超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

記紀神話の系図は合成かも

古事記日本書紀に出てくる初期の人皇家は

皇位継承をめぐって血族同士の殺し合いをしている

かのように描かれている。

けれど、実際は人種が違うのだと思う。

 

そもそも人皇初代の即位にしても

それ以前の「神話」にしても

殺しが無いわけではないのだけれど

「血族同士の殺し合い」が酷くなるのは

偽の仁徳天皇・大鷦鷯や雄略天皇

高句麗系の疑いがある「倭の五王」から

藤原氏桓武天皇が権力を握るまで

テロや陰謀が繰り返されている。

 

前世の私にも落ち度はあっただろうけれど

「血族同士の殺し合い」をしてる皇族全てを

「自」とは感じないのもまた事実だ。

あれを「自」と感じる方は、

かなり危険人物ではなかろうかとも思う。

 

超革新ひふみ神示 33 継体天皇の「神武東征」

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/08/27/170846

で書いているけれど、

私は雄略天皇桓武天皇藤原氏などを

扶余・高句麗百済系統だと考えている。

 

魏志高句麗
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/gisi_kokuri.htm
人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む。

 

魏志倭人
https://www.yoshinogari.jp/ym/topics/
盗みもなく、争いごとも少ない。

 

この区別がつかない方は、ひふみ神示でいう

幽界(がいこく)魂」だと思う。

 

それで、反日右翼体制は必死で自分たちの罪を

ひふみ神示大本教に転嫁しようと工作してるわけです。

とてつもなく自己中心的。

工作員インフルエンサー)を「自」と感じ、

批判されて逆ギレする方日本人ではないよ。

 

持統天皇は691年に18氏族に対し

先祖の墓記を上進させています。

元明天皇は708年に即位すると

「山沢に逃げ、禁書をしまい隠している者は

百日以内に自首しなければ罰する」と「詔」

(実質は独裁者の命令)を発しています。

また、騙し討ちを自慢げに誇るような「神話」を

書いているのも、まぎれもなく彼女らに他なりません。

 

大鷦鷯と菟道稚郎子皇位を譲り合い

2,3年空位だったとされているけれど

播磨国風土記には宇治天皇とあり

実際は空位ではなく、真の仁徳である

菟道稚郎子」の徳治政治が行われた

可能性がある。それを殺して后と

皇位を奪った大鷦鷯からは

高句麗系の人皇が「天皇」とされて

混入されている可能性が高い。

また百済王族も扶余・高句麗と同じ系統

(元は騎馬民族バビロニア系)で

人質ないし亡命者として来ていた百済王族が

天智系や隠し子の藤原不比等の可能性が高い。

 

記紀をうのみにして悪人として描かれ殺されてる側を

悪人だと思い込むのが右翼ですが

私はそうではなく、権力を握っていた側が悪ではないか

と思うわけです。それを「現代的な浅い見方だ」

藤原不比等の陰謀なんてない」などと平気で言う方が

高句麗人びいきである事は、

はたから見れば歴然とした事実でもあります。

海外から「渡来人」が持ち込んだであろう

天然痘による藤原四兄弟の死を暗殺であるかのように

根拠もなく断定するのも高句麗百済びいき過ぎだし。

まぁ来週半ばくらいになったら、もう少し詳しく書くかも知れません。

 

記紀によると、長田大郎女(中磯皇女)は

安康天皇に殺された大草香皇子の妃だった。

実父が継父に殺されたと知った眉輪王に

安康は暗殺されたという。もしかするとこの話も

宇治天皇(真の仁徳)と大鷦鷯(背乗り偽仁徳)

の話を反映しているのかも知れない。

 

古事記では安康天皇の同母姉も長田大郎女という名。

 

また、応神天皇の子の大大迹王(大郎子)は

男大迹王(継体天皇)と名が似ている上、

娘の中斯姫命は中磯皇女かも知れない。

 

また、応神天皇の逸話に継体天皇の話が

盛り込まれている可能性を考えると

気比の神と名を交換したという逸話も

大大迹王と関係しているのか?と

氣にとめておくべきかも知れない。

 

なお、応神天皇「誉田別」の義父は品陀真若王

(ほんだまわかおう)だそうだ。

80人の子がいた景行天皇の曾孫という。

 

