超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

古墳時代ってなに?

内部に「石囲い木槨」を持つ古墳が

讃岐・阿波・播磨地域で多く見られるという話を

知ったものの、検索して出てくる古墳は

ホケノ山古墳だけで、他に検索にかかるのは

ホケノ山のモデルになったと考えられる

萩原墳墓群の2号墳くらい。

 

ホケノ山は帆立貝形古墳とされ、

前方後円墳の原型とされているが

その原型は徳島にある、まだ古墳ではないと

されている萩原2号「積石墓」。

(なお、前方後円墳への過渡期の形態とされる

帆立貝式も、初期に限定されるわけでもなく

なぜ帆立貝式なのかは不明のままのようです。)

 

ホケノ山の竪穴式石室には床面にいくつかの柱穴があり、

ここに木の柱を据え付けて棺のまわりを木で囲っていた

と考えられています。このような

石囲い木槨のルーツは漢の楽浪郡と考えられるそうです。

 

木槨を持つ弥生時代の墳墓は

福岡県糸島市の平原1号墓、

島根県出雲市の西谷3号墓、

岡山県倉敷市の楯築墳丘墓、そして

徳島県鳴門市板野の萩原1号墓・2号墓

だそうです。

 

石囲い木槨で検索しても、

これくらいしか検索にかからないので

ホケノ山の他は「古墳」とはされていない

「墳墓」扱いなのかも知れません。

 

「楯築墳丘墓」は「双方中円形墳丘墓」で、

実質上は双方中円墳と呼んでもよいかとも思います。

 

双方中円墳は数が少ないけれど、その中には

香川県高松市の石清尾山古墳群の

稲荷山北端古墳もあり、これも積石塚でもあります。

 

積石塚を高句麗の影響という方もいるけれど

それにしては時代が古く、実際は

漢の楽浪郡からの影響ではないかと。

 

年表で整理してみましょう。

12万年前 出雲の砂原遺跡の石器(石英のハンマー・ストーン等)

9万年前 岩手・遠野の金取遺跡で石器

3万8千年前~3万5千年前 東京・石神井川の栗原遺跡で

 世界最古の磨製石器

2万3000年前 沖縄サキタリ洞で世界最古の釣り針

1万6500年前(縄文時代草創期) 東津軽の大平山元遺跡で土器。
 世界最古の石鏃(矢尻)も。近隣の黒曜石も石器に使用

1万2000年前 長崎の福井洞窟で土器。黒曜石も使用。

 日本最古?の線文字の刻まれた岩もある。

前8000年 長江流域の湖南省周辺で稲作開始。

 浙江省浦江の上山遺跡も。

前6600年 黄河流域の裴李崗文化の遺跡(新石器時代)に賈湖契刻文字

前6000年 沖縄サキタリ洞に土器

前5500年 千葉県市川の雷下遺跡で7.6m以上はある丸木舟

前5300年 鬼界カルデラ噴火。火山灰は松島湾最上川まで到達か。

前4000年 岡山の朝寝鼻貝塚陸稲 *吉備に倭人到達かと。

前3900~2200年 青森の三内丸山遺跡。環状列石墓、糸魚川翡翠などあり

前3500年 阿多カルデラ噴火。海外で縄文土器が見られるようになる。

(前3000頃 オーストラリアの東のバヌアツに縄文式土器、など。)
前3300年 エジプトでヒエログリフの文字体系確立、太陽暦も普及
前3200年 ウルク古拙文字と原エラム文字登場

前2350年 アッカド帝国がシュメール制圧

前1046年? 武王が殷王朝を滅ぼし周を建国。
 殷の最後の王となった紂王は暴君とされるが
 その叔父の箕子は賢者とされる。武王は部下とせずに
 朝鮮(半島北部)に奉じたという。史記によれば箕子は
 朝鮮人に礼儀・農業・田作・養蚕・織機を教え
 犯禁八条を施行して民を教化したという。

