超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

超革新ひふみ神示 25~26章

< 25 > バビロニアン・ブラザーフッド

 

シュメール語の父なる天(アン)・母なる地(キ)が
バビロニアではアッダ・アン・ウム・クとなり、
モンゴル語ではアッヂャンムツとなり、
中国黒龍江省の地名ではヂャアムスとなり、
朝鮮半島ではチャンスンとなり、
日本列島ではチャウスとなっている
という研究があります。

チャンスンとは、天下大将軍・地下女将軍
などと書かれたトーテムポールみたいなものです。

チャンスンと仮面

茶臼山古墳などは「茶葉を挽く臼」とは関係ないと思われます。

チャウスはバビロニア経由の天父神・地母神

古墳時代に入ってきた騎馬民族

実はバビロニアアッカド)の系統だった事を示しています。

 

今の芸能界がやたらと「シン・仮面ライダー

シン・ゴジラ」などと「シン」をつけたがるのは

ナラム・シン崇拝かも知れないと疑わしく思っています。

 

一方、ウラル=アルタイ系よりも先に入っているドラヴィダ系

などの場合は、天父神アン・地母神キがそのままアンキとなったり

アキとなったりしているそうです。速秋津彦・速秋津姫といった

神名になったりしているかと考えられます。

 

※ 巻末資料にすべきかも知れませんが、参照すべきは今だと思うので

 ここで年表を載せておきます。

 