応神系と高句麗系の王族の系譜を

ごちゃまぜにしている可能性があるし

欠史八代」なども存在しなかったのではなく

同時代に並立していた別の王朝の系譜

前後の時代に継ぎ足したのではないかと思われる。

シュメール王名表でも、並立王統を縦に継ぎ足す

という事が行われているそうだ。

新羅倭人の朴氏、多婆那の昔氏、匈奴の金氏が交代で

王位を継承していたみたいな話も、その類ではないかと。

文武天皇武烈天皇諡号新羅王をまねてる知れません。

 

継体天皇を簒奪者のように見る学者は高句麗びいきかと。

継体天皇は、まぎれもなく、天つ神系貴族から支持されて

即位した皇族であり、大鷦鷯や雄略天皇の方が簒奪者

だったのだ、と見ればよく分かるようになるかと。

 

渡来人と日本人を区別しても意味はない」

などと平気で言える方は、日本人ではないでしょうね。

 

考古学に詳しい方の中に、

「日本を作ったのは渡来人」と思い込みたくて

そういう方向性で考古学をやっている方もいるけれど

それが「自尊的」な右翼の発想

 

映画で見るマフィアは「アメリカをつくったのはイタリア系」

とか思っているようですが、それと似たような思想・言い草。

闇の組織で加害してるだけのくせに恩着せがましい。

 

現実をありのままに見ようとはしない。

問題点を分析して解決しようともしていない。

ただ自分が正義だと妄想したいだけ。

 

それでは日月神示大本神諭も理解できないのです。

 

ちなみに実際のマフィアはラテン系の顔は少ないかも。

メディチ家フン族のような細目が多いのではないかと。

 

私は広河隆一とかいう人物に何の幻想も抱かないので

「なぜあの人が婦女暴行で訴えられるような事に」

などとは全く思わないわけです。何の不思議もありません。

不思議に思う方の世界観が間違っているだけ。

 

「自分たちの人権は大切だが、日本人には

何をしてもよい」と思っているような「渡来人」は

いくらでもいます。現実をありのままに見ましょう。

渡来人を一切美化せずにありのままに見れば分かるはず。

 

そういうわけで、少なくともしばらくは

私が京都へ行く事は無いかと思いますが、

行かないと事前に言っておけば

工作員が入り込む可能性も減るかと思います。

逆にいない間に取り込もうと必死になるかも知れませんが。

まぁ、もともと害人優遇の世界観を持ってそうですが。

渡来人に幻想をいだいたままの方が

攻撃対象にされる可能性も低くなるでしょう。

工作員は「渡来人」だからです。

 

私の指摘が正しいと理解しはじめたら

名前を出したままでは「同胞」でも

狙われないとは限らないと思うので

それなりの心構えは持った方がよいかなと思います。

「渡来人」は実際は全然立派ではないからです。

 

けれど、藤原と橘の関係だとか、筒城宮、長岡京の話、

それに加古川(播磨)と由良川丹波)の

つながりなどを知る事ができたのは

知識の範囲から抜け落ちていた部分を補う事に

つながり、私にとっては大きな収穫となりました。

 

危険性を減らすためにも名は少なくとも

今は出しませんが、とても役に立ちました。

 

 * * * * * * * *

 

その方がおっしゃるには、日置氏は高句麗系なのだそうです。

けれど、出雲の日御碕の宮司家の日置氏は

元は小野氏だったという話も目にします。

「日御碕 小野」で検索すれば分かると思いますが

一時日置と名乗っただけで代々小野だそうです。

また聖徳太子の子にも日置王がいます。

https://yomiagaeru.exblog.jp/27511365/

 

日置蓑麻呂は704年生まれとされ、

祖先という伊利須使主は

『八坂郷鎮座大神記』の言う伊利之と同一人物

であれば656年、斉明天皇の頃に渡来したとされる。

したがって前の時代の欽明天皇とは関係ない。

富家伝承によれば推古天皇が日置王を日御碕に派遣

したそうだけれど、それでも伊利之の渡来より前の話だ。

 

「日置造 高麗國人 伊利須意彌之後也」とあるのは

815年に編纂された「新撰姓氏録」での話で

王建が高句麗の後継と称して高麗を建国したのは918年。

神功皇后の時代に新羅は存在しない」とうそぶく方が

ここはスルーするというのも奇妙な話です。

 

また、高句麗系だというのであれば

倭人系=天つ神系の継体天皇

息長氏、物部氏などと対立してないのも

高句麗人らしきふるまいが記録されてないのも

なかなか奇妙。

 

藤原氏雄略天皇桓武天皇には

明らさまに高句麗百済系らしさが出ています。

 

装飾古墳に高句麗の影響があるかも知れない

という可能性は、まぁあるのでしょうけれど

では日置氏がどんな悪事をやらかしたのか?