前1000年頃 唐津の菜畑遺跡などで水田稲作
 南インドで甕棺墓。日本でも見られるとか。

 支石墓も。(縄文時代晩期、弥生時代早期)。

 ところが、どこが最古かと言うと急に

弥生時代前半の壱岐が最古級」とか言い出すようで。

弥生時代の初めの頃から見られた

 大型の壷がさらに変化した」とか言われてるそうな。

 また、半島での農具は菜畑遺跡よりずっと遅れている

 にも関わらず半島が先だと主張する者が後を絶たない。

前700~前600年頃 木棺を埋蔵する方形周溝墓

弥生時代前期中葉)。

前470年頃(中国春秋時代の)越の貴族の墓に銅鐸によく似た磁器の鐸

前473年 呉王夫差の公子忌、来朝し、火国山門に住む。

https://hanzan-qazwsxedc.jimdofree.com/講18-03-古代田川に天皇がいた2/呉越同舟/

とする松野連系図は中国年号(周の元王3年)でなく孝昭天皇3年と書いており、

実際は神武の方が呉王夫差より後の時代(子孫)だろうと思う私は

「いつ頃書かれたのか」と思う部分も多々あるものの。

持統・元明不比等らに系図などを没収された後にうろ覚えで書いたりしてる

のだろうから無理もない部分もある・・・のかも知れない。

盲信もしないが完全な捏造と断言は酷かも知れません。

中国の史書『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝

梁書東夷伝などに、倭について「自ら太伯の後と謂う」と記載されている

https://note.com/kazugaga/n/n194c80684d23

後世の「資治通鑑」にも「周の元王3年(紀元前473年)、越は呉を亡ぼし、その庶(親族)共に海に入りて倭となる」とあるそうです。

なお句呉は、周王朝の祖の古公亶父の長男の太伯(泰伯)が、太伯の次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国だそうです。

周の姬姓は元々、禹の姒姓と同祖であり、黄帝、帝嚳の別姓

https://ja.wikipedia.org/wiki/姫_(姓)

山陰の松島・須佐には黄帝社があります。

また、

史記』越王勾践世家や『漢書』地理志粤地、『呉越春秋』によれば、少康の庶子である無余が会稽に封ぜられ、文身(入れ墨)・断髪したのが越の起源であるとされる。

『翰苑』巻30所引『魏略』逸文や『魏志倭人伝』にある倭人の習俗についての説明では、倭人が入れ墨を彫っているのは大魚や水鳥の害を防ぐためであるとして、夏后少康の子の故事が引き合いに出されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/少康_(夏)

したがって狗奴国と対立する邪馬台国

越王勾践系(夏末裔)だろうというのが福永晋三氏の説。

前400頃 吉野ヶ里遺跡で甕棺墓

前400~200頃 出雲中心に銅鐸祭祀(鋳型は吉野ヶ里でも見つかるが

 分布地から物部氏和邇氏、出雲系との関係が指摘されている。)

前250頃 弘前の砂沢遺跡の水田に遠賀川系土器(北部九州式を模造)。

前219~前210年 秦の徐福が不老不死の霊薬を求め出航?

 徐福の故郷という江蘇省連雲港市の焦庄遺跡の長粒系炭化米に近い大きさ

 炭化米が吉野ケ里に近い瀬ノ尾遺跡に。長粒は筑後川水系に集中なお一族の

 祖先の徐偃王にはインドネシアを中心に多い卵生説話がありインド系かも。

 (三品彰英、林泰輔らの研究。)徐福一族のY染色体(父系DNA)である

 O系の分布も東南アジア中心でインドから日本に至っている。

前200頃 大型の玉璧が中国・南越王墓に。

 (ほぼ同じ文様構成で大きさも同様の33.3cmの玉璧が串間にも。

 下賜されるようなシロモノではないので王族が持参したかと。)

前195年? 燕・斉の亡命者と現地住人で衛氏朝鮮を建国。
 なお、後世の魏略によれば、この時(箕子?)朝鮮王準が
 逃れて韓王になったという。が、最終的に馬韓を制したのは伯済国=百済

 (辰韓を制したのは斯蘆国=新羅弁韓は伽倻、のち新羅。)
 儒教を重んじた高麗や李氏朝鮮両班(文官・武官)は
 箕子陵などの「遺跡」を顕彰のために造営した

 1280年代成立の『三国遺事』には檀君朝鮮神話があり、
 朝鮮王準は檀君の子孫とされるようになり、箕子説と檀君説が
 入り乱れるようになり、箕子陵は金日成の命令で破壊された。

