

と想像しての系図

 

応神天皇5世】

 

聖帝伝説の仁徳天皇と、大鷦鷯は別人という説

https://www.amazon.co.jp/真実の仁徳天皇―倭歌が解き明かす古代史-福永-晋三/dp/4883451038

YouTube動画】

2022.09.28 「豊国万葉集① 真実の仁徳天皇」 福永晋三

https://www.youtube.com/watch?v=sG7paYq_Jfg

 

倭の五王

 

390年 倭が新羅百済を破る。(広開土王碑と三国遺事の新羅人質話を総合すると。神功皇后応神天皇?)

 新羅王子未斯欣が人質として日本に来た。(三国史記では402年、三国遺事では390年)

397年 百済王子の直支が人質として倭に。

404年 高句麗が倭に大勝(広開土王碑によると)。

 

日本書紀』の天皇崩年干支

讃(履中)405 乙巳 *誉田御廟山古墳
珍(反正)410 庚戌 *上石津ミサンザイ古墳?
済(允恭)453 癸巳
興(安康)456 丙申
武(雄略)479 己未 *大仙陵の年代と一致

 

無関係とは言い切れないのではないかと。

 

ちなみに、ミサンザイ(ニサンザイ)古墳というのが

何ヵ所もあるのですが

ミサンザイはミソサザイ(ササギ、サザキ)が

なまったものと考えられます。

 

大鷦鷯は「おおさざき」と読みます。

「おおささぎ」でもよいかと思います。

 

百舌鳥(もず)古墳群のミサンザイ古墳は

履中天皇陵とされています。

 

陵(御陵)はミササギとも読みます。

前方後円墳を鳥に見立てているのですが

特にミソサザイが似てると考えられたようです。

 

大鷦鷯は菟道(うじの)稚(わきの)郎子(いらつこ)と

天皇の座を譲り合っている内に

菟道稚郎子が死んだので即位した、とされていますが

殺して髪長姫を奪って皇位についたのだ、

というのが福永説です。

https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/真実の仁徳天皇/大鷦鷯の乱-宇治天皇を殺害/

 

郎女(いらつめ)は何人もいますが

郎子(いらつこ)は多くても4人しかいないようです。

実際は天皇だったのだ、という説です。

 

ちなみに・・・尾張一宮の真清探當證によると

仁賢天皇顕宗天皇皇位を譲り合ったそうです。

鬼畜雄略の迫害から逃れていた皇子たち。

継体天皇の叔父と父親です。

 

そのエピソードをパクったのだと思います。

おそらくは高句麗百済系の藤原不比等が。

 

知ってか知らずか・・・

ファイナル・ファンタジー6(FFIV)の

フィガロ王家の兄弟も、王位を譲り合った末、

コイン・トスで王を決めた、というシーンがあります。

https://www.youtube.com/watch?v=xffBZpaTs2Y#t=14s

 

不比等の子孫は名前に仁(ひと)をつけたりしていますが

その字を不比等にも適用すると不仁(ふひと)となります。

 

大本営発表の全否定である、という事が分からないと

神示は本当の意味では理解できないのです。

 

ひふみ神示 第二十四巻「黄金(こがね)の巻」
第六十帖(五七一)
「ここはいと古い神まつりて、

いと新しい道ひらくところ。」

 

それがFFVIで言うリターナー本部という事。
鬼畜バビロン極右用語で言うところの極左

それが中道

 

古神道は、体制保守などという下劣極まる悪魔思想とは無関係。
鬼畜藤原の国家神道(実質、百済仏教)とは真逆、という事。

 

ただ本来の神道ニギハヤヒ朝の信仰・祭祀体系)が弾圧される中で
神が「仏」に化けていたのが虚空蔵菩薩天御中主大神様)、

不動明王スサノヲ大神様)、大黒天(天照国照彦様)、

十一面観音(瀬織津姫)、薬師如来白山菊理媛様)。
仏教に化けた神道梵語マントラ修験道という事になるかと。

 

明治政府が破壊したかったのは、古神道なのです。

大本営は日本を背乗りした害人だから。

 

ひふみ神示 補巻「月光の巻」

第五十帖(八三七)

「神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。

人民ももう化けては居られんぞ。

九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、

化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。」

 

「権威は絶対正義」との事実無根の虚構妄信を元に

「批判者は邪悪な害人に決まってる!」として

高貴な神人を虐待する悪魔至上主義者・・・それが右翼。

差別せずにありのままを見れるかどうか。

非道なサイコパス正当化するのが右翼です。

はじめからずっと反日です。自覚がなかろうと。

ただ他虐的なだけで自分が正義とうぬぼれているような

知性のない人でなしこそが害人。ありのままに見れば分かる。

騙すのが頭いいなどと思っているだけで真実を解明する知性はない。

ひたすら軽薄。暴力的なのを硬派などと言う。それが右翼の実態です。

右翼こそが「白人」。

 

「第32章 エセ神示」は趣きが違うのもあり分割独立させました。

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/08/31/183237

 

超革新ひふみ神示 もくじ

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/07/16/220718