< 11 > 余談:高千穂は宮崎なのか?
聖母子信仰の起源をアフリカ東部まで追っていると
奇妙な一致に氣づきます。
人類の起源はナイル川上流の「ヴィクトリア湖」か、もっと南まで遡ると考えられるのですが、アフリカの雛形は九州で、ヴィクトリア湖あたりは、ちょうど今の宮崎県の「高千穂峡」辺りに相当するのです。
ここで、日本列島を世界の雛形とする見方にふれておきましょう。
アフリカ大陸が九州、ユーラシア大陸が本州、
南米が沖縄(あるいは台湾まで含むか?)と対応する
という見方です。東南アジアは伊豆半島あたり、
北欧は能登半島辺り。
チグリス=ユーフラテス川は木曽三川あたり。
カスピ海は琵琶湖辺り。
キプロス島は淡路島辺り。
厳密なミニチュアとは言えないと思う方も
いらっしゃるかも知れませんが、こじつけというには
かなり一致が見られます。上出来ではないかとも思います。
ユーラシア大陸とアフリカ大陸はつながっていたし
北米と中南米もつながっていました。
それにしてもよく一致しています。
そこでヴィクトリア湖辺りはどこか探ると
だいたい高千穂峡と一致するのです。
これに関しては、「日本列島は世界の雛形ではないか」
と思った西洋人などが、後から高千穂の地を日向に変えた
可能性も無くはないのです。
というのも、記紀の舞台は初めは全て筑紫・火の国・豊国の
近辺までだという見方もあるからです。
例えばタケミナカタ神が諏訪に逃れたという話がありますが
という見方もあったりします。
気比(ケヒ)は本来はキビ(吉備)と読んだのではないか?
という話もあります。北陸まで行かず、山陽どまりかも知れない。
三連山(三輪山)で、角度によっては
蛇がとぐろを巻いてるように見えたとも言う。
もともとは3つのご神体山それぞれに神を
三ツ鳥居という形になったのだという見方があるのです。
とんでもない事に、元の御神体山は石灰などの採掘を口実に崩されつつあります。
英彦山(ひこさん)と考えられています。
また、「筑紫の日向の橘の小戸」といった
表現が知られているものの、
「筑紫の肥後の」とか「筑紫の豊前の」
といった表現は見られないため、
「筑紫」は九州全体を指すわけではなく
その中で日向の橘と言えば
福岡市と糟屋郡にまたがる立花山あたり
ではないかと考える方もいらっしゃるわけです。
東海岸の延岡まで出ていきます。
この辺りはモンバサ川の雛形と言えるかも知れません。
その南の五十鈴川の河口付近に、乙島という小島がある
のですが、これがちょうど、フェニキア商人にとって
重要だったザンジバル島(タルシシ)に当たるのです。
その先にあるマダガスカルはアフリカ大陸に近いけれど
血液型の比率など、いろいろなものが
東南アジアと近くなっています。
旧約聖書の『列王紀上』10章には、ソロモンの栄華について
「タルシシの船隊に3年に1度、金、銀、象牙、
猿、孔雀を載せてこさせた」とあります。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-43.html
であれば、少なくともインドまでは行っていたはずです。
ちなみにソロモン王は半ヒッタイト(ヘテ人)です。
ポエニの語源を、古代エジプト語の鉄(ベニーペ)と
考えていらっしゃいます。
そもそもザンジバルという島を知っている日本人が
どれだけいるでしょうか?普通は知らないのにも関わらず
「機動戦士ガンダム」というアニメには
ザンジバルという戦艦・空母が出てきます。
今の「資本家」は実際は「ユダヤ人」ではなく
考えられるので、地図を見ていたら乙島と
ザンジバル島の類似性に氣がついたかも知れません。
乙島とザンジバル島の対応が興味深く思われ
ずらす可能性はありうると思うのです。
「鉄砲伝来」は1543年、
ザビエルが薩摩に来たのは1549年ですから
その頃から宮崎県や鹿児島県に
ずらそうとする動きがあったとしても
おかしくありません。
そもそも、将軍より天皇が偉いという世界観が
どうして徳川から出てくるのか?