400~200万年前 アフリカ東側各地にアウストラロピテクス
260万年前~約180万年前 オルドワン石器文化
180万年前 オルドヴァイ遺跡(アフリカ、ザンジバルより少々北)
30万年前(氷期)~3万年前(最終氷期) ネアンデルタール人
 ムスティエ文化(中期旧石器)
12万年前 出雲の砂原遺跡の石器(石英のハンマー・ストーン等)
9万年前 岩手・遠野の金取遺跡で石器
6万4800年前 スペインのラパシエガ洞窟に壁画。抽象化された絵も
5万年前 オーストラリアのアボリジニホモ・サピエンス)が後期旧石器
3万8千年前~3万5千年前 東京・石神井川の栗原遺跡で磨製石器
 *普通は磨製石器と高度な打製石器があれば
  新石器時代とされるそうだが、世界最古の磨製石器
  のある日本はこの時期まだ旧石器時代とされている。
  「高度な打製石器」が無いと見なされてる?
2万年前 沖縄で世界最古の釣り針
 長江から南に100キロの仙人洞(江西省)に世界最古の陶器。
 中国では釉薬を掛けない焼き物は焼成温度の高低に関係なく
 陶器と呼び、土器とは呼ばない。博物館などで公開はしないらしい。
1万6500年前(縄文時代草創期) 東津軽の大平山元遺跡で土器。
 世界最古の石鏃(矢尻)も。近隣の黒曜石も石器に使用
1万2000年前 長崎の福井洞窟で土器(かつては世界最古とされた)。
 黒曜石も使用。日本最古?の線文字の刻まれた岩もある。
BC8000頃 長江流域の湖南省周辺で稲作開始(現在の定説らしい)
 浙江省浦江の上山遺跡もこの頃
BC7000年~BC5500年頃 インダス渓谷の西のメヘルガル遺跡I期
BC6600年 黄河流域の裴李崗文化の遺跡(新石器時代)に賈湖契刻文字
BC5500頃~3800頃 メソポタミアでウバイド文化。
 穀物の収穫が劇的に増加
BC5000頃 長江下流の河姆渡遺跡。大量の籾殻や米、農耕具
BC4000年頃 岡山の朝寝鼻貝塚陸稲
 かつての定説では、この頃アッサム地方で稲作開始とされていた。
 諸氏の説を総合すると、雲南からアッサムに入った稲作は
 吸血虫を伴うため沐浴ありきのガンジス川でもインダス川でも
 受け入れられず、南下してスリランカ等に移動したのではないかと。
BC4000~3000頃 静岡・山梨・東京・群馬からはじまり
 東北・北海道の各地に環状列石
BC3900~2200 青森の三内丸山遺跡。環状列石墓、糸魚川翡翠などあり
BC3300年頃 エジプトでヒエログリフの文字体系確立、太陽暦も普及
BC3200年頃 ウルク古拙文字と原エラム文字登場
BC3300~2800 インダス文明ハラッパーI期
BC2500年頃 ペルーにカラル遺跡。石造。既に非常に精緻な造り。
 近隣にレンガは存在するが土器はBC1800頃から、という特異な文化
BC2350 アッカド帝国がシュメール制圧
BC1900 フェニキア人がシドン、ティルスなどの小都市国家
BC18世紀 アナトリア(今のトルコ共和国)のカマン・カレホユック遺跡に鉄滓。
 まだヒッタイト王国はなく、アッシリア商人の植民都市があった時代
BC19-17世紀 ヘブライ人のカナーン移住(族長時代)
BC1600年±400あるいはもっと前? 長江上流の成都付近の三星堆遺跡。
 四川省徳陽市広漢市。いきなり高度な青銅器
BC14世紀 カナーン都市国家とエジプトのアマルナ往復書簡
BC13末-12世紀 イスラエル(部族同盟)のカナーン侵入
BC1250-00 頃 メキシコ湾岸にオルメカ文明。
 巨石人頭像は黒人ぽくも見えるが翡翠仮面などは細目。
 生贄の儀式などやってるのを見ても、フェニキア
 影響を疑うべきではないかと。
BC1100 フェニキア諸都市の興隆と地中海への進出
BC1020頃 ヘブライ王国(統一イスラエル)成立
BC1000頃 唐津の菜畑遺跡などで水田稲作
 南インドで甕棺墓。
BC922頃 北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂
BC597~538 ユダ王国新バビロニアに敗れ強制移住
BC400頃 吉野ケ里遺跡で甕棺墓
BC250頃 弘前の砂沢遺跡の水田跡から遠賀川(北部九州)式土器。
 (弥生時代前期末。)これを知り記紀の矛盾も知る人が
 東日流外三郡誌(和田喜八郎)にも同様の価値を見出すのも自然かも。
BC264~146 ローマとカルタゴポエニ戦争
BC215 秦の蒙恬匈奴討伐。万里の長城の築造も担当
BC200 漢の劉邦が白登山(山東省)の戦いで匈奴に敗北
BC040頃 青森田舎館村の垂柳遺跡の水田跡
 (弘前の砂沢遺跡より古くから稲作とする説も。)
AD280~297 陳寿三国志を筆記。魏志倭人伝など含む。
AD308 匈奴前趙)の劉淵が晋(司馬懿の一族)を破り鄴を陥落させる
AD452 フン族アッティラがローマに侵入
AD600 倭のアメのタリシヒコ王が遣隋使。推古女帝ではない。
AD645 乙巳の変。これより前の歴史を抹殺する動きは警戒すべき。
AD710 飛鳥から逃げるように平城京に遷都
AD792 ジャワ島ボロブドゥール遺跡。大乗仏教の尖塔。
AD794 「平安京」に遷都
AD965 キエフ大公国の遠征でハザール可汗国が事実上崩壊。
 ハザールは元は西突厥支配下にあった可薩部と考えられ
 フン族の同類(支配層はテュルク)と考えられている。

