超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

超革新ひふみ神示 16~18章

<  16 > 本当のキリスト教

 

山上の垂訓(説教)
『マタイによる福音書』5章 3節~12節
5-3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 

非常に詩的で素朴で、直感的に響きます。
だからこそ信者もいるわけです。

「心の貧しい人たち」をどう解釈するかは
他の部分も見れば明らかです。

 

ルカによる福音書
18章10節~14節
10「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 

つまり「自虐的」であるように説いているわけです。
どこにも「自尊的であれ」などという右翼思想はありません。

 

この御教えは浄土真宗悪人正機説と通じるものがあります。
「傍若無人で、傲慢で、どんな犯罪も正当化する
自己中心的なサイコパスは偉い」などという話ではなくて
自分の未熟な事を自覚し反省し謝罪している人の方が
「自分は完璧で無謬で優れてるから独裁しても何をしても正義」
などとうぬぼれた輩よりも神々に赦される、という話です。
(ちょっとヘブライ語をかじれば、「エル」は神だけど
エロヒム」は複数形である事が分かります。)


全財産を寄付せよと信者に呼び掛けた事を暴露されて
逆ギレしてテレビ局や新聞社を襲撃するような輩とは大違いです。
どうして、そんな連中をメシアだのキリストの再臨などと思うのでしょう?

その件に関して「義のために責められたる者」は
間違いなく、朝日新聞の、亡くなられた記者さんです。

犯罪を暴露されて「迫害されてる!」などとほざくのは
サイコパス。極度の自己中心主義者。

「集団ストーカー」被害を受けてる私も
「義のために責められたる者」のはしくれには入るかと。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書にみる
エス=キリスト様の御教えは、なかなかに強烈です。

ほとんど、誰も実践などできそうにもない御教えの
オンパレードと言ってもよい。例えばこんな感じ。


敵を愛し、迫害する者のために祈れ
(マタイによる福音書5章38節~47節)
38『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 40あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 41もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 42求める者には与え、借りようとする者を断るな。
43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。


福音書には「異教徒に対しては例外」とか
「異邦人には何をしてもよい」などとは
どこにも書いてありません。当然ですね。
そんなカルトだったらまともな人は批判します。
「何をしてもよい」などとほざく奴こそが
異教徒の筆頭ですよ。
 
キリスト様の御教えを実践するのは至難の業かも。

あらゆる宗教の中でも最も強烈な部類の「極左」ではないかと。
どこに右翼要素があるのやら、さっぱり分かりませんね。
 
ニーチェなどは、新約聖書旧約聖書をくっつけたのは
間違いだとか、何とか言ってますが。
旧約聖書は、「目には目を」の世界に近いかも知れない。
それは右翼にとってまだ分かりやすく、親しんできた世界
かも知れない。だから「ユダヤ教」団体が右翼というなら
まだ分からなくもない。

 

実際の所、「キリスト教右派」などと
呼ばれる連中の主犯格は
キリスト教嫌いなのではないかとも思います。

 

日月神示 第十五巻「一八(岩)の巻」 

第一帖 (三六六)

「釈迦もキリストも立派な神で御座るなれど、

今の仏教やキリスト教は偽の仏教やキリスト教ざぞ。

同じ神二つあると申してあらうがな。 」

 

旧約聖書は、確かに、新約とは異質であり
切り分けて考えるべきでしょうね。

キリスト教」は福音書です。

 

ちなみに、ひふみ神示霊媒である
岡本天明先生も、福音書の教えを
説いて聞かせていらしたようですが
それに対する大神様のつっこみが
また強烈ですよ。

 

ひふみ神示 補巻「月光の巻」
第五十三帖 (八四〇)
「そなたは無低坑主義が平和の基だと申して、右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るなれど、それは真の無抵坑ではないぞ。よく聞きなされ、打たれるようなものを そなたがもってゐるからこそ、打たれる結果となるのぢゃ。まことに磨けたら、まことに相手を愛してゐたならば、打たれるような雰囲気は生れないのであるぞ。頬をうたれて下さるなよ。生れ赤児見よと知らしてあろうが。」

 

五十黙示録 第五巻「極めの巻」
第十五帖 (〇九三)
「右の頬をうたれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申してゐるが、その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるようなものを心の中にもっているから打たれるのぞ。マコトに居れば相手が手をふり上げても打つことは出来ん、よくききわけて下されよ。笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ。世界一家天下泰平ぢゃ、左の頬を出すおろかさをやめて下されよ。」

 