というのが見えて来ません。

それで高句麗系というのは奇妙です。

 

ちなみに方保田東原遺跡の日置の地だと

夏至の日の出は豊後の日出町・杵築市

宇佐八幡宮の元宮方向からとなり、

日の入りは玉名の疋野神社方向。

国東半島と同様に?炭焼き長者伝説があります。

冬至の日の出は高千穂・延岡方面からで

日の入りは柳川あたりから唐津近くとなりそうです。

 

日置氏が入植した所は、もともと発展していた土地

というのは指摘されている通りですが

川の中流だと合流点、下流だと河口部、

つまり海人の交通の要衝に入ったようです。

 

そういう所はだいたい、物部氏

日神(と習合した大歳神ニギハヤヒ様)と

水神(と習合した御年神・瀬織津姫様)を

両岸祭祀していたであろうポイントとなります。

 

海人の要衝に騎馬民族が入り込んでいる、という話になるわけです。

 

熊本の山鹿市の弁慶ヶ穴古墳の壁画には

馬を乗せる船(小舟?)が描かれている

という事ですが。「倭の五王」の頃には

古墳に馬具が埋葬されたり、細目の埴輪が

作られたりするようになるのも事実でしょう。

高句麗の広開土王が倭に大勝した」影響はあるでしょう。

 

けれど、装飾古墳が流行するようになるのは

「筑紫の君磐井」の墓と考えられる

岩戸山古墳にあるような石人像が作られなくなる

のと同時進行のようです。古墳の外側を物で飾るのを

やめた代わりに古墳内部を絵画で飾るようになった

ようです。つまり、コスト削減です。

庚申塔」などが実際に仏舎利塔などを建てる代わりに

石碑に塔などを彫刻するのと同じかと。

 

騎馬民族倭人縄文人を酷使して

古墳を巨大化させるのとは

方向性が逆かも知れません。

つまり、高句麗の影響が次第に減った事で

装飾古墳が生まれた可能性もあるし

三国時代朝鮮半島北部は漢民族の支配地域ですから

装飾古墳は騎馬民族が作らせたともまだ断定せず

半島にいた漢民族の影響かも知れないくらいに

思っておいた方がよいのかも知れません。

 

男神天照様と「天照神の現身」瀬織津姫様が隠蔽されるのは

天武天皇亡き後、藤原不比等

持統・元明天皇の時代と考えられます。

日置氏が物部氏ニギハヤヒ朝)の信仰を

ゆがめた証拠は今の所知られていません。

 

また、漢民族騎馬民族と同じようにとらえるのは

ナンセンスだと思います。「渡来人」と一括りは変。

 

倭人(天つ神)はもともと漢民族だと考えられますから。

血液型がA型という事です。騎馬民族

ユダヤ匈奴)と同じB型と考えられます。

全然違います。

害人が嫌われるのは自己中心的で凶悪だからです。

加害者である偽ユダヤ匈奴真正ユダヤ視するのも変。

 

ちなみに今の中国は騎馬民族だらけ、細目だらけです。

(それでも少し前までテレビに出る女性はパッチリ二重まぶたの方が

多めで、高速道路の看板は超美人だらけでしたが。

今は匈奴などの韓流をゴリ押ししはじめたようで。)

 

そういうわけで日本はアジアで最もA型比率が高い地域

4割がブラフマナの血筋・・・みたいなもので

欧米の一般人の方が北方騎馬民族などより日本人に近い。

 

多数派の天つ神国つ神をこそ日本人と呼ぶなら

それを敵視し迫害する大本営反日なのです。

大本営こそが中つ枝からの渡りて来た仏魔の眷属。

 

これは客観的、歴史的な事実をありのままに書いてるだけで

擁護する方がよほどおかしいのです。

 

