超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

古代史の復元6 仏教と歴史改竄

「古代史の復元」の紹介

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/12/29/022326

 

199 継体天皇即位

https://mb1527.thick.jp/N3-25-11keitai.html

AD494年10月大嘗祭を間近に控えたあわただしい中に、

仁賢天皇の母と三男の橘王が参内した。

仁賢天皇が勅使を二人の住む播磨へ派遣し呼び寄せたのである。

この二人は雄略天皇から逃避行した時、丹波田疾久方にかくまわれ、

その後播磨に住んでいたのである。

記紀において弘計王、億計王が播磨で見つかったとされたのは、

この母子の所在地に差し替えられたものと考えられる。

安閑・宣化天皇の生誕伝承地は越前の高向宮及び美濃国の根尾谷である。

どちらが正しいのであろうか。

根尾谷で生誕しているとすれば、安閑天皇がAD493年、

宣化天皇がAD494年となる。男大迹王が17歳と18歳の時となる。

目子姫同じ地に住んでいた兼平夫婦の娘であることを考えると

自然につながることになる。

継体天皇が亡くなった時、安閑天皇42歳、宣化天皇41歳となる。

あり得ない話ではない。

 神社伝承の皇子生誕伝承地が正しいとすると、

尾張目子姫武烈天皇即位年に継体天皇と結婚していることになり、

男大迹王が根尾谷を出てから8年経過した後になる。

尾張の人物と結婚したのであるから、

その結婚は尾張にいる時と考えるのが自然と思われる。

よって、皇子生誕地は「真清探當證」の方が正しいといえる。

 

# 目子媛(郎女)は一般的には尾張氏とされてますが、真清探當證では

# 奥美濃の木こりとか農夫の子のようで、名もアイヌ的です。

# アイヌ語で女性の事をメノコと呼びます。

# また媛は国つ神、姫は天つ神という説もあるので、日本書紀

# 先代旧事本紀にある媛という字を使うべきかと思います。

 

200 継体天皇

https://mb1527.thick.jp/N3-25-12keitai.html

毛野臣は新羅に上手くあしらわれて、すべてが新羅の思い通りになった。

毛野臣は新羅に懐柔されてしまったのである。任那を復興するどころか、

逆に金官加耶を滅ぼしてしまったのである。

 安羅国王阿梨斯等は交渉時は毛野臣の指示に従っていたが、

毛野臣が任那復興の約束を実行しないばかりか、任那に居ついてしまい、その

放漫な態度に怒りを覚え、帰朝することを勧めたが、毛野臣は聞き入れなかった。

 523年(継体24年)、阿梨斯等は百済新羅に使者を送り、毛野臣を攻めさせた。

毛野臣は百済が襲ってくるのを聞き、迎え撃ったが、敗北し、城にこもった。

百済軍・新羅は連合して城を取り囲んだ。毛野臣は城の守りを固めたので、

連合軍は破ることができなかった。1ヶ月経って連合軍は引き揚げたが、

この時、怒りに任せて道すがらの城を落とした。


201 安閑・宣化天皇

https://mb1527.thick.jp/N3-25-13ankansenka.html

 安閑天皇継体天皇生前に即位している。

日本書紀によると継体25年(534年)2月7日、

安閑天皇が即位したその日に継体天皇が亡くなっている。

この年が安閑天皇元年となっている。安閑天皇31歳の時である。

これはどうしたことであろうか。

 欽明天皇が直系の系統を引き継いでいる手白香皇女の血を受け継いでいるので、

次の天皇欽明天皇になるべきであるが、

継体25年当時5歳前後で、天皇の位を継がせるには若すぎたので、

その間つなぎに安閑天皇に継がせたと思われる。

継体天皇も病が重くなり、安閑天皇を即位させ、

何れ、欽明天皇皇位を譲ることを遺言して亡くなったのであろう。

 安閑天皇欽明天皇即位までのつなぎの天皇であったが、

即位2年目の535年に若くして亡くなってしまった。

欽明天皇に繋ぐには欽明天皇7歳程で、まだ若すぎるために、

宣化天皇が間つなぎで即位することになったのである。

 宣化天皇は在位4年で崩御した。この時欽明天皇は14歳ごろであり、なんとか

天皇の位を維持できると群臣が判断し、第29代天皇として即位したのである。

# この辺りで暗殺などを全く疑わないのは非現実的かも知れませんが。

倭の五王高句麗系ではないか?という疑問・仮説

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/08/27/170846

# 倭王武の祖先が北の国々を征服したというのを半島の話とすると

# 書との整合性は低めかも知れませんが東北の話かも知れないし。

 

