超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

超革新ひふみ神示 第15章

<  15  > 造化三神(智と愛との和合)

 

ここまでも、初めて聞く話の連続だった人も多い

かと思いますが、「造化三神」に関しては

「神」を擬人化せず、もっともっと抽象的・形而上学的で

分かりにくいかも知れない話も含めてまいります。
それが神示だから、です。

 

五十黙示録 第六巻 「至恩の巻」

第九帖 (一〇七)
「天は二一六、地は一四四と申してあろうが、

その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、

いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、

マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、

この道理をよくわきまへなされよ。」

216+144=360

(216:144) = (3:2)=(60%:40%)

*「イザナミ大神様」と「聖母マリア様」が半ば「同じ位置づけ」のような話になっているのが分かるかと思います。それが神示なのです。

 

ひふみ神示 第十三巻「アメの巻」

第十帖 (三四四)

「五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除許りしてゐるのざぞ」

 

ひふみ神示 第二十五巻「白銀(しろがね)の巻」

第四帖 (六一五)
「凸凹(デコボコ)あるから力あらはれるのぞ。凸凹あるため、善のみでも呼吸し、又真(シン)のみでも呼吸(イキ)するのであるぞ」

 

ひふみ神示 第二十六巻「黒鉄(くろがね)の巻」
第二十二帖 (六四〇)
「・ から愛と智とが生れると申してあらうが。智と愛との和合によって ・ が又生れるのぢゃ。・ は喜びであるぞ。・ の別の ・ であるぞ。その ・ から又別の愛と智が生れ、又別の ・ が喜びとなり、その喜びの愛と智の喜びと結んで、又喜びの ・ 生れるのぢゃ。」

 

つまり・・・今までイナンナ女神と呼んできた

祖神が ・ で表わされる「内なる霊」。

 

祖神( ・ 、ム)から愛と智(〇、ウ)が生まれる。

それぞれ右半円と左半円で表されたり、

経線(|)、横線(ー)であらわされたりする。

組み合わせて+は〇とも表される。

 

愛善真美と言いますが、

愛・善は国つ神(ひつくのタミ)の属性、

真・美は天つ神(みつくのタミ)の属性かも知れません。

悪神(偽・醜・悪)はプラスにならず、マイナスなので

足しても和ではない。差でしかない。改心しない限り。

 

そして・・・ム( ・ )から生まれた愛と智が

和合して新しい ・ (喜び)が生まれる。

その喜びからまた新しい愛と智が生まれる。

 

ひふみ神示 第二十六巻「黒鉄(くろがね)の巻」
第三十三帖 (六五一)
「愛は脈うってゐるぞ。真は呼吸してゐるぞ。肉体にあっては肺臓は呼吸し、心臓は脈うつ、この二つが一つであって、肉体を生命する。喜びと三つが一つであるのぞ。霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓、よろこびあるぞ。」

 

ひふみ神示 第二十四巻「黄金(こがね)の巻」
第九十二帖(六〇三)
「ひつくとみつくの民あると申してあらう。
ひつくの民は神の光を愛の中に受け、
みつくの民は智の中に受ける。
愛に受けると直ちに血となり、
智に受けると直ちに神経と和して了ふのであるぞ。
二つの民の流れ。」

 

ひふみ神示 第二十九巻「秋の巻」 
第二十一帖(七六三)
「和が根本、和がよろこびぞ。和すには神を通じて和すのであるぞ。神を通さずに、神をなくして通づるのが悪和合。神から分れたのであるから神に帰って、神の心に戻って和さねばならん道理。神なくして和ないぞ。世界平和と申してゐるが、神にかへって、神に通じねば和平なく、よろこびないぞ。十二の玉を十まで生んで、後二つ残してあるぞ。」

 

ひふみ神示 第二十五巻「白銀の巻」
第二帖 (六一三)
「判るやうに申すならば、宇宙は ・ 真と愛との現はれであるぞ。愛と真ではない。 ・ 、愛、真、善、智であるが、愛真でもなく、善智でもないぞ。愛と真が善と智と現はれ、喜びとなってはたらき、 ・ が加わって弥栄えた生命であるぞ。
(・・・中略・・・)

善と真のはたらきを完全にするには、善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ。とけ合はせ、結んでヨロコビと現はれるのであるが、区別することによって結ばれるのであるぞ。 ・ しなければならん。すればする程 力強くとけ合ふのであるぞ。大き喜びとなるのであるぞ。このこと日月の民には判るであらうな。道は三つぞ。合点ぢゃなあ。」