*ちなみに中国では五代十国時代突厥北漢の武将だった楊業

 の一族を描く「楊家将演義」が三国志並みに大人気だそうです。

1071 セルジューク・トルコが東ローマを撃破
12世紀 カンボジアヒンドゥー教ヴィシュヌ派寺院
 アンコールワット。後に上座部仏教寺院に改築。
1211 チンギス・カーンに金朝が敗れる。天山ウイグル王国が帰順。
1271~74頃 ヴェネツィア共和国マルコ・ポーロ
 クビライ・カーンの元に到着。シナに17年滞在
1364 ティムールが石橋の戦いで東チャガタイ・ハン国軍に勝利
1453 オスマン・トルコが東ローマの首都を陥落させる
1526頃 モーゼス・ゴールドシュミットがフランクフルト・アム・マイン
 ゲットーで両替商や絹布貿易
1543 種子島に鉄砲伝来
1549 ザビエルが薩摩で宣教開始
1594~1597頃 シェークスピアヴェニスの商人
1614 家康が大阪冬の陣でイギリスからのカルバリン砲を使用
1632~1653頃 ムガール帝国タージ・マハール
1798 神聖ローマ帝国自由都市フランクフルト・アム・マインに生まれた
 ネイサン・メイアー・ロスチャイルドがイギリス繊維業中心都市に移住
1904 日露戦争。資金はヤーコブ・シフやロスチャイルドから。
1917 ロシア革命
1941 ファシストが太平洋戦争を起こし日本人を殺戮

 

ユダヤ鼻」とか呼ばれている鷲鼻・鉤鼻(曲がった鼻)は
実際はテュルク系騎馬民族の特徴です。

 

西に移動したフン族などがテュルク系で、

極東ではそこまで多数派なわけでもないはずですが
昨今の「日本の」テレビ番組では異常に多いです。

意図的に優遇して選んでいるのではないかと思われます。

 

ちなみに、アメリカの大統領や候補者には

フン族の血筋と考えられるAB型やB型が多いです。
アメリカでのAB型比率は、5%にも満たない調査が多いようですが。

海兵隊は、そうした人物だけから選んだ部隊ではないかと思っています。

 

フン族と「ゲルマン民族の大移動」の時代(5世紀)は
ヨーロッパでは中世の初めです。


「日本史」ではその時代を「古代」と呼びますね。

古墳時代どころか、飛鳥・奈良時代まで古代などと。
中世より前の歴史が抹消されている事が隠されています。

 

縄文時代の日本は、稲作、磨製石器
環状列石(日時計になるはず。それに
冬至夏至春分などの日に光が指す穴
などの類は、あちこちにあるので、暦の役割も
あっただろう)などがあって、渡来人から
何か教わる必要など既になかったのです。

 

ひふみ神示 第二十八巻「夏の巻」
第二帖 (七一九)
「 ・ がよろこびであるぞ。また ・ の ・ はムでもあるぞ。
内から外に向って行くのが☉ のやり方、
外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。
◯から ・ に行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。
外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。
元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。今の世は逆様ぢゃ。
先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ。」

 

「 ・ の ・ はム」を老子風に言い換えると

「玄のまた玄は衆妙の門なり」となるかと。

世界人類が平和でありますように」の

五井昌久先生は、インドの聖者ババジを老子と同じ魂と見ておられました。

大神様がそのまま降りてきたような存在だそうです。

 

ひふみ神示では、

〇は外面、形式、抜け殻を表し、

・ は中身、内容、霊を表しています。

大神様は上辺だけの言葉や素振りはお嫌いです。

 

ネイティヴ日本人(沖縄など〇九十の世界)には ・ だけが残り、

外国では〇だけが発展した、などとされていますが、

これは当然、沖縄には心だけは残っている、

海外は物質文明ばかり発展して心がない、

というような意味となります。

 

右翼は形式からパクッて、心は後からついてくるなどと

言いますが、それは外国のやり方なのです。

 

どうも〇〇教会などの工作員

ファシストを「中心軸」として

盲目的に従うのがよいという自分たちの世界観に合わせ

 ・ を「軸」と呼びたいようですが

そもそも彼らは嘘つきで、建て前と本音が異なっています。

そのように形ばかりかざって中身が抜けているのが〇なのです。

 

そもそも日月神示は国つ神(ネイティヴ日本人)を尊重すべき

という話であり、外来の思想が間違いという話であり

日月神示が侵略者を正当化してるかのように解釈するのは

単なる自己中心的なご都合主義でしかありえません。

 

 

< 26 > 百済王族の渡来

百済仏教伝来は538年とされていますが、

実際にはそれより前に来ている可能性もあります。

 

大分の国東半島は、九州から瀬戸内海に向かって

突き出ているような地形で、もし宮崎から

「神武東征」がはじまっているなら

必然的にここを通るであろう、地政学上の重要地点です。

 