202 欽明天皇

https://mb1527.thick.jp/kinmei.html

「平成」は高句麗王の諡号。濊と結託して百済を攻めている。

独山城は百済の北東部に位置し新羅との国境付近の城で、

百済旧都熊津の東に位置する。

熊津付近は既に高句麗領となっているため、その東側を攻略したのである。

新羅との国境付近であるために新羅としても

そのままにしておくわけにはいかず、百済に援軍を送った。

日本も援軍を送ったようである。この戦いに高句麗は破れた。

 朝鮮半島では仏教を取り入れた時期と一致して新羅が強大化しており、

百済聖明王は梁に朝貢しており、梁に援護を求めていた。

梁の武帝は仏教に心酔していた関係で、百済にも仏教を導入した。

武帝の援護をもらうためか百済伽耶諸国にも欽明6年(545年)仏教を伝えた。

この時に任那日本府へも仏教が伝わっている。

百済に仏教が導入されてから伽耶諸国がまとまり

百済と連合を組んで高句麗と戦えるようになり、

これも仏教の力であると信じたのであろう。

これをもとに百済聖明王は日本にも仏教を伝えたのである。

ところが日本では疫病が流行したようである。

継体天皇の時代に百済任那4県を割譲したことを新羅は根に持っていて、再三

任那地域の割譲を新羅にもしてくれるように要望していたのではないだろうか。

日本としてはそれを拒否し続けてきたが、

任那日本府の方から新羅に所属願いが出されたのでは

どうしようもなく、それを認可することになったと思われる。

新羅の方もそのお礼に最大限の礼を尽くして日本に朝貢したものと考える。

これが欽明21年の新羅朝貢であろう。

日本側も交換条件に何かを要求したことも考えられる。

 任那が滅亡した後の日本書紀内の任那関連記事は以上のとおりである。

562年任那滅亡後に任那日本書紀に頻出している。

これはどうしたことであろうか。

崇峻4年591年の記事を境に任那の様子が変わっている。

この年までは天皇任那の復興を気にしていることが記録されているが、

この年より後は任那自身が独立して動いている様子が記録されている。

日本書紀の記事をそのまま解釈すると、任那は一度562年に滅亡したが、

任那が復活したことが考えられる。

 その後大化2年(646年)まで任那の記事が記録されている。

同年9月、小徳高向博士黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差し出せせるとともに、

新羅から任那の調を奉らせることを取りやめさせた。

 この記事により新羅任那王の人質を取り、任那を従わせていたことが分かる。

 欽明24年(563年)、新羅高句麗を攻撃し、その領土を新羅領とした。

それを嫌った多くの高句麗人が日本にやってきて帰化している。


203 敏達天皇

https://mb1527.thick.jp/bitatu.html

第26代真平王が即位後日本の新羅に対する態度が変わっており、

それ以降日本は新羅からの調の受け取りを拒否しているのである。

おそらく、真智王は任那の復興を日本に対して約束したが、

次の真平王がそれを反故にしたために日本側が怒って

新羅からの調の受け取りを拒否したものと考えられる。

百済高句麗は中国の陳や隋に朝貢したという記録が載っているが、

新羅にはそのような記録が一切ない。

これも、真平王が周辺国家に対して強く出ているということのあかしであろう。


204 用明天皇

https://mb1527.thick.jp/youmei.html

物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構が発見され、

神事を公職としていた物部氏も氏族内では仏教を私的に信仰していたと思われる。

また、蘇我氏の側も神事を軽視していたわけではなく

百済聖明王の死を伝えに倭を訪れた王子・恵に対し、

王が国神を軽んじたのが王の死を招いたと諌めたのは蘇我稲目であった。

 これ以前にも帰化した人々が仏像を崇敬していたと思われ、物部氏蘇我氏

との論争は朝廷として仏教を受容するかどうかの論争であったと判断される。

物部氏も試しに仏像を崇敬していたものであろう。

ところが、疫病が流行したために仏像を破棄することになったのである。

 亡くなった敏達天皇の遺骸の前で穴穂部皇子

炊屋姫(敏達天皇の皇后で後の推古天皇)を犯そうとすることは、

通常では考えられないことである。

仮にそのような気持ちがあったとしても、公になることはないはずである。

さらに、それを阻止した逆が不遜であり、それに馬子・守屋が同意する