というのも不自然でして、海外勢力から見ると
朝廷と幕府の二重権力という構造ではやりにくい。
傀儡を一人に絞った方が楽なわけです。
そういう目的による「歴史研究(作成)」があったのではないかと。
沖縄・鹿児島方面か、長崎・熊本方面に来ている
可能性も十分にあるわけで、福岡より先に宮崎に
王朝があったとしても、おかしくはありません。
現在、笠沙の岬とされている辺りは、実際、
中国からの漂着物が来る事もあるそうです。
宮崎の串間から出土した玉壁は33.2cmという大きさで、
これほどの優品は中国でもなかなか見られないそうです。
下賜されるはずもなく、王族が持ち込んだのではないか
とも推測されています。鉄器と一緒に出土していて
錆が付着している状態ですが。周辺からもっといろいろな
ものが見つかっていればよいのかも知れませんが、
ほとんど知られていない状態ですね。半島から渡来した
としたい勢力にとっては不都合だからか。
「隼人を熊襲と蔑視するのは崇神系王朝の間だけ」
という指摘がある事も知っておくべきかと。
ちなみに吉備の中心的な聖地である
有木神社の不動岩あたりが
「梁塵秘抄」で「隼人崎」と呼ばれる地らしいです。
吉備と隼人の共通項には、穴太、アリキ、カヤ、スミ、ウ、犬のつく地名・人名(三角、大隈、高住、墨之江、住吉、隅田、ウガヤフキアヘズ、鵜戸、宇都、宇佐、宇治、犬山、犬飼など)があるという指摘もあります。
(『古代日本と海人―長江・隼人・吉備ルート』参照。)
吉備というと岡山と思いがちなのですが、
広島県東部もかつての吉備の範囲(備後)です。
葦嶽山、鬼叫山の磐座群(神武岩)などが存在します。
熊本の菊池川水系の迫間川流域に
神来と書いて「おとど」と読む地名があるのですが
周の夫差・呉の太伯の系統が来ているのではないか
と福永晋三氏は説いておられます。
松野連(むらじ)系図というものがありまして、
周の夫差からはじまり、卑弥鹿文(ひみかや)、
市鹿文(いちかや)、はては讃など「倭の五王」
まで登場する系図なのですが、これが菊池に
伝わっているのです。
細かい事を申し上げますと、『翰苑』巻30の魏略逸文に
倭人は自ら太伯の後裔と称していたとあります。
一方、福永氏は、遠賀川流域の勢力を
夏后小康・越の勾践の末裔と考えておられます。
これもまた、『翰苑』巻30の魏略逸文などによるものです。
肥後のククチヒコ(菊池日子)と筑豊ヤマトの戦いは
呉越の戦い(夏と周の末裔の戦い)とも
考えておられます。
その場合「卑弥鹿文は卑弥呼なのか?」
という問いが出てくると思いますが。
この辺りは漢文・中国語から万葉集まで
原典にあたって苦心しながら読んでおられる
福永先生の独壇場のようになってもいます。
その上、国語教師を退職後は筑豊に帰って
神社の由緒なども歩いて調べていらっしゃる。
いや東京にいた頃からよく戻ってもいらしたそうです。
稲作北方起源説という無理な学説が出回っているのですが
稲作が揚子江流域辺りから始まった事、
稲の種類も、蚕の種類なども、はては鵜飼いの風習まで、
日本と揚子江流域で一致している事が分かっています。
つまり、揚子江から直接、日本に入っていて
半島を経由していないのです。
北方説の方は「稲は南から来たかも知れないが
北から鉄器が来てはじめて爆発的に稲作が
拡大したのだ」などと説いているようです。
「魏志韓伝」の弁辰の条に「国は鉄を出し、
韓・濊・倭は皆従いて之を取る」とあるので
倭には鉄が無かったのだ、と言う方もいらっしゃるとか。
しかしながら、縄文時代晩期終末から
弥生時代前期の移行期の遺跡である
青森の砂沢遺跡にまで「遠賀川式土器」
が伝わっている事が分かっています。
この事から、北九州の弥生文化は
極めて早い速度で東北まで伝わった事が
分かるのです。
見られるようになるのは、紀元前4、3世紀に
なってからです。
また、熊本の西弥護免遺跡からは
580点以上もの鉄器が出土しているのです。
それを保存せずに埋め戻し、隠しているので
一部にしか知られていないだけなのです。
さらに言えば、弥生時代は鉄よりも
青銅の方が強度があったようです。
英彦山などの火山の近くに住むのかと言えば
鉱物資源が採れるから、なのです。
香春でも様々な鉱物が採れます。
それは万葉集に歌われてもいるのですが
移住先の「大和三山」奈良の香久山からは
何も採れないそうです。
奈良の耳成山は人工的な山の可能性が高く
香具山も整形されているかも知れません。
北に位置していました。ですから、三国時代の
話す人々)だったと考えられています。
どちらにしても、筑豊勢力も肥後菊池勢力も
血液型はA型が主流だったと考えられます。
1981年の献血データによると、