特に、福岡・山口に渡来人政権があったりした場合は

そこで激突する可能性が高いです。

 

この辺りは磨崖仏の宝庫です。中でも

臼杵大仏」は国宝に指定されています。

 

これらの石仏(摩崖仏)は、通説では
平安時代につくられた事にされていますが
正和4年(529年)という九州年号が刻まれていたそうです。

1927年の「大乗仏教芸術史」(小野玄妙、大雄閣出版)に
「つい数十年前まで」文字が残っていたと書かれてるとか。

 

529年なら、531年の継体天皇および皇子たちの暗殺よりも先となります。

 

当地の伝承では、摩崖仏をつくらせたのは
真名野長者(炭焼き小五郎)と言われています。
金(キン)を手にして成りあがったのだそうです。

 

一般的には、真名野長者の子は般若姫で、
用明天皇と結婚したとされているとか。

ところが、真名野長者の子は聖徳太子だという説もあるそうです

 

その伝承が本当かは分からないけれど
荒唐無稽とも言い切れないのではないかと。
伝承は何らかの真実を含んでる事が多いのです。

蘇我氏秦氏聖徳太子と関係深いと言われています。
そして、豊前にいたようです。

 

そして、そういう秦氏が移住した地域が
恭仁京あたり、木津川、笠置、加茂あたりの
摩崖仏のある地域(京都府南部)ではないかと。

もちろん、太秦などにも移住したのでしょうが。

 

秦氏の祖先は、応神天皇の時代に渡来した
弓月君とされています。
5世紀中頃(450年前後)に
日本にやって来たと考えられています。
秦と書いて「ハタ」と読みます。

 

秦氏は紀元前の始皇帝の子孫とされているため
百済温祚王などと同時期に
朝鮮半島南部にいたとか
「漢委奴国王」の金印の時代に
日本に渡来していたとか言う方もいらっしゃいます。

 

けれど、中国の史書で「秦王国」が登場するのは
隋書(列傳第46 東夷 俀國)です。
その文化は中国風だったと言います。
隋は鮮卑族の国・政府なので
どんな中国風なのか、よく分かりませんが。

 

遠賀川流域の物部氏の勢力圏をも
秦氏が開いたかのような説も見受けますが

漢や魏、晋は、その辺りを「秦王国」とは見ていません。

 

むしろ、遠賀川勢力を越(夏王朝の末裔)とか
呉(孫呉ではなく、周王朝の末裔)からの倭人
見ていたようです。

 

現存する日本最古の戸籍である
正倉院文書からすると
秦氏が居住していたのは
豊前の行橋、犀川、中津、築上あたりのようです。
仲津郡とか上三毛郡とか書いてあります。)

 

その辺りが「秦王国」ではないかと。そこから

もう少し南にいくと、たくさんの摩崖仏が見られるわけです。

木造ならば遷都の際に持っていく事もできるけれど

摩崖仏だから、持っていけなかったのでしょう。

 

隋書には、600年以来4度の遣隋使を送って来た
倭王アメのタリシヒコないし
アマのタラシヒコ王の居住地域から
阿蘇山が見える事が記されています。

つまり、まだ王朝は九州にあったわけです。

 

645年、乙巳の変で中大兄王子が権力を握ります。
おそらく、「聖徳太子」の子の
「山背大兄皇子」を暗殺したのは
蘇我氏」ではなく、彼らではないかと。
山背(のち山城)は秦氏の領域でした。

 

つまり・・・桓武平氏の末裔という執権北条氏と

同じやり口だと私は見ているわけです。

源実朝公を甥の公暁が暗殺したとして

鎌倉幕府の将軍家の嫡流を根絶やしにした。

天智・持統天皇藤原不比等百済人と見ています。

 

622年に聖徳太子、626年に蘇我馬子、628年に推古天皇

没したとされていますが、これら全てが

遣隋使を派遣したアメのタリシヒコという一人の人物だった

可能性もあります。聖徳太子推古天皇は「秦王国」の人物で

倭とは関係なかった可能性もあります。また蘇我蝦夷・入鹿

とされ殺されたのは倭の王族だった可能性もあるでしょう。

蘇我氏が自分たちの墓を御陵と呼んだというより

実際御陵だったのを百済人が破壊している可能性がないか?と。

 