ということなどさらにあり得ないことである。

あり得ないことが堂々と記載されているということは、

ここに重要な意味が隠されているということである。

 皇位継承に最も強い発言力を持っていたのが炊屋姫ではないかと思われる。

敏達天皇の遺骸の前で炊屋姫が自分を推してくれれば、

自分が天皇になれると思って、穴穂部皇子は殯宮に押し入ろうとしたのであろう。

それを三輪逆に阻止されたのである。

 それでも、それだけで不遜だという穴穂部皇子に馬子・守屋が

同意するとも思えない。おそらく、三輪逆は敏達天皇の忠臣であるために、

生前の敏達天皇に忠誠を尽くしており、

それが、馬子や守屋の反感を買っていたのであろう。

 用明天皇即位後ではこの記事に意味が亡くなることから

585年の即位前の記事が586年に挿入されたものと考える。物部守屋

豊日皇子が皇位継承者になると蘇我氏の勢力がますます強大化するので、

都合が悪く、穴穂部皇子を推していたと思われる。そして、

穴穂部皇子の命に従い三輪逆を斬ったのであろう。

 しかし、最有力の豊日皇子がそのまま皇位を継ぐことになる。

蘇我軍に参戦した武将

 泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子、廐戸皇子(聖徳太子)、

 難波皇子、春日皇子蘇我馬子、迹見赤檮、男麻呂宿禰

 巨勢臣比良夫、膳臣賀施夫、葛城臣烏那羅、大伴連噛、

 阿倍臣人、平群神手、坂本臣糠手、春日臣河勝


205 饒速日尊の抹殺

https://mb1527.thick.jp/N3-26massatu.htm

蘇我馬子の妻は物部守屋の妹であり、妻が物部一族の

財産の相続権を主張したため、馬子が領地などを引き継いだ。

崇神天皇10年。四道将軍の一人丹波道主命は勅命により

山陰地方平定のため丹波国(今の丹後国)に至り、

比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため

矢田部の部民をして祖神を祭らしめられ、

熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。

当初の祭神は饒速日命孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、

奈良朝に至り、当時の物部氏蘇我氏の争いからついに

物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび

矢田部一族はそれを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた。

 おそらく、この頃までに全国の神社で饒速日尊が祀られていたと思われるが、

蘇我氏が地方まで圧力をかけて、

饒速日を祭神から外すことを指示したのである。

 しかし、地方にとっては饒速日信仰は非常に大切にすべきものなので、

何らかの形で残そうと図ったのであろう。そのために、

饒速日尊を別の神名として残し、

わけのわからない名の祭神を祀った神社が増えたのである。

 大和での饒速日尊を祀っている最重要視されている神社は大神神社である。

あまりに有名であり、その神威は強烈であったので、

蘇我氏の力をもってしても、饒速日尊を外すことができなかったのであろう。

 蘇我氏自身最初は強力に饒速日尊の抹殺を行おうとしたが、

地方の信仰の強さを無視したのでは、

蘇我氏の地位自体も危なくなるほどのものであった。

そこで、饒速日尊を大物主神を名を変え、

その実体を饒速日尊から大国主命に変えさせたのである。

地方豪族の反発がかなり強いので、一度の改革ではなく、

少しずつ変えていったものと推定している。

中期まで最も重要視されていた前方後円墳

饒速日尊を意識しているものであり、

前方後円墳を作らないように指示が回ったと考えられる。

前方後円墳畿内では6世紀後半頃消滅しており、

まさに、丁未の乱の頃より消滅したことになる。

 日本中の神社から饒速日尊を抹殺するには、

歴史自体を改ざんする必要が出てきた。

しかし、この時点ではまだその流れになっておらず、

祭神を変えさせるのが精いっぱいだったようである。

 それを実行するのが、古事記日本書紀の編纂である。

これはまだ大分後のことである。

# 藤原不比等持統天皇元明天皇がやらかしてるという事。

# こういうのが反日体制=右翼大本営の手口だと理解すべきかと。

# 日月神示 仏魔渡来 https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/07/30/235246


206 崇俊天皇