西日本から岐阜にかけて若干A型比率が高い
のですが、中でも高比率なのは出雲(島根)だったりします。
それに次ぐのが熊本や北九州です。
参考:日本人の起源(ルーツ)を探る―あなたは縄文系?それとも弥生系? https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11744062155.html
だったと考えられます。ウラル=アルタイ語族や
メラネシアのダニ族などにB型が多いのですが、
マイケル・ロックフェラーがダニ族の集落に
入り浸っていたという話もあります。
1976年のオックスフォード大学の調査によると
B型19%、AB型8%と、1981年の日本と大差ありません。
(日本はA型40% O型30% B型20% AB型10%ほど。)
ちなみに日本列島はアジアで最もA型比率が高い地域です。
ハンガリーと同じくウラル=アルタイ系の中の
フィン=ウゴール系の言語を用いるフィンランドでも
B型18%、AB型7%と、大差ありません。
なお、日本語の文法はシュメール系ですが
シュメール系の言語は南方と北方に
分かれています。
先に来たのはインドのドラヴィダ系です。
後からウラル=アルタイ系も来てはいますが
ドラヴィダ系が来た時点で
シュメール系の文法が入っています。
そもそも、稲は北では品種改良しないと
育たないと考えられて来ました。
北から騎馬民族が農耕をもたらすという
主張は無理があります。
魏志高句麗伝には
「良い田はなく、耕作につとめてはいるが、口、腹を満たすには足りない。」
「人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む。」
などとあります。
一方、魏志倭人伝には
「盗みもなく、争いごとも少ない。」とあります。
全く違う人種と考えられます。
高床式倉庫や神社建築などは、アカ族の住居などの
南方の建物と似ています。鳥居も
インドのトーラナ(寺院などの門)と似ています。
九州には原を「ばる」と読む地名が多くあります。
「西都原」とか「田原坂」など。
「ばる」地名の起源は朝鮮半島の伐(ぼる)地名ではないか、
「五郎丸」などの「丸」も「森」も伐(ぼる)が起源ではないか、
という方もいます。
ですが・・・もっと広い範囲で見ると
「ばる」「ふれ」などの語源は
インドの「プール」のようです。
インドのジャイプール、
インドネシアのテラナイブーラ、
その先の都市国家シンガポールなどの
プール、プーラ、ポールなどは
起源が同じらしいです。
地名が経由地に点在しています。
のではないかと言う方もいらっしゃるのですが
その主張では、経由地に地名が残っていません。
それは不自然なこじつけでしかないのでは?
そもそもインド=アーリア語族は
ペルシアからインドに移動しているので
イランのネイシャブールの方が起源が古いかも。
同じ起源を持つのかも知れません。
また、オホナムチ、ヒルメムチ、タカクラジなどの
尊称のチ、ジも、インドのアマチ(母様)、ババジ(父上)などの
尊称のチ、ジと同じ起源を持つのではないかと推測されます。
西欧はO型40% A型45% B型10% AB型5%前後となります。
日本と比べてもA型が5%多く、O型が10%多く、
B型が10%少なく、AB型が5%少ない。
ですから、現代「日本人」の主流であるA型
(天つ神の血筋・霊統)の人にとって
欧米人の方がファシスト騎馬民族(B型の扶余人)より近しく感じるのは
当然の事かと思います。
ただ、細目は寒冷適応の結果で、
まぶたに脂肪がたまっているため。
環境適応で身に着けた形質は遺伝しやすいので
B型顔(細目)の方が多くなりがちのようです。
ひふみ神示 第一巻「上つ巻」
第三十二帖 (三二)
「神から見た世界の民と、人の見た世界の人とは、
さっぱりアベコベであるから、間違はん様にして呉れよ。」
*上の画像で「弥生系」となってるのは
寒冷適応する必要がないので細目ではないはず。
ひふみ神示 第廿二巻 「ア火ハ(アホバ)の巻」
第十五帖 (四八四)
「世界から見るから日本が日本ぞ、
も一つ上の世界から見れば世界は日本ぞ、神国ざぞ、
今迄は大地の先祖の大神様の血統を落して了ふて
途中からの代りの神でありたから、
まぜこぜしたから世が乱れに乱れて了ふたのぢゃぞ、
知らしてあらうがな、よくなっとくしてくれよ、
人民 皆その通りになってゐるのぢゃ。」
ひふみ神示 第廿三巻 「|三(ウミ)の巻」
第十帖(五〇二)
「大事な御先祖様の血統を皆世に落して了ふて無きものにして了ふて、
途中からの代へ身魂を、渡りて来た身魂を、まぜこぜの世と致して、
今の有様は何事ぞ、まだ判らんのかなあ、人民もぐれんぞ。」