天智は天武天皇の兄とされていますが、

年齢を逆算すると天武が年上のはずなのです。

后の持統天皇が天智の娘というだけの関係。

 

クーデターの発起人は中臣鎌足とされ
その子が藤原不比等とされていますが
中臣氏と藤原氏は全く別の氏族のようで

不比等天智天皇中大兄皇子)の子
と考えた方が辻褄が合います。
つまり持統天皇の弟という事になります。

 

亡命百済人が「天児屋命の子孫で祭祀を司る

中臣氏」を背乗りしたという事。

 

663年、白村江の戦いにおける謀略で
百済からの亡命王族が
天つ神を裏切って九州王朝を壊滅させ
鮮卑族の唐と、百済系の「統一新羅」と
百済系の偽「日本」(擬制日本)という
蛮賊国家群が成立します。

 

このため、葛井寺藤井寺)など各地で
「神社は新羅系で寺は百済系」
などという、ややこしい事になったようです。

藤井寺市新羅神社でも、秦氏が関わっています。
実質、扶余・高句麗百済系の藤原氏と一体化しているようです。

 

日本には、陥落寸前の百済を助けに行くメリットなど無かったはずです。

ただ天智天皇が実権を握っていたので、出撃する事になったけれど

天智は出兵せず傍観し、日本人(倭人)を殺しただけでした。

この手口は、関ヶ原での毛利や、

太平洋戦争での山本五十六なども使っています。

 

672年、「壬申の乱」で天武天皇
政権を奪還しますが、
その死後、天智の子である
持統天皇や異母妹の元明天皇
藤原不比等と組んで歴史改竄していったようです。

 

元明天皇は708年に
「山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は、百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出し、念には念を入れて古代からの王族や豪族の系譜を抹殺しようと図っています。

 

こんな事もあります。
奝然(チョウネン、938?~1016)という
東大寺の僧侶の俗姓を
藤原だったとする説と
秦だったとする説が並存しています。

 

『宋史』日本伝には984年に宋に留学した東大寺
奝然が太宗に職員令と「王年代記」と呼ばれた年代記
を献上したと記されています。

 

それを元にして書かれた宋史日本伝では、
はじめの王は天御中主、次は天村雲尊、
17代が伊弉諾尊、18代が素戔烏尊、
19代が天照大神尊などとされ、
最初の23代は筑紫日向宮に都したとされています。

 

いろいろごちゃ混ぜになってると思う方も

いらっしゃるでしょうし、実際そうかも知れませんが
こちらの方が真実を含んでる、という部分も
あろうかとも思います。

日月神示ではナギ・ナミ両神の御子は
スサノヲの大神様であり、神社伝承では
スサノヲの大神様の御子はニギハヤヒ大神様、
またの名を天照大神様。
大日霊女貴様と習合した女神ではなく、男神です。

 

ともかく、そういう文献を宋に献上したという
奝然(チョウネン)が、秦氏とも藤原氏とも言われる
のも興味深い事です。もともと「藤原氏」は中臣氏ではなく
秦氏」に紛れ込んでいたのではないかと。

 

私の中では、「弓月の君」という月氏ぽい名乗りと

秦河勝」木造(テュルクとモンゴルの中間くらいの顔)が結びつきません。天狗の服装は胡人の服装

*これと似た感じではなかったかと。

 

もっと正直に言うと、父が主催する会で、霊媒の方を通じて「弓月の君」からお話をうかがった事があるのですが、普通にA型ぽい(天つ神系の)人物という印象を持っています。もちろん、何の証明にもならない事で、それが根拠と言われても他人は納得できないのは分かっているのですが、どうにも腑に落ちないのです。

 

蘇我氏神道を司る物部氏から権力を奪うために
仏教を重視したため、蘇我氏秦氏の縄張り
だったみやこ(旧京都郡)、行橋、中津、国東半島あたりに
百済の仏教勢力が入り込みやすかったのではないかと。