 なお檀君神話の引用元とされる『魏書』陳寿の『三国志』や

 魏収の『北魏書』)には檀君神話は無い。

前108年 漢の武帝衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪など4郡を設置

前100~後100頃 銅鐸祭祀の中心が播磨・阿波に移る

前100~後50頃 備後北部の三次盆地に四隅突出型墳丘墓。

 0年頃から出雲系土器も。

0~100頃 瀬戸内海交通が活発に。

https://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/49taguchi6.html

50年頃 荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡で銅剣・銅鐸埋納。

50~180年 伯耆四隅突出型墳丘墓がひろがる

57年 倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、
 倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う

48~150年頃? 阿踰陀国(インドのアヨーディヤーサータヴァーハナ朝か。前100頃~後205頃。タイのアユタヤは11世紀頃からとされる。)出身の許黄玉が金官伽倻(駕洛国狗邪韓国。後漢書によれば倭の西北端の国)の初代・首露王の妃に。

100年頃 漢の楽浪郡の古墳が木槨墳から塼築墳に変化。

107年 安帝の永初元年、倭国王帥升等(漢魏音ではスイサヌウ)が生口160人を献じ、謁見を請うた。

100~200頃 瀬戸内海交通は低調、山陰・丹波ルートが活発に。

180~250頃 出雲、越前、越中などに四隅突出型墳丘墓がひろがる

100~300頃 銅鐸祭祀の中心が近江・遠江に移る。

 鳴らすのでなく見る銅鐸に。(200年頃まで鋳型は尾張。)

2世紀後半 尾張清須の廻間遺跡に前方後方形墳丘墓。

 岡山熊野神社の地の黒宮大塚前方後方墳丘墓とする説もある。

四隅突出型墳丘墓や方墳には周溝がないそうです。

 方形周溝墓、円墳、前方後円墳は周溝があるとか。

 であれば黒宮大塚は方形周溝墓ではなく方墳か前方後方墳。)

 帆立貝式が前方後円墳の祖型なら、黒宮大塚は前方後方墳の祖型かも。

 ただ2世紀末とされており、廻間遺跡の前方後方形墳が先の可能性も。

2世紀後半~3世紀前半 倉敷に双方中円墳古墳時代0期)。

250年頃  出雲・伯耆の西谷墳墓群、妻木晩田遺跡などが一斉に終焉

200~300頃 三遠式の影響も少しある近畿式銅鐸が遠江でも主流に。

 鋳型は近江南部。(下之郷では出雲に多い中細型銅剣も出土。)

 

< 古墳時代 前期 >

1期 3世紀中葉 235~267 駿河前方後方墳(高尾山)

230年 呉の諸葛直らが徐福の子孫を求め亶洲(東鯷国、銅鐸圏)へ。

238年 呉の赤烏元年銘のある三角縁神獣鏡山梨県(三遠式銅鐸圏)に。

 (つまり神獣鏡は魏から卑弥呼へ贈られたのではない国内産なので

 100枚はとっくに超えてる。天理黒塚では鋳型から出したばかりで

 バリも取られていない未完成品が棺外に33枚並べられ、棺内には

 画文帯神獣鏡が1枚だけという状況だった。

 遼東の公孫淵が燕王を自称し魏から独立。

 司馬懿が制圧。卑弥呼が派遣した難升米が帯方郡に。

 曹叡にも謁見か。12月に曹叡は病床につき、翌年没。

240年(前年は喪に服していた)魏の使いが邪馬臺国に到着。

248年頃 ヒミカ様崩御。狗奴国のククチヒコが倭の大王
 となるが 後継者の手研耳命(菊花相良出身)が殺された
 事で戦乱となり 臺與が13才で女王に。(大芝英雄氏や

 福永晋三氏の説を受け、私なりに解釈・咀嚼し変化させた説。

 私の父が菊池武時公の生まれ変わりと称しているため。)