明らさまにおかしいのはB型氏族だけなのだから

歴然とした違いがあると感じないのなら日本人ではない。

 

日本では騎馬民族の血筋であるB型は20%、

AB型は10%と東欧なみでしかないのだから

B型が35%とかAB型が15%とかの国ほど

混血」してるわけではないわけですよ。

もっと混血を増やそうは外患誘致

日本を敵視するよう「教育」を受け

染脳され優越妄想する狂信者を増やす

というのは日本には全く利が無く、

危険・害が多い。占領軍と同じ事。

 

ちなみにハワイなどのポリネシア人や、
北米・中南米ネイティヴ・アメリカンには
B型は皆無です。そういう地域にはファシストがいないのです。
ファシストがいないのが本当の神代・ミロクの世だと思います。
右翼とは「ファシストこそが神と崇める悪魔主義者」だと思います。

 

紀貫之藤原不比等を風刺する竹取物語の作者の可能性が高い

ので、紀氏が高句麗百済系の藤原などでなく

天つ神系と対立してるかに説くものは自己中すぎるし

大隅・大住などと関係あるであろう、博多に元宮がある

住吉大社を紀ノ國の丹生神の変名みたいに言うのもおかしい。

記紀に出ない神名などいくらでもあるのに

丹生都比売の名が出ないなどという理由で。)

住吉は元はスミの江です。日吉が元はヒエだったのと同様。

 

 * * * * * * *

 

「小人閑居して不善をなす」と言います。

 

閑居とは「暇でいると」とされる事が多いようですが

「閑散としてると」「加害者自身と被害者の他に目撃者がいないと」

と解釈した方がよいでしょう。

「不都合な人士に時間を与えず反乱を起こせないようにしよう」

は悪政をやらかす害人の発想です。

「害人は処罰されない状況なら強姦などの悪事をやらかす」

というのが「小人閑居して不善をなす」の

本来の意味だと考えます。

「情けは人のためならず」も

「情けは人のためにならない」という右翼的な解釈は間違いで

「情けは自分自身のため」という意味ですからね。

 

右翼体制・大本営はしばしば、言葉の意味を正反対にすり替え

ようとします。例えば「しこめ」「しこお」の「しこ」は

本来、強勢な様を示す語でしたが、「醜い」という意味に

すり替えたのは右翼体制・大本営に他なりません。

加茂(かも)は神(かむい)という意味だったようですが

これも鴨という「簡単な標的となる鳥」の名となりました。

熊襲、土蜘蛛のクマ、クモもカモとかクメと関係してるかも知れません。

隼人を熊襲と蔑視するのは崇神系王朝の間だけ、という指摘もあります。

 

なお、継体天皇の曾孫(欽明天皇の孫)とされる中にも

久米王(来目皇子)がいます。母親は穴穂部人皇女。

聖徳太子」と同母兄弟という事になる。ホがつくのも隼人系かと。

葛城広子の子の当麻皇子は異母兄で間人町立岩に

鬼を追い詰め封印したとされるが

そこを根拠地とした「鬼」は穴穂部間人皇女

に他ならないと推測されてもいる。

また、応神天皇の妃の泉長媛は日向の人で

その時期に西都原の女狭穂塚などが築かれています。

娘の草香幡梭皇女は履中天皇の皇后で

その娘が中磯皇女です。大草香皇子の妃です。

 

崇神系王朝(イリ王朝)を、隼人系王朝の「同胞」と思ったり

正当化したりする方がおかしいのでは?

「自分たちが差別していた」という事は認めたくない、

みんな同じと言いたがる・・・それはどんな者たちの慣習か

知っている人はよく知っているはずです。

 

なお伊利之は「高麗」出身にも関わらず
新羅から」スサノヲ大神様を勧請し祇園の八坂神社を
創始したとかされています。スサノヲ大神様は
実際、半島に出征していると思いますが
もともと出雲などで御祀りされているのを
国外から逆輸入というのも奇妙な話でもあります。
牛頭天王」はスサノヲ大神様とは限らないわけで。
むしろアッカドのナラム・シンの牛頭兜を連想させます。
で、伊利之が八坂入彦命崇神天皇の皇子とされる)
と同一人物だったりしたならば、656年より前に
渡来している可能性もあり、いろいろあった崇神系ならば
元は高句麗系でも倭に帰順している可能性も
雄略だの藤原だのよりずっとあるかも知れません。
紙切れ文書上とか口だけの「帰化」ではなくて。
八坂入彦命の子が景行天皇の后の八坂入媛命
その子が五百城(いおき)入彦皇子、
その子が品陀真若王とされています。

 

宇治は蛆に変えられてしまいました。

南風(ハエ)は蠅に変えられています。

いや・・鴨や蛆や蠅をもともとどう呼んでたかは

知らないのですが。おかしくないでしょうか?