 

ひふみ神示 第二十四巻「黄金(こがね)の巻」
第一帖(五一二)
「元の元の元の神は何も彼も終ってゐるのであるぞ。終なく始なく弥栄えてゐるのぞ。
(・・・中略・・・)
御光が愛ぞ。真ぞ。愛はマぞ。真は言ぞ。これを誠と云うぞ。誠は生きてゐるぞ。三千世界の生命ぞ。
和つくれ。和はむすびぞ。何も彼も生れるぞ。いきするぞ。」

 

愛はマ(〇)、真はコト(九十)。組んで、むすんで、和して誠(〇九十)。

 

ひふみ神示 第十七巻「地震の巻」
第十九帖 (三九六)
「天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。

統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、 ・ によって現わされ、他の二人は、〇によって現わされる。〇は、左右上下 二つの動きの@(絵文字で、実際は「の」と同じ巻き方の渦。以下同様)を為すところの立体@からなっている。

統治者の心奥の ・ は、更に高度にして、更に内奥に位する ・ の中の ・ によって統一され、統治され、立体@をなしている。天国では、この ・ を、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。
スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である。

これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。
これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。」

 

五十黙示録 第三巻「星座の巻」
第十帖 (四四)
「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、( と )と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ」

*ここでの( )はカッコではなく、半円です。

 

ひふみ神示 第二十四巻「黄金(こがね)の巻」
第三十帖(五四一)
「人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。
レンズ通してもの見ると逆立するぞ。
(・・・中略・・・)
レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。」

 

つまり・・・人間から見ると

天界は御祖の大神様を中心とした

ファシズム体制に見えるかも知れないけれど

実態は真逆、という事です。

 

ひふみ神示 第十五巻「一八(岩)の巻」 
第一帖 (三六六)
「悪の守護となれば、悪よく見えるのざぞ。
人民 悪いこと好きでするのでないぞ、

知らず知らずに致してゐるのであるぞ。
神にも見(み)のあやまり、聞きのあやまりあるのざぞ。
元の神には無いなれど、下々の神にはあるのざぞ。
それで見なほし、聞きなほしと申してあるのざぞ。
元の神には見直し聞きなほしはないのざぞ、
スサナルの大神様 鼻の神様 かぎ直しないぞ、

かぎのあやまりはないのざぞ。
人民でも、かぎの間違ひないのざぞ。鼻のあやまりないのざぞ。
スサナルの大神様この世の大神様ぞと申してあらうがな。」

 

ひふみ神示 第二十四巻「黄金(こがね)の巻」
第七十三帖(五八四)
「もの見るのは額でみなされ。ピンと来るぞ。

額の判断 間違ひなし。額の目に見の誤りなし。」

 

つまり・・・「額の目」は「鼻」と対応しているかも知れません。

古事記では、イザナミの大神様の左目からアマテラス大神様が、 右目からツクヨミの大神様が、 鼻からはスサノヲの大神様が生まれたとされているけれど、全て逆様(さかさま)に映っているのかも知れません。神霊界ではスサノヲの大神様が上(額の目)で、左目と右目も逆なのかも・・・。

 

ひふみ神示 第二十五巻「白銀の巻」
第一帖 (六一二)
「陰と陽、右と左、上と下、前と後、男と女と考へてゐるなれど、
タカミムスヒとカミムスヒと考へてゐるなれど、
別のミナカヌシ、現はれるぞ。
(・・・中略・・・)

陰陽二元でないぞ。三元ぞ。三つであるぞ。・ なくてはならん。・ にもかくれた ・ と現われた ・ とがあるぞ。このこと先づ心得て下されよ。そなた達は父と母と二人から生れ出たのか。さうではあるまいがな。三人から生れ出てゐること判るであらうがな。どの世界にも人が住んでゐるのであるぞ。◎の中に◎があり、その中に又◎があり、限りないのざと知らせてあらうが。そなた達の中に又人がゐて限りないのぢゃ。このほう人民の中にゐると知らしてあらうがな。そなた達も八人、十人の人によって生きてゐるのぞ。又十二人でもあるぞ。守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、段々変るのであるぞ。自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなた達が和合することぞ。それを改心と申すのざぞ。和合した姿を善と申すのぢゃ」

 

ひふみ神示

〇一二三四五六七八九十

と書く場合、先頭の〇は

抜け殻の〇ではなく、中身の・を

表しているようです。

〇九十と書いてマコトと読みますし。

 

また、〇が十を表している場合もあります。

 