 

「新選氏姓録」では、天つ神の系譜に百済人が

編入されています。その事について

日本書紀私記』の序文で太安万侶の子孫の多人長(おおのひとなが)が批判しています。

 

聖武天皇の時代に秦河勝の曽孫という
秦 島麻呂(はた の しままろ)という人物がいて
没年は747年とされているのですが、
その娘が、藤原北家の小黒麻呂に嫁いでいます。

その子が藤原葛野麻呂で、
妹の上子が桓武天皇後宮に入ったため
重んじられたそうです。

恭仁京遷都に関わった秦氏
藤原北家が一緒になってるではないですか!
平城京から恭仁宮への遷都は740年。ですが、

あちこち遷都が続き、また平城京に戻っています。

 

ところで、続日本紀には、隕石に関する記述が多いです。

宝亀二年(771)十一月、辛亥、星有り、西南に隕つ。その声雷の如し。

宝亀三年(772)六月、戊辰、往々京師に隕石あり。其の大きさ柚の実の如し。
 数日にして止む。

宝亀三年六月十二月、己未、星隕ること雨の如し。

宝亀四年(773)五月、辛丑、星有りて南北に隕つる各一つ。其の大きさ盆
 (瓦)の如し。

宝亀七年(776)二月、是夜、流星有り。其の大きさ盆の如し。

宝亀七年九月、是月、毎夜、瓦石及び塊自ら内堅の曹司及び京中往々屋上に
 落つ。明けて之を視れば、其の物あり。二十餘日を経て乃ち止む。

 

こんなに隕石が集中して同じ地域に落ちる事など、

まず考えられないのですが、火山弾だったらあり得るのです。

平城京はまだ九州にあったのではないかと考えられます。

鶴見火山伽藍岳の噴火によって、火山弾が飛んで来たのではないか。

 

宝亀二年五月二十三日、豊後國速見郡教見郷、山崩れ潤填し、水為に流れず。
 十餘日を積みて、忽ち決し、百姓七人を漂没す。埋めらるる家四十三区あり。
 其の調庸を免じ、之に賑給を加ふ。

 

平城京は、土師氏の居地である菅原の地に建造したそうですから、

土師地名の多い桂川町にあったのではないかと福永晋三氏は

考えていらっしゃいます。

また、行橋市の福原長者原遺跡(II期)が藤原京と考えられます。

大宰府(倭の京)規模の巨大な都であり、地方役所とは考えられません。

I期は瓦が見つかっていないため、飛鳥板葺宮ではないかとも考えられます。

いずれも福永氏の説ですが。

福永説では赤村が近つ飛鳥、行橋は遠つ飛鳥。

ちなみに藤原京は学術用語で

藤原宮と呼ばれる宮殿を中心とした京の仮名がそのまま使われているものです。

 

しかしながら・・・亡命百済人たちはそこにいた事を知られたくないらしく

こうしたものは発掘されても、しばしばすぐに埋め戻されるらしいのです!

国東半島周辺では。

 

藤原氏が摂政・関白を独占するに至ったのは

藤原不比等が「娘」の光明子聖武天皇の皇后にしてからです。

通説では、光明子藤原不比等橘三千代の娘。
同母兄に橘諸兄葛城王)がいます。

光明子は女鹿の娘で藤原不比等の養子という伝承もありますが。
ついでに言うと観阿弥の先祖は橘諸兄という説もあれば
楠木正成の妹の子が観阿弥という俗説もあります。

 

不比等の父親は中臣鎌足ではなく天智天皇という説は、

古くは平安時代末の「大鏡」から出ています。

中臣氏は儀式だけに追いやらています。

 

中大兄皇子(天智)は葛城皇子とは

別人なのではないか?という説もあります。

7年間摂政をしていたとされる時期は
葛城天皇の治世だったのではないか、というのです。

 

また、よくよく見れば、天智の功績は

蘇我氏を殺した」しかないのです。

おまけに、白村江の戦いで大敗北を喫している

にも関わらず、唐から責任を取らされてもいません。

これは、むしろ唐とグルだったからと考えた方がよいのかも知れません。

 