 

高天原はタカアマハラと読んだのですが

右翼体制・大本営はタカマガハラと読むようにし

実質、高凶原にしようと図っているわけです。

大本営反日なのです。

 

「神霊」と同じ読みの「心霊」=悪霊ばかり宣伝し

墓、先祖、霊を怖がらせ、悪いイメージを持たせ

伝統が途絶えるよう陰謀を巡らせているのも右翼大本営

ホラーや怪談が多すぎるしTverでバラエティー枠に

するのもおかしい。暴力、犯罪、サスペンスものが

好きな奴だけに見せればまだましなものを。

そういうのが好きな低俗な者こそがネガティヴであり

問題を無くそうと努力し幸福を願う知性ある人は建設的。

馬鹿を明るいとし智慧者を暗いとするのもおかしい。

いつも文化の破壊や蛮賊至上主義のゴリ押しばかり。

いつも細目や歪んだ顔をゴリ押しするくせに

ホラーなどは美人に宣伝させようとしてるでしょ。

蛮賊は宣伝される側、美人は客寄せという悪魔構造。

 

 * * * * * * * *

 

ところで、記紀によると、「天つ神」は

出雲に国譲りを迫る際、十束の剣で脅しながら

「汝がウシハケる葦原の中つ国は、

我が御子の治らす所の国に言よせ賜ふ。

故 汝が心やいかにあるか。」

(おまえが軍事独裁している国は

我が御子が見本を示して治めるべき国だ

とおっしゃられた。これについて

おまえはどう思うか?)

と尋問したそうです。

 

兵器による威嚇・脅迫で、強引に

領土をよこせと迫るのが

どうして、手本を示して治らす(シラす)

などと言えるでしょうか?

 

前方後方墳や方形周溝墓は

被葬者が複数である事が多いのに対し

前方後円墳や円形周溝墓は

被葬者が一人の事が多いそうですから

円墳勢力の方が軍事独裁

方墳勢力は「ウシハく」などという事は

していなかった可能性が高くないでしょうか?

口先だけで言っている事を真に受けて

おかしな事に疑問を感じないというのも

おかしなものです。

 

実を言うと出雲は天つ神の国です。

 

それどころか、日本列島で最も

A型比率が高い地域です。

天つ神の本拠地と言ってよいくらいです。

 

ニニギのミコトの時代の国つ神は

沖縄・奄美の人々(O型)だったはずです。

 

天つ神に国譲りを迫る「天つ神」は偽者で

騎馬民族(右翼蛮賊)に他なりません。

そのやり口こそが軍事独裁恐怖政治なのです。

本当を言えば「政治」という字に値しませんが。

 

今のラッパーなどと称する者の大半もそうですね。

やり口がテロによる威嚇

韓国の声闘(ソント)と同じです。

それが右翼体制・大本営のやり口。

それを日本的だと思う方は大和魂ではない。

害人の自覚がないだけ。自己中心的なだけ。

 

 * * * * * * * *

 

言葉の意味が真逆にされている例は他にもあります。

例えば神無月。出雲では10月を神在月と呼ぶ

と言い、他の地域はその頃、神が出雲へ出て

留守とか言いますが、もともとカンナ月は

神の月という意味。山無(やまなし)は山の県。

飛騨一宮・水無神社は水の神社、水無月は水の月。

それくらいは言語の違う方による勘違いもあり得る

かも知れませんが・・・考えれば分かりそうなもの。

 

それに、尾根、高嶺などの「ネ」も。

根の国 底の国」などと言われれば

地中・地底を連想しますが

もともとは「高い所」だった可能性が高い。

「みね」の「み」は「御」であり

「ね」だけで峰のはずなのです。

それを「根」と表記するのは、奇妙ではありませんか??