265年 司馬炎が魏の曹奐に禅譲を迫り晋皇帝となる。

266年 倭の使者が晋に到達。

2期 3世紀後葉 268~300 西求女塚(前方後方墳

3期 4世紀前葉 301~334 メスリ山

304年 匈奴劉淵が晋から独立(五胡十六国時代の始まり)

308年 前趙匈奴漢)の劉淵が鄴を陥落させる

311年 前趙劉曜が洛陽を陥落させる

313年 高句麗楽浪郡を制圧

316年 劉曜長安も陥落させ西晋滅亡

337年 鮮卑の慕容氏が前燕を起こす

342年 慕容皝が高句麗の丸都を陥落させる。

 故国原王(在位331~371年)は翌年、前燕に臣下の礼を取り

 王弟を入朝させることによって難局を乗り切った。

4期 4世紀中葉 335~367 北摂茨木の紫金山、将軍山

藤原不比等を中臣氏とは思ってないので、

将軍塚は秦氏と関係あったりしないかと、

うっすら思ったりもします。寝屋川の太秦にいたみたいだし。

天智と中臣鎌足の蹴鞠出会いエピソードが

武烈王(金春秋)と庾信とソックリな件

https://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/201209260000/

毗曇の乱とソックリな乙巳の変 

https://blog.goo.ne.jp/514303/e/7a1c35fa9c3fecaf47817dea881efc46

 

< 中期 >

5期 4世紀後葉 368~400 佐紀石塚山

*ちなみに佐紀盾列古墳群のうち市庭、神明野は

 破壊されており、のちの平城京を企図した者とは系統が別かと。

 天武の新城がずらされて持統の新益京になったという話も。

 http://pentacross.seesaa.net/article/461957317.html

 楽浪郡が消滅した事で「中国」に遣使する際は

 新羅とか高句麗とかを経由するようになった・・・

 というより、高句麗百済藤原氏や天智系が

 権力を握ったから半島を重視するようになった

 というのが本当の所かも知れません。

371年 高句麗の故国原王が百済との戦いで矢を受け戦死

 小獣林王(在位371年~384年)と故国壌王(384~391年)が立て直し

391年 高句麗で広開土王が即位

6期 4世紀末〜5世紀初頭 396~405 大和高田の築山。

 (倭が新羅百済を破り高句麗に敗れた頃)

*福岡の老司古墳は横穴式石室を採用。

 前漢代の中原で多くつくられ、

 前漢中期以降、中国全域に普及した塼室墓に起源をもつ。

7期 5世紀前葉 401~434 造山、女狭穂塚、誉田御廟山。

 串間の周辺は地下式横穴墓の最盛期。

 大隅大崎の神領10号前方後円墳の周辺にも地下横穴

 蛇行剣は宮崎・鹿児島・熊本3県の境で特に多く出土。

 https://hinafkin.hatenablog.com/entry/2022/04/27/115607

 (東北では見られず、出土数に偏りがある。)