唐の高祖・太宗・高宗の母は全て鮮卑

出自がどうであれ鮮卑の血を引いています。

 

唐の前の、隋の王家の出身地の武川鎮という所は

北魏の「鮮卑エリート」が配された所ですから

隋の王族も鮮卑だと考えられています。

普六茹という姓だったのが

漢化政策で楊と名乗るようになったのではないかと。

 

つまり、扶余・高句麗百済王族からすると

同胞(もとは騎馬民族)なのです。

 

中大兄王子が蘇我氏を殺した後、

母親という皇極天皇から叔父という孝徳天皇皇位が移っていますが、

再び皇極天皇斉明天皇として重祚し、

そこで孝徳天皇の子の有間皇子が謀反の濡れ衣を着せられて殺されています。

 

天智系統と藤原氏こそが、歴史の簒奪者ではないかと。

 

まだ天武系でもある持統系の皇統が残っている中で、

やたらと天智が持ち上げらる理由の一つは

藤原不比等が実権を握っていたから、かも知れません。

 

新唐書』日本伝
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。

 

妄りに誇るなどなどの描写は、鮮卑だから日本を貶めたくて書いてるとかではなくて、おそらく実務に当たっている漢民族が客観的に正確に書いているのではないかと思います。「日本」からの使者の様子が、まるで魏志高句麗伝のようです。魏志倭人伝とは全然違います。天智系・藤原一味による日本背乗りの結果かと。

 

そして、明白に百済人である桓武天皇につながるわけです。

 

桓武天皇は「天智系の持統天皇との混血」であっても

天武系を嫌っていました。

 

それが「天皇家の位牌がある泉涌寺には、
天武系の天皇の位牌は無い」という事につながっている

かも知れません。

京都にあった「尊牌・尊像」は泉涌寺に移されたが

奈良の寺院に奉安されていたのは移されていない、

という話らしいです。

けれども、寺院でなく山科陵に葬られたはずの天智と、

「奈良の藤原宮」にいた事になっている元明の位牌もあるそうです。

 

なお持統と元明は天武と草壁皇子の后とされてるだけで
天武の子孫ではありません。天智系です。

位牌の話を論じる上で、そこを混同なさる方もいらっしゃるようですが。

 

奈良の「藤原京」や「平城京」からは、
ほとんど大工道具が出土していない、という話もあります。

九州で作ったのを移築したのかも知れません。

福岡には「廃寺」がたくさんあるのですが

これらも「近畿」に移築したと考えられます。

古墳から寺院に変化した後に
太宰府観世音寺から法隆寺とか三十三間堂
寺院が移されたようです。福永氏の他に、

耐震建築の米田良三氏がそういう指摘をなさっておられます。

 

ついでに書いておくと、法隆寺に関しては、

フェノロサ岡倉天心による夢殿開扉は実はねつ造?」

という話もあります。

 

阿蘇溶結凝灰岩で作られた石棺なども

はじめは九州の古墳に埋葬されていたのを

後から近畿に移した可能性が高いのではないかと。

 

近畿地方で大古墳が造営され始めるのは4~5世紀。

近畿地方に鉄器が本格的に普及し始めるのも4~5世紀。

沖ノ島祭祀に近畿方面から大和政権が参加し始めるのも4~5世紀。

九州で装飾古墳が造られるようになるのも4~5世紀。

 

4世紀末頃まで隆盛だった朝鮮半島南部
洛東江流域の日本列島勢力が
高句麗勢力の南下の影響を受けて後退し始め、
代わりに5世紀以降朝鮮半島南西部栄山江流域の
日本列島勢力(伽倻)が隆盛となり、
近年は栄山江流域周辺で前方後円墳が多数
発見されているそうです。(姜仁求1983年)

 

4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島
百済新羅高句麗と戦ったことが
広開土王碑に記されています。
この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、
周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと
日本書紀』に記述があり、
磐井の乱(527年)として扱われています。

 

5世紀半ばになり、
各地に巨大古墳が出現するようになり、副葬品に
馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなります。