https://mb1527.thick.jp/sushun.html

即位3年(590年)春3月。学問を習いに行った尼の善信たちが百済から

帰って来て、桜井寺に行き、滞在し、冬10月に山に入って寺の材木を取った。

この年に出家した尼は、

大伴狹手彦連の娘の善徳・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百済媛妙光、また

漢人の善総・善通・妙徳・法定照・善智総・善智恵・善光たちである。

鞍部司馬達等の子の多須奈も同時に出家した。名付けて徳斉法師という。

日本書紀

 徳斉法師以外はすべて女性である。

日本は女王天照大神卑弥呼を輩出しており、

重要なところでは女性が活躍している。

随神の道では女性の方が霊威が強く、宗教業務は女性の方が適している

という考え方があったと思われる。そのために、

仏教を学んだのはまずは女性だったのである。

 しかし、渡来人には男尊女卑の考え方があるので、

これから徐々に変化が起こるのである。

 崇峻天皇の宮跡(倉梯宮)は桜井市倉橋にあり、かなり山奥であり、

政治の中心とは考えにくい場所である。馬子が政治を重い通りに運ぶために、

崇峻天皇の宮をこのような場所に決めたのではないかと思われる。

 暗殺事件の真相の推定

①即位後天皇は飛鳥や磐余よりずっと山奥のかなり辺鄙な倉梯宮に移され、

 「馬子によって蟄居させられたも同然」の状況であった。

天皇蘇我氏との間に婚姻関係を結ばず、大伴連糠手の娘「小手子」を妃として

 間に蜂子皇子と錦代皇女の一男一女を儲けただけだった。

③崇峻5年(592)10月4日、天皇は献上された猪を見て「何の時か

 この猪の頸を断るがごとく、朕が嫌しと思うところの人を断らむ」

 と独り言を漏らした。

④この「独り言」をこの時期寵愛されなくなった大伴小手子が馬子に密告した。

 蘇我馬子にとって、崇峻天皇を暗殺することは太逆の罪である。

蘇我一族の滅亡にもつながるのである。

しかし、暗殺しなくても大軍に攻められて蘇我氏は滅亡するのである。

馬子としては大軍が戻ってくるまでに崇峻天皇暗殺を実行するしか

方法が亡くなったのである。 # 自己中心的に打算すれば、という事。

 崇俊帝の亡きがらは、倉梯宮近くの丘陵にその日のうちに埋葬された。

連綿と続く皇統の歴史のなかで、

天皇崩御の日に埋葬が行われたのは、ほかに例がない。

この事件が細かく調査されるのを恐れた馬子が指示したものであろう。

# 百済仏教勢力「蘇我氏」のやり口が今の権力そっくり。

 馬子としては、崇峻天皇暗殺の黒幕であることが

知られてしまうのを最も恐れていた。

東漢直駒が崇峻天皇から河上娘を奪うために殺害した」

ことにすればよいと思っていたのであろう。

駒は馬子の計画通り、河上娘と共に逃げた。

 馬子は崇峻天皇暗殺の犯人として、駒を即座に処刑し、

その黒幕であることの追及を逃れようとした。

周りの豪族には、そのことは分かっていたが、証拠もなく最高権力者を疑うと、

自らの身が危うくなるので、目をつぶったと考えられる。


208 推古天皇

https://mb1527.thick.jp/suiko.html

敏達天皇と炊屋姫との間の竹田皇子丁未の乱に従軍しているところ

までは、記録に残っているが、その後に一切出てこなくなるので、

丁未の乱で死去した可能性が考えられる。

 

第1回遣隋使

古来より天皇に姓はないが、隋に日本のことを伝えるために、

アメと言う名を使ったものと考えられる。

神話の中の神々の多くに「天」が付いており、そこから来たものであろう。

第34代舒明天皇以降は、この時の朝貢が元で、

タラシと言う名が再び重要視されるようになり、

天皇名につくようになったと解釈される。

タラシヒコが付いた名は以下の6天皇で、最初は第6代孝安天皇である。

第六代孝安天皇 和風諡号は、日本足彦国押人天皇

(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)

出雲王朝15代 遠津山岬多良斯(トオツヤマサキタラシ)

 12代景行天皇の時、出雲王朝が廃止となっている。このとき、

 出雲王朝15代のトオツヤマサキタラシのタラシを引き継ぐことにより、

 出雲王朝を大和朝廷が継承したという形になっていると思われる。

第十二代景行天皇 和風諡号は、大足彦忍代別天皇

(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)