至恩の巻 第六帖 (一〇四)
「八では足らん、十でなくてはならん、
〇でなくてはならんぞ。」

 

ひふみ神示 第二十九巻「秋の巻」 
第二十五帖(七六七)
「ウはムであるぞ。ウとは現実界ぞ。ムとは霊界であるぞ。

ウもムも同じであるぞ。

ムからウ生れて来ると申してあること、よく心得よ。」

 

ひふみ神示 第二十八巻「夏の巻」 
第十三帖(七三〇)
「ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動く。

ウム組み組みてと、申してあろうがな。今の人民の智では中々解けん。

ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。

中心は無限、周辺は有限であること知れよ。」

 

〇の中心は ・ 、

 ・ の周りは〇。

・(ム、無限)から〇(ウ、有限)が生まれて来る。

 

ひふみ神示 補巻「月光の巻」

第二十五帖 (八一二)
「肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。

更に、又奥の自分と和合せよ。一番奥の自分は神であるぞ。
(・・・中略・・・)
山も自分、川も自分、野も自分、海も自分ぞ。草木動物 悉く自分ぞ、歓喜ぞ。

その自分出来たら天を自分とせよ。
天を自分にするとはムにすることぞ。〇に化すことぞ。
ウとムと組み組みて新しきムとすることぢゃ。」

 

「よい事をしてる時は、それで満足してる

もう一人の自分がいる。だから結局は

人間は自己満足のために言動するだけ」

みたいな理屈を言う背徳カルトのニヒリスト

がいたりもしますが、アートマンと小我では

月とスッポン以上の差がありますから

できるだけ高度な、できるだけ奥の自分の

願いをこそ実現するよう努力すべきでしょう。

 

ひふみ神示 補巻「月光の巻」

第五十二帖 (八三九)

「人おろがめよ。物おろがめよ。

おろがむと自分の喜びとなり、

拝まれたものも喜びとなるぞ。

うれしうれしとはそのことぞ。」

 

五十黙示録 補巻「紫金の巻」
第十二帖 (一四二) 
「ヨコの十の動きがクラゲナスタダヨヘルであり、

タテの十の動きがウマシアシカビヒコジであるぞ、

十と十と交わり和して百となり九十九と動くのぞ。」

 

ひふみ神示では  | (縦線)を「ウ」と読む事があります。

これがタテの十の動きであれば、

ヨコの十の動きは―(横線)で表し「ム」と読んでよいかも。

 

ひふみ神示 第二十五巻「白銀の巻」
第二帖 (六一三)
「プラスとマイナスと合わせたのではプラスとマイナスぞ。力出ないのざ。

・ の力が加わって其処にヨロコビ出て、理(ミチ)となり、なり、

なりて真実と現はれるのぞ。弥栄が真実ぞ。神ぞ。神の心ぞ。

竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。

地からの竜神は進化して行くのであるぞ。進化をうそざと思ふは神様迷信ぞ。

一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ。

この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。

人間は土でつくって、神の気入れてつくったのざと申してあらうがな。」

 

螺旋上昇(開く)と螺旋降下(閉める)。

降下の方が黄金の神龍様かも知れない。

上昇の方が白銀の神龍様。

 

五十黙示録 第六巻「至恩の巻」
第七帖 (一〇五)
「根本の元の元の元の神は 〇から一に、二に、三に、四に、五に弥栄したのであるぞ、別天津神(ことあまつかみ)五柱と申してあろうがな、五が天であるぞ。五は数であるぞ、転じて十となるなれど、動き栄へるには +と - の神が現われねばならん、これが中を取り持つ二柱の神ぞ。」

 

ひふみ神示 第六巻「日月の巻」
第二十四帖 (一九七)
「ココニ、イザナギノミコト、イザナミノミコトハ、
ヌホコ、ヌホト、クミクミテ、
クニウミセナトノリタマヒキ、
イザナギノミコト イザナミノミコト、
イキアハシタマヒテ、
アウ、あうトノラセタマヒテ、
クニ、ウミタマヒキ。」

 

五十黙示録 補巻「紫金の巻」

第十帖 (一四〇)
「国土をつくり固める為に、根本大神が何故にヌホコのみを与へたまひしか? を知らねば、岩戸ひらきの秘密はとけんぞ。」

 

ひふみ神示 補巻「月光の巻」
第五帖 (七九二)
「十くさ、十二くさのかむたから、おきつかがみ、へつかがみ、八つかのつるぎ、九つかのつるぎ、十つかのつるぎ、いくたま、まがるかへしのたま、たるたま、ちかへしのたま、おろちのひれ、はちのひれ、くさくさのひれ、であるぞ。む、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり、う、であるぞ。う、たり、ここ、や、なな、む、いつ、よ、み、ふた、ひと、む、であるぞ。となへよ。のりあげよ。」