 

「高彦根」は本来は「日子峯」という字を

あてるべきだったのかも知れません。

 

 * * * * * * *

 

ついでに阿蘇神社などの御神紋である

鷹羽」と関連しそうな話をしておきます。

鷹巣」などの地名は、鉱山と関係してる、

というのは谷川健一氏などの指摘されている所です。

「土蜘蛛」なども国つ神というより鉱山と関わる倭人

の可能性もあります。

 

上エジプトの象徴が鷹、

下エジプトの象徴が蛇で

迦楼羅(ガルーダ)などもそれを継承している

可能性があり、ニギハヤヒ朝の象徴の白鳥も

実は鷹・鷲・鳶の類かも知れません。

富雄に近い矢田丘陵の白高大神社は

「白鷹」だったのかも知れません。

ヤタガラスも実は迦楼羅(カルラ)衆が転じてカラス

になった可能性もあります。また大国主神様の御子

とされる鳥(とり)鳴海(なるみの)神様は

鳥海(とみ)のナガスネヒコ様の祖先かも知れない

と思っておいた方がよいかも知れません。

 

 * * * * * * * *

 

それから・・・「いかるが」の

「いかる」は「勢いの激しい」で、

いかり水は激流、洪水などを指すようです。

「いかがしこめ」は

「激しく勢い盛んな女」を意味するはずです。

スポーツ用語で言えば「インテンシティーが高い」となるかと。

もしくは「伊香」が既に地名化していて、

そこを領地とした一族。

「いこま」も「勢い激しい馬」かも知れません。

「いかるが」は「鹿ではないのか?もともと鳥だったのか?」

と疑問を持っておくべきかも知れません。

ちなみに九州だと奈良の近くに伊加利という地名があります。

 

では「あらぶる」は何なのかと言えば

「荒ぶる」は高句麗百済系を正当化する右翼用語。

「現生る」が正しいようです。ひふみ神示によると。

暴れまわり壊しまくるわけではない。

 

播磨の「いかわ」は「激しい川」かも知れません。

五十河媛の一族のいた地域かも知れません。

 

「いかるみ」は「波の激しい海」かも知れません。

太平洋側に五十海という地名があるのも奇妙ですが。

記紀ヤマトタケル伝説では、荒れる海を

入水(人柱)で鎮めた事になっていますからね。

 

実際は、水難に遭った人が難所をやわらげたとして

その霊魂に祈り、難所を越えようとする風習を

ヤマトタケル話に取り込んだだけのようです。

常陸国風土記では、倭武天皇が山で狩り、

橘皇后は海で狩り・釣りという話でしかありません。

 

 * * * * * * * *

 

記紀ヤマトタケル像は、九州の王族から

倭王武」に比定される雄略人皇まで

ふくめた合成人物かも知れません。

その子の仲哀天皇は、神功皇后

武内宿禰に討たれた可能性がありますが

武内宿禰は300年以上生きた事になっている人物です。

それというのも、神功皇后を「魏志倭人伝卑弥呼

であるかのように粉飾したせいでもあります。

八幡神は日女神が主で、日子神は従」

という認識が健在だったためかも知れません。

在位が201年から269年までとなっています。

 

けれど新羅征伐」があったのは390年。

広開土王碑と三国遺事の新羅人質話を総合すると。

伽耶の話だったけど新羅伽耶を制圧したので新羅にした説あり。

新羅という字を正式に国号にしたのは503年だそうですが

斯蘆も漢の上古音ではシラ、読みは変わってません。

仁徳天皇」の治世とされる年代です。

そこまで武内宿禰は生きていた事になっているのです。

AD84年から390年まで。

 

だからといって「全部架空の話だから

無かった事にしよう」とするのは

あくまで日本を背乗りした高句麗百済系の都合でして。

隠された真相を明らかにする努力が必要かと思います。

「どうせ混血したから」などと何でもウヤムヤにしよう

とする者は日本人ではないでしょう。身びいきだから

自分たちのおかしさに氣づかない者。

 

福永晋三先生は、「魏志倭人伝卑弥呼」様を

崇神天皇の時代の人物と見ていらっしゃいます。

 

ここで、埼玉の稲荷山鉄剣に記されている

ワカタケル王のいた斯鬼宮とはどこなのか

考えてみましょう。

 