8期 5世紀中葉 435~467 北摂茨木の太田茶臼山

452 フン族匈奴)のアッティラがローマに侵入

9期 5世紀後葉 468~500 大仙陵、江田船山、稲荷山鉄剣。

 豊前横穴墓発祥。(長江南部の崖葬・崖墓と似ている。

 崖葬には、木棺を吊るすもの、天然の岩棚に木棺を置くもの、

 岩を掘削し石棺とするものがある。木棺を吊るすタイプは

 フィリピンなどでも見られる。江南では春秋戦国時代から。

 宋時代まで、一部では明時代まで見られる。なぜ豊後で

 5世紀後葉になって横穴墓を掘削するようになったのか不明。

 古墳用の土地は限られる中、新たに体制下に加わった層に

 横穴墓を認めたのではないかと推察する方も。また、

 景行天皇日本武尊四道将軍に組み込まれた地と近似が見られる。

 https://yrekitan.exblog.jp/30690860/

 山陽道には見られないが、そもそも古事記では

 吉備征服は崇神天皇より3代前。

 「実際には崇神の配下ではなく物部氏から逃れた大彦を

 将軍の一人として遣わしたと記したのでは?」説
 https://shingosuzuki.jp/2022/07/19/archives/416

5世紀末葉~6世紀前葉の百済でも少数の横穴墓。

479年 百済で三斤王が死去。人質として倭にいた

 末多王を即位させ東城王とした。筑紫の軍士500人

 が護衛についたという。公州丹芝里古墳群には

 地下式横穴墓に近いものがあり、倭系の須恵器

 見られるものもあり、「筑紫の軍士」が隼人系

 だった可能性もある。逆に地下式横穴墓のルーツを馬韓

 としたり、箕子朝鮮だの衛氏朝鮮だのと言う方も

 いるそうですが、箕子だの衛氏だの飛躍しすぎでしょう。

 普通に横口式土壙墓がルーツと考えてよいかなと。長江

 隼人のものまで朝鮮半島ルーツなどと我田引水し過ぎ。

 

< 後期 >

10期 6世紀前葉〜中葉 501~567 岩戸山、今城塚

532年 匈奴金氏新羅金官伽耶を併合。

11期 6世紀後葉 568~600 みやこ甲塚方墳、見瀬丸山

畿内では前方後円墳はこの時期まで。蘇我vs物部の影響?

600年 アメのタリシヒコ大王の遣隋使。倭の都では

 阿蘇山を神聖視してると隋書倭国伝に書かれている。

 また竹斯国の東に秦王国あり中国風という。

 なお、隋も鮮卑の王朝と考えられる。

12期 6世紀末〜7世紀後半 596~700 弁慶ヶ穴装飾、高松塚飛鳥時代

*一般的に7世紀前半までが12期とされるが天武持統合葬陵は7世紀後半、

 キトラや高松塚などは8世紀の可能性も。

横穴墓丹波や東北地方では奈良時代まで造られている。

626頃 伽倻王族という金庾信の妹が金氏新羅の武烈王に嫁ぎ文武王を産む。

*「伽倻の金氏」も元から匈奴の可能性あり。本名にゴールドや金をつけるのは

 ウラル=アルタイ語族の習性。「将軍塚」の主である可能性を考えると尚更。

645~647頃 乙巳の変 =毗曇の乱?

663年 鮮卑の唐との白村江の戦い天智が倭軍を大敗させ大出世。

668年 高句麗を滅ぼし「統一新羅成立。

672年 壬申の乱東国の助力を得て天つ神復権

698年 大祚栄が靺鞨族と高句麗遺民を統合し渤海建国。

末期古墳 7世紀~10世紀前半の東北 猫谷地1号墳

北上川中流のみ石室が見られる(奥州安倍氏坂上氏?)

*副葬品が豪華ではなく、格差が少ない社会

津軽中里の唐崎遺跡では石器・土器・土師器・須恵器が共存

784~794年 長岡京

789年 多賀城を発した紀古佐美の軍が胆沢合戦で大敗。

797年 「続日本紀」成立

801年 アテルイ坂上田村麻呂に敗北。

802年 百済人の桓武が田村麻呂の嘆願を無視しアテルイを殺害。

804年 最澄空海らが遣唐使

907年 唐が滅亡し五代十国時代に。

926年 契丹(遼)渤海を滅ぼす。秋田城は外交施設の意義を失い城塞化。

935年 唐皇帝(鮮卑)の血筋という王建が後百済新羅を傘下に降し高麗が半島統一。

 なお、孫の王詢は顕宗と呼ばれている。

 

いやぁ、方形周溝墓(方墳の祖型)が圧倒的に古くから存在し、

古墳時代に入っても前方後方墳の方が先ではないですか!?

テロによって文明を背乗りした事実を隠したいだけに見えなくもない。

 

結局、弥生墳墓や末期古墳を古墳ではないと主張する方々は

研究対象から除外する事によって

実際の変遷を隠したいのではないかと。

 

実際は奈良から始まるわけではないし

北部九州からの物部氏は東へ北へ移住してもいる・・・

そこに銅鐸や前方後方墳の分布地が移ってもいる。

 

前方後円墳に限った場合、

1期の古墳が多いのは筑前9、播磨8、大和6の順

https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-188.html

なお、備前・美作・備中を吉備にまとめると11で最多

 