 

<< 十二くさのかむたから >>
ーム おきつかがみ
1ひと へつかがみ
2ふた 八つかのつるぎ
3み 九つかのつるぎ
4よ 十つかのつるぎ
5いつ いくたま
6む まがるかへしのたま
7なな たるたま
8や ちかへしのたま
9ここ おろちのひれ
10たり はちのひれ
|ウ くさくさのひれ

 

ヌが瓊( ・ )、ホコが|であれば

それで二つで三つなのかも知れない。

 

縄文時代は、三種の神器

歓喜の象徴である玉(珠)だけだったようです。

剣・矛や鏡は外来。

 

日月神示 第七巻「日の出の巻」

第九帖 (二二二)
「神は人にまつはるのざぞ、

・ と〇と申してあろが、

戦も ・ と〇と壊し合ふのでは無いぞ、

・ と〇とまつらふことぞ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、

和すことぞ、神国真中に和すことぞ。

それには〇掃除せなならんぞ、

(・・・中略・・・)

剣と鏡とまつらなならんぞ、

まつはればタマとなるのざぞ。

タマなくなってゐると申して知らせてあろがな」

 

日月神示 第三巻「二二(富士)の巻」

第三帖(八三)

「玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。」

 

三内丸山遺跡で、翡翠大珠をはじめとする大量の遺物が出土したのは1994年。

それまで縄文の精神が忘れられていた・・・かも知れません。

 

五十黙示録 第二巻「碧玉の巻」 
第十七帖 (三二)
「はじめに碧玉を並べて下されよ、次に赤玉、次に赤黄玉、次に黄赤玉、次に黄玉、次に黄青玉、次に青黄玉、次に青玉、次に青赤玉、次に赤青玉、次に紫水晶、合せて十一玉、この巻、碧玉の巻であるぞ。」

 

・ 碧玉(瓊 ぬ、に)
1 赤
2 赤黄
3 黄赤
4 黄
5 黄青
6 青黄
7 青
8 青赤
9 赤青
10 紫水晶

松江市の花仙山は碧玉やメノウの採掘地。近くには玉作湯神社

 

とある神社で見かけたのですが、

布瑠の言(ふるのこと)は本来は 

「きのえきのと ひのえひのと

つちのへつちのと

かのへかのと みづのえみづのと

ひふみよいむなやことにのおと

ふるへ ゆらゆら ふるへ」

らしいです。

「甲乙 丙丁

  戊己

 庚辛 壬癸 

一二三四五六七八九十瓊音

ふるへ ゆらゆら ふるへ」

 

五十黙示録 第六巻「至恩の巻」
第十六帖
「太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿の十種(とくさ)の神宝に・(テン)を入れることであるぞ、これが一厘の仕組。二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士(不二)と鳴門(ナルト)の仕組いよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ。一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘でリンドマリぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、卍(ぶつ)も十(キリスト)もすっかり助けると申してあろうがな、助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。用意はよいか。このこと大切ごと、気つけおくぞ。なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士晴れるぞ、大真理世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ。」

 

詳しい霊界の有り様などは

日月神示 第十七巻「二日ん(地震)の巻」

に描かれています。

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/11/09/222846

 

第一帖 (三七八)

「日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。月の霊人は、神の歓喜歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。ために二義的の歓喜となる。故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのであ る。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのであ る。地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。それは、別の世界に住んでいるためであ って、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。以上の如くであ るから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。」

といった具合です。

 

ひふみ神示 第二十六巻「黒鉄(くろがね)の巻」

第二十八帖(六四六)

「喜びにとけ入るから嬉しいのぞ。喜びから遠ざかるから悲しいのぞ。

そんなこと分ってゐると申してゐるが、ほんとに身体に分ってゐまいぞ。

喜びに入る門は愛からぢゃ。真からじゃ。

二道あるなれど愛から入るのが入り易いが、愛からでは誤り易い。

生れてすぐ歩けるものでないぞ。始めから何も彼も出来るものでない。

氣長に進んで行けよ。

内の念と外の念とあるぞ。二つであるぞ。一つであるぞ。三つであるぞ。

心大きく、広く天地に放さねば、天地のキを吸ふこと出来んぞ。」

 

 

超革新ひふみ神示 もくじ

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/07/16/220718