強烈!! まぁ悪魔主義者が大嫌いな私には
その境地に達するのはなかなか難しそうです。

ナザレのイエス様もその域まで達しては
いなかったから義のために責められたのではないか」
と突っ込みを入れる方もいらっしゃるかも知れませんね。
ええ、そうかも知れません。
ひふみ神示の大神様も八つ裂きにされたというお話です。
それだけ超困難な話で、
たいていの場合は「被害者側の落ち度」を責めるより
加害者を責めるべきではなかろうかと思ったりもします。

宗教的に言えば、そういう加害者をも
親心で愛する事のできる人の方が優れている
という事にはなるのでしょう。もちろんそれは
なかなか難しいけれど、何でもかんでも
怒るような事を正当化する事はないわけです、
本当に宗教的な人であれば。

 

ひふみ神示 補巻「月光の巻」
第五十五帖 (八四二)
「そなたはよく肚をたてるが、肚がたつのは慢心からであるぞ。よく心得なされよ。
下肚からこみあげてくる怒りは大きな怒りであるから、怒ってよいのであるなれど、怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かくして下されよ。怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。」

 

高慢ちきの逆ギレ蛮賊どもをよしとするわけではなく
連中の犯罪への怒りをよしとするわけです。
ただ、それでも、できるだけ短く、
できるだけ純粋にという事です。

そこは常に己を内省し、己から糺す人こそが
宗教的なのであって、自称が右翼であれ左翼であれ、
感情的な煽動家は全然宗教的ではありません。
「日本人はもっと怒らないと」とか煽る者は、
悪魔的な要素が濃いかなと。

本当の左翼(中道・革新)の中には
保守政党」などよりはるかに
宗教的な人もいらっしゃいますが。


< 17 > 浄土真宗キリスト教
京都西本願寺には「世尊布施論」
という経典が保管されています。
これが実は景教ネストリウス派)の経典でして、
親鸞聖人もこれを読んでいるのではないか、
それで悪人正機説福音書と似ているのではないか、
という推測もあります。

 

これに関しては、「白光真宏会」という団体を知る人なら
それもそのはずだと思う所があるのです。

世界人類が平和でありますように」と書かれた
柱のようなものとか、プラスチックの板などを
神社などで御覧になった事がある人も多いかと思いますが
あれは白光でピースポールとか呼んでいるものです。

教祖様の五井昌久先生の前世が親鸞聖人である事は
会の中では「周知の事実」です。また、国内にとどまらない
話になるのでそれほど明言されているわけではありませんが、
先生の「聖書講義」などを読めば、実は洗礼のヨハネ
生まれ変わりである事も分かって来るのです、

他にも小説・阿難では、アーナンダの生まれ変わりである事、
法然上人を舎利弗(シャーリプトラ)の生まれ変わりと
見ていらっしゃる事も分かるかと思います。

 

そして、ひふみ神示には、こんな箇所があります。

日月神示 第十三巻「雨の巻」
第十五帖 (三四九)
「四八音(ヨハネ)世に出るぞ、
五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ」

 

この箇所は五井昌久先生の事ではないかと思うわけです。
五井先生を知らない場合は
五十音が発展するみたいな話なのかなと
思うしかないかも知れませんし
そういう意味も含んでるかも知れませんが。

 

五井先生は生長の家にいた時期もあるのですが
少なくとも悪い影響はあまりないかなと思います。
生長の家統一教会と一緒になっているのは
耳にしますけれど、統一教会はいろんな団体に
対してそういう事をします。また谷口教祖様には
いろいろ問題もあったようですが、五井先生の
方が下などという事はないかと思います。

 

それどころか、大本教では、イエス=キリスト様
よりも、洗礼のヨハネ様を重んじているわけです。

 

霊界物語 第1巻 第3篇「天地の剖判」
第24章 神世開基と神息統合〔二四〕に、
「キリストは、かへつてヨハネの下駄を直すにも足らぬものである。」
ヨハネの厳の御魂は、三界を修理固成された暁において
五六七の大神と顕現され、
キリストは、五六七神政の神業に奉仕さるるものである。
故にキリストは世界の精神上の表面にたちて活動し、
裏面においてヨハネはキリストの聖体を保護しつつ
神世を招来したまふのである。」とあります。

 

先に生まれて先に団体をつくって、そこから五井先生が
出たから五井先生が下とは限らないわけです。

 

それはそうと、生長の家の谷口さんと
一緒に大本を抜けた浅野和三郎さんの
「小桜姫物語」が興味深いですよ。
竜宮の様子が琉球のようで。

二十二.唐風の御殿

http://www.paperbirch.com/sakura/sakura22.html

小桜姫物語 現代語訳

http://www.paperbirch.com/sakura/index.html

二代目教主の西園寺昌美先生は
琉球第二尚氏尚泰王の曾孫
だそうですから、関係あるかも知れません。

 