ワカタケルは獲加多支鹵という字をあててあるのですが

鹵(ロ)には奪い取るという意味があります。

そういう意味にするためにロと読む字をルとして使っているようです。

「多くを奪い獲り加えた大王」とされているわけです。

斯鬼(シキ)の斯には「切り離す」という意味があります。

どっちが鬼なんだ?とも思いますが。

 

ワカタケルに比定されている雄略天皇

泊瀬朝倉宮にいたとされていますが

「当時の磯城郡には含まれており、

当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮

の事だったのだろう」という憶測で辻褄合わせ

がされています。一方で、剣に刻まれている

亥年は471年ではなく531年ではないか、

欽明天皇は出雲の日御碕神社に日置氏を派遣した

事になっている、という方もいらっしゃいます。

一般的には稲荷山鉄剣は5世紀後半とされますが。

欽明天皇なら磯城島金刺宮と難波祝津宮にいたと。

即位は539年とされていますが、父親の継体天皇

531年ないし527年に亡くなられたそうで

百済本紀によれば皇子たちも亡くなられたそうなので

安閑天皇宣化天皇は即位してない可能性もあります。

それでも531年だと「即位後すぐなのか?」とも思うのですが。

 

継体天皇と安閑・宣化天皇がまとめて殺された」

可能性がある中で即位した欽明天皇新羅の対岸

である出雲に日置氏と額田部氏を派遣し、

日置氏は前方後円墳や巨大円墳を、

額田部氏は前方後方墳などを築かせたそうです。

全国的に巨大古墳はつくられなくなっていく中で。

 

・・・確かに古墳巨大化は高句麗的かも知れませんが

それだけではまだ高句麗的な悪事とも言い切れない。

倭人から見ても重大な役を担ったであろう事は分かるだけに。

 

新羅は最初の王は倭人とされているし出雲との関係も深そう

なのですが、実を言うと、いくら撃退してもきりがないため

スサノヲ大神様が半島に渡って侵略者の拠点をたたいた

という話を父は守護の神々からうかがっています。

しかし最終的に「統一新羅」の王は百済系となります。

 

シキは元々は磯城と書きますから

本来は海辺・磯辺の地名のはずです。

390年~531年であれば、

福岡の行橋の御所ヶ谷神籠石あたりまで

遠つ淡海が迫っていたと考えられます。

https://scrapbox.io/kodaizine/「神武は筑豊に東征した!」福永晋三

そこが磯城かも知れません。

 

福岡県の地名が奈良県に移っている事は

https://ebc999.blog.ss-blog.jp/2021-07-19

福岡で考古学をやってる人なら誰でも

ご存じかと思います。

 

それから・・・播磨の加古川水系

丹波由良川水系が接近する

水分れ公園あたりには、𡶌部神社があります。

山偏に石と書いてイソと読んでいます。

川で海とつながってはいるものの

磯とは言い難い地形の所に地名を移したための処置でしょう。

天理の石上(いそのかみ)神宮なども同様ですね。

 

雄略天皇欽明天皇の時代だと

大阪の八尾の志紀は

ぎりぎり磯かも知れませんが

海中かも知れません。

藤井寺の志貴県主神社だと

海からは少々離れていると思われます。

 

弥生時代だと藤井寺も海中と推測されています。

崇神天皇磯城水垣宮は、九州か四国ではないかと。

 

雄略天皇の時代には、奈良県磯城郡

シキと呼ぶようになっていたかも知れませんが

守りをかためるのでなく、あちこち出征するのであれば

志貴県主神社からの方が便利かも知れません。

 

ただし・・・

長谷朝倉宮は志貴郡なのか?

というのが問題になりますが。

磯城水垣宮が遠賀川水巻やオカ(遠賀)垣

であれば長谷寺は割と近いです。

江田船山と稲荷山の中間にはならないけれど

高句麗と埼玉古墳群の中間にはなるのかも。

 

欽明天皇はワカタケルなのか?

ほどの問題ではないかも知れません。

記紀が逸話を別人から借りてくっつけたり

してそうなのが、そもそもの問題の原因で、

文献より物証を優先すべきかも知れませんが

剣に刻んだ文字も一種の文献には違いなく

どちらに偽装や間違いが多い可能性が高いか?

蓋然性の問題かも知れません。