吉備中山の中心地は「隼人崎」とか呼ばれてたらしいですから、

ある意味「神武東征」の経由地と言えるでしょう。

けれど、雄略天皇は吉備を攻撃するわ、

葛城氏を攻撃するわで、やっぱり高句麗系の可能性がある

わけですね。まぁ高句麗の影響があるのは

広開土王からでしょう。それ以前のはまぁ・・・

古事記日本書紀で好意的に描かれていない

崇神天皇のイリ王朝、隼人を熊襲と蔑視している期間くらい

でしょうかね・・・飛鳥以前で蛮賊(いわゆる白人、特亜)

の影響がありそうなのは。

 

それ以前は、揚子江(長江)から渡来した

倭人=海人=天つ神が九州から吉備、河内と

移住していく過程・・・の中に崇神朝が

少々混じってる、くらいでしょう。

 

稲荷山鉄剣のいうワカタケル大王は

雄略天皇ではなく欽明天皇だという方も

いらっしゃいますが、欽明天皇陵と

比定されている古墳は2つあります。

平田梅山と見瀬丸山です。

見瀬丸山は頂上部は真北から西に24度傾き、

丹後一宮・籠神社を指しているそうです。

平田梅山は蘇我稲目説もあります。

 

結局、「石囲い木槨」は検索しても出てくる数が

少なすぎるため、また「古墳時代」の規定から

外されているため、崇神系なのか隼人系なのか

断言は難しいけれど、事例の少なさから考えると

崇神朝の可能性も・・・まぁ分かりません。

鳴る銅鐸の「埋葬」と関係あるのか。

 

ところで、飛鳥時代まで「古墳時代」に含むのなら

弥生時代との差があまりない5期までは

本当は何時代と呼ぶべきなのか・・・

崇神朝ヤマト(イリ王朝)時代とか。

 

沖縄・奄美のゴホウラ貝を重視していた頃までは

弥生時代でよいかと思いますが。

 

弥生時代の古墳」でよいかと。

弥生時代だから古墳ではない」という理屈がおかしいだけで。

 

百済新羅を破り高句麗に敗れて以降の

倭の五王応神天皇の5世子孫・継体天皇の即位から

百済による天武系排除までは何と呼ぶべきか・・・

春秋時代とか、遷都時代とか。

平安時代」に入るまで「皇族」の殺し合いや

藤原氏の陰謀による殺害などが多いわけで・・・。

テロばかりやらかしてる実質を隠蔽し粉飾して

やれ周の末裔だ何だと言う東夷は胡人と同じで

実際には夏人(中華の文明人)には見えません。

始皇帝も胡人のようですが。粉飾だらけ。

 

方形周溝墓は実質、古墳なのだから

ホケノ山から急に古墳時代と呼ぶのは

どうかと思うんですよね。

吉備などを経由し東国に移ってる事を隠すための

意図的なゲリマンダー歴史区画ではないかと。

 

九州に王朝があった事実をを隠したい者

=はじめから今の近畿に王朝があったとしたい者こそが

神武東征から神功皇后までを消したがってる者

だという事を理解すべきではないかと。

真逆のデマを流してる者がいますが。

論理的に考えてみましょう。

 

なお、神功皇后以前を神話として抹殺したいという

勢力には、「朝鮮の檀君神話が否定されてるから、

日本の神話も否定したい」という感情があるのだと

思われます。近畿政権は渡来人優遇で

縄文時代を非常に軽視していますから。

 

血液型から見た場合、1976年のオックスフォード大学の発表によると
韓国O型27% A型32% B型30% AB型11%

で、北方騎馬民族の血筋が41%もいます。

 

中国よりも三皇五帝の子孫が多かったりはしません。

 

日本こそが、アジアで最もA型比率の高い地域です。

O型30% A型40% B型20% AB型10%

くらいです。1980年頃の献血データによると。

縄文人もO型とA型が半々くらいと思われます。

日本語の基盤はポリネシアなので。)

https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11744062155.html

 

しかも、A型が濃いのは出雲(島根)41.3%。次いで
熊本(狗奴国)41.2%、北九州(邪馬台国41.0%

で、西日本から岐阜にかけて比率が高めなのです。