 

匈奴フン族)のような蛮賊がはびこるようになった

時代からが中世ですから、日本でも5世紀から中世と

呼ぶべきでしょう。古代・弥生時代にはまだいなかった者たちを

古代からいたかのように粉飾するための区切りはやめるべきかと。

 

ボストン美術館所蔵の大仙陵古墳から出たという
獣帯鏡、馬鐸2個、三環鈴、鐶頭柄は
5世紀末~6世紀前半のものと鑑定されています。

子の履中天皇でも5世紀前半と考えられているので
大仙陵は、実際は仁徳天皇陵ではないでしょう。

 

ちなみに雄略天皇が418年~479年(5世紀)の人

と考えられています。古墳を巨大化させても

おかしくない人物です。

 

なお、現在天皇陵とされる古墳の比定は

江戸末期の蒲生君平によるものが大半だそうです。

千利休門下でキリシタンだった蒲生氏郷の末裔という事になります。

 

それと、埴輪は「弥生式土器」ではない、

という事を深く理解しておきましょう。

 

なぜかと言えば、弥生人倭人)なら温暖な

揚子江流域から来ているので、寒冷適応の必要がなく

パッチリ二重まぶたの可能性が高いからです。

細目はまぶたに脂肪がたまっているためで

寒冷適応の結果です。

細目の埴輪は古墳時代途中からのもの。

 

弥生人は細目」というのは嘘で

騎馬民族(天智系・藤原・帰化人の血筋)が細目なだけだと思います。

アッカドバビロニアの血筋という事です。

 

ひふみ神示 第十五巻「一八(イハ)の巻」
第十一帖 (三七六)
「此の世を我がもの顔にして御座るが、守護神よ、
世を盗みた世であるくらゐ、わかってゐるであらうがな。
早う元にかへして改心いたされよ、
神国(かみくに)の王は天地の王ざぞ、
外国(とつくに)の王は人の王ざぞ。
人の王では長う続かんのぢゃ。」

 

ひふみ神示 第ニ巻「下つ巻」
第十三帖 (五五)
「逆立ちして歩くこと、なかなか上手になりたれど、
そんなこと長う続かんぞ。
あたま下で手で歩くのは苦しかろうがな、
上にゐては足も苦しからうがな、
上下逆様と申してあるが、これでよく分るであろう、
足はやはり下の方が気楽ぞ」

 

上に立っている下賤の卑俗な「セレブ」どもは蛮賊

という話です。ひふみ神示がいかに「極左」超革新か。

ぼうっと読んでるだけで大本営発表を妄信してる内は

全く想像もつかないのではないでしょうか?

 

大本営が実は反日親蛮であるという事は

「古代」史観における渡来人優遇を見れば

明らかに分かるはずの事です。

 

いかに縄文文明を軽視しているか。

 

右翼の凶暴で正論を抹殺しようとする態度は

そういう所から来ているわけです。

 

右翼ほど、雅楽だの漢字だの、外来の文化を

日本の伝統だと主張し、縄文人を蔑視したがるわけですから

右翼が親日嫌韓を主張するのが変なのです。

 

右翼をおかしいと感じないのなら、

自分が日本人ではない事を自覚すべきかも知れません。

少なくとも大和魂ではなく、幽界(がいこく)魂と化していると。

できないから神示を理解できないのではないかと。

 

天つ神(揚子江からの倭人)の特徴は真・美、

国つ神(縄文人)の特徴は愛・善、和してマコト。

 

誠意がなく悪意に満ち、偽善と虚飾を良しとし

謀略を巡らせ他人を不幸にして嘲笑したがるのは偽・醜・悪。

それが幽界(がいこく)魂。

 

戦後は、縄文人こそが日本人としながら

渡来人崇拝右翼こそ日本人とする変なのも増えてますが

偽装や、詐欺師妄信がなければ、右翼にはならないと思います。

 

悪い者を悪いとありのままに見て

権力にこびたりしない公正な人士なら

革新にしかなりようがないと思います。

超革新ひふみ神示 もくじ

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/07/16/220718