第十三代成務天皇 和風諡号は、稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと)

十四代仲哀天皇 和風諡号は、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)

第三十四代舒明天皇 和風諡号は、息長足日広額天皇

(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)

第三十五代・三十七代皇極天皇重祚して斉明天皇

 和風諡号は、天豊財重日足姫天皇

(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)

 神話上の最高神は「天照大神」である。

この神は本来飛騨王朝の太陽神を意味している。

太陽崇拝していたのが飛騨王朝であるので、

太陽神より継続して日本を治めている系統の人物と言う意味が

「アメタラシヒコ」の意味であろう。

 

 百済本紀にわざわざこのようなことが記録されている

百済本紀608年条

 使者を隋に派遣して朝貢した。隋が文林郎裴清を、倭国へ使者として送ったが、

 我が国の南路を経由した。

日本書紀

608年条 新羅人が多く帰化した。

609年条 肥後国の葦北津に百済人が多数流れ着いた。

 百済の人たちを本国に送ろうとしたところ、対馬に至って、

 請願して留まりたいと申し出た。そこで留まることにし、元興寺に居らせた。

これらの記事は、日本が隋と対等外交をしたということで、

百済新羅が衝撃を受けたことを示している。

隋と対等外交する日本に戦乱の続いている新羅百済から

多くの人々が帰化したのである。

古代史の復元では初期大和朝廷では「語り部」という役職を設け、

その時代にあった出来事を記憶させ、

重要な儀式でそれを披露するというような形が継承されてきたと推定している。

しかし、仲哀天皇崩御以降、大和朝廷皇位継承に関するところで

政変が何回も起こるようになり、

語り部」が正しく、出来事を記憶する体制に狂いが生じてきた。

応神天皇の時、漢字が「王仁」より、導入されるに至って、

語り部に記憶させた内容を、書物として残そうということになり、

記録されたのが「帝紀」「旧辞」であると考えられる。

帝紀」「旧辞」は応神天皇以降も追加して記録されていた

のではないかと考えられる。ところが、継体天皇以降、

政権を担当している豪族が入れ替わり、また、皇位継承

親子継承から複雑な継承が続き、時の権力者の都合で、

真実ではない記録がなされるようになってきた。

 それを防止し、真実の歴史が後世に正しく伝えられるように

天皇記・国記の編纂を命じたものであろう。

しかし、その翌年、厩戸皇子は亡くなってしまうのである。

その結果天皇記・国記は

蘇我氏の思い通りの歴史が記録されたのではないかと考えられる。

敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、

厩戸皇子神道の神をも厚く祀った。仏教を広める障害となっている

素盞嗚尊・饒速日尊(武甕槌命)も祀っているのである。

しかし、その手法は単に神を祀るだけではなく、神社に仏像を始め、

仏教的なものを神社に安置する方法を取っており、

神社と仏教の習合のような形で神社を祀っていることが多い。

蘇我氏素盞嗚尊・饒速日の抹殺を図ったと思われるが、

厩戸皇子は神社と仏教を習合させて仏教を広めようとしたことがうかがわれる。

しかし、厩戸皇子の死によって、その計画はとん挫したものであろう。

# 「蘇我氏が山城大兄皇子を殺した」事にして「蘇我氏」を殺した

# 天智天皇らが主犯の可能性もあり、「蘇我氏」も皇族の可能性あり。


209 舒明天皇

https://mb1527.thick.jp/jomei.html

舒明天皇時代は、蘇我蝦夷の意図する通りに政治が行われていたようである。

朝鮮半島では唐への朝貢合戦が始まっていた。

 

現在公開されている「古代史の復元」第三章は、209節までです。

その後に予定されている

210 皇極天皇大化の改新
211 孝徳天皇
212 斉明天皇
213 天智天皇白村江の戦い
214 壬申の乱弘文天皇
215 天武天皇
216 持統天皇
217 文武天皇
218 元明天皇
219 古事記日本書紀の編纂

は、未だ公開されないままです。

 

大化の改新」「白村江の戦い」「大宝律令」前後を探究すれば

必然的に、右翼大本営反日体制)の闇にぶつかります。

何があったか分からないので、著者様の御多幸を祈るばかりです。