藤原氏西園寺家に嫁いでいらっしゃるのは
皮肉というか、出口聖師様は西園寺公望
批判なさっておられますが、親鸞聖人が
藤原氏日野家出身とされてるのもありますからね。
教団には藤原氏が多いかも知れないし
私の実父も「前世は」藤原氏だそうです。
ただ、神示を何度読んでも、藤原氏が批判されている
事は全く氣づかないようです。そういうわけで
私と父とはかなり性格が異なります。

 

親鸞聖人は母親(吉光女)は源氏という伝承もあります。
私は源氏かも知れません。
私が出会ったとある人物の事をインターネット上で
書いていた所。父が突然、その人物の名と関係する
ような古戦場へ行った事もあります。
イニシャルしか書いてないにも関わらず。

その人は私の事を主君のように感じると言ってくれていました。

何の証明にもなりはしないかも知れませんが、そういう事が
度々あって今のような世界観に至っております。


< 18 > 万教同源
旧約聖書新約聖書は切り離すべきかも知れないと書いたものの、つながっている部分があり、分けていたら残っていなかったかも知れないのもまた事実かも知れません。
預言者エリヤの死が聖書に記載されていないため、イエス様の時代には、エリヤが再来すると考えられていて、洗礼のヨハネがエリヤと見られていたのが分かります。

 エリヤはイエス様より800年以上前の人物ですが、肉体がずっと残っていると考えられていたでしょうか?違うのではないかと思います。聖書には、輪廻転生をほのめかすような箇所がいくつかあります。

 

今のローマ・カトリック教会などは
輪廻転生を認めてないのかも知れませんが
旧約聖書新約聖書には、
「転生などあるはずないに決まってる!」
という世界観は、必ずしも存在しません。

 

そもそもナザレのイエス=キリスト様は、人々から「ダヴィデの子」と呼ばれています。「子孫」くらいの意味かも知れないけれど、では父親などもそう呼ばれていたかと言えば、そうでもない所などから考えても、「ダヴィデの子の生まれ変わり」みたいな意味合いの方が強かったのではないかと。

 

エス様御自身は「人の子」と自称されていて
ダヴィデの子」とは自称されていませんが。
預言者エゼキエルなどは、神々(天使、聖霊)から
「人の子」と呼ばれていたようです。

旧約聖書新約聖書ヘブライ語とか
アラム語とかの原典で全て読んだわけではないけれど。
だから「人の子」が全く同じ表現なのか詳しくは知りませんが。

「神」とか「主」とか訳されてる個所には
「アドナイ(主)」「エル(神)」「エロヒム(神々)」
などがある事は知っています。
ユダヤ教一神教と言うけれど、天使・聖霊などと
呼び分けても、それが日本語で言う神である事には
変わりないでしょう。
エロヒム」を複数形でないと言い張るのは
ちょっとおかしくないかと。

だからまぁ、強引に宗派の違いをつくるのも
いかがなものかと思うわけです。

その土地・部族などの風土・歴史などに合った
宗派というものが、分かれるだけの事情もあり
強引に統一する必要もないですが。
先祖が大切にして来たものとか、
自分の前世の縁などもあるし。

 

例えばイスラム教ですが
皆さんよく勘違いされがちですが
預言者ムハンマドマホメット)が
一夫多妻を提唱したわけではなく
アラビアは、もともとそういう世界だったわけです。
戦乱が続けば男が減り、女の方が多くなりがちで
そうなると一夫多妻になりがちなのです。
むしろそこに制限を設けたのがイスラム教です。

 

ひふみ神示 第四巻「天つ巻」
第十五帖 (一二二)
神の国には神の国のやり方あるぞ、支那には支那、オロシヤにはオロシヤ、それぞれにやり方がちがふのざぞ、教もそれぞれにちがってゐるのざぞ、元は一つであるなれど、神の教が一等よいと申しても、そのままでは外国には通らんぞ、このことよく心にたたんでおいて、上に立つ役員どの気つけて呉れよ、猫に小判何にもならんぞ」

 

フリーメイソン」の思想が
「あらゆる宗教は元は一つ」
「万教帰一」みたいなものらしくて
そういう思想を大義名分として宣伝して
ファシストが世界を傘下に収める事を危惧する向きもあります。

 

ですが、正教は元は一つ、とは言えるかなと思います。
私の中では矛盾は存在しないというか、解消できます。

 

ただ、他者に危害を加える犯罪を正当化する
自己中心的な差別思想・背徳カルトとは
本来の宗教は違うと思います。
そこは「帰一」できるはずもない
矛盾したもの。

 

相互補完関係にあるなら和す事もできますが
矛盾したものは和す事はできません。

 

 

超革新ひふみ神示 もくじ

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/07/16/220718