ひふみ神示 第一巻 「上つ巻」
第二帖 (二)
「☉の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。
岩戸が明けたら一度に分かる。」
沖縄などの離島はO型が多めです。
南米はO型が多いのですが
「島唄」が南米で大ヒットした事もあります。
1981年の献血データで、唯一沖縄よりも
O型比率が高いのは、岩手です。
これは、北海道は移民が多いのと
秋田や青森の日本海側などは昔から
トゥングース系のオロチ族もいたためと
考えられます。岩手は日本海に面してない中では
一番北という事になるわけです。
北海道ではトゥングース系の人々も
明治政府の政策によって「アイヌ」という事に
されてしまった経緯があります。しかしながら
北海道の縄文遺跡で見られるのは、ミトコンドリア
ハプログループで言えばN9bが多い。
N9bは沖縄でも高比率で見られる。
これに対し、オロチ、オロッコ、オロチョン、
ギリヤークはハプログループYだと思われます。
カムチャッカ、シベリアなどに多い。
それがいわゆる「アイヌ」にも多いというのは
ある意味「明治政府の詐欺」です。
N9bでなければおかしいのです。Yなら
本来はトゥングースだったのに明治政府にアイヌと
されたのだ、と言わねばならない。
< 13 > エミシの国の女神
岩手と言えば、遠野物語です。
遠野西と言えなくもない位置にあります。
そこに何があるかと言えば、
「アラハバキ神の巨岩」(丹内山神社)です。
こうした磐座に祈りを捧げていたのではないか
と思いをはせる人もいらっしゃる。
御祀神を変更している神社も多いので、
分からない事も多いのだけれども、
アラハバキ神を御祀りする所にはよく磐座がある
という話もあり、古くからの、百済王族が
渡来して来る前からの信仰の形態が残っているのだ
と考えてもよいのではないかと思います。
遠野に住んで「エミシの国の女神」
いかに中央の有名神社の御祀神から外されて
行ったかを推理・分析していらっしゃいます。
遠野の山間部などだと、中央の有名神社と違って
御祀神がそのまま残っている事があるので
それが手掛かりとなったわけです。
遠野三山の早池峯(はやちね)神社には
稲蒼魂命が御祀りされているとの事。
「フツの御霊の大神」はニギハヤヒ大神様ではないかと。
福永晋三先生の説では、ニギハヤヒ以前の神様だそうですが。
その場合、稲蒼魂命もまた「みとし神」瀬織津姫様かも知れない。
慣れてくると、そういう事が自然に連想されるようになるわけです。
それもこれも私の場合は菊池展明氏のご著書に学んだ事から
はじまっています。
御祀神はどちらも瀬織津姫様となっているそうです。
この瀬織津姫様の多彩な性格を菊池展明氏は
こう分析していらっしゃいます。
一、水源神・滝神・川神、桜神であること。
一、皇祖神=アマテラスの祖型神であること。
一、東北においては、オシラ神(オシラサマ)やザシキワラシなどと習合する神であること。
一、神仏混淆においては、不動尊および十一面観音と習合する神であること。
一、日本の神道(神社世界)においては、大祓の神(祓戸大神)とされること。
一、弁才天(弁財天)と習合する神(宗像神=八幡比売大神)であること。
一、三河地方においては、天白神とみなされていたこと。
一、ヤマトの中央権力側は、この神を「祟り神」「禍津日神」(悪神)とみなしていたこと。
大祓の神様や「道案内の神」猿田彦様は、
神社の入り口で御祀りされている事が多いです。
その位置に「スサノヲ社」などがある場合は
元は祓戸社だったのだろうな、と思ったり
するようになりました。
この「いづのめ」は当然、
撞賢木(つきさかき)厳之御魂(いづのみたま)
天疎(あかさかる)向津媛(むかつひめ)様と
考えられます。
「御三体の大神様」の父母子のトライアングルを形成する
であり、同時に、神霊界においてはむしろ祖神かも知れない事、
イナンナ女神(ニン+アンナ=天の女主人)かも知れない事が
考えうる。イシュタル=イーシュワル(主宰神)かも知れない。
余談からさらに脱線するかも知れませんが
私の中では、ファイナルファンタジー7
(FFVII)というゲームに登場する女神的な女性・・・
しばしば滝や水と共に描かれる・・・エアリスは
イナンナ女神、イシュタル女神を祖型としている
と感じます。主人公がエアリスを殺しそうになる
場面があるのも、女神への懺悔を感じさせる。
奇異に感じる方もいらっしゃるかも知れませんが
私はあのエンディングを見ると
額づかずにはいられないくらいなのです。
あれはリメイクなどすべきでなかったと思っています。
興覚めするような事を書いていたら申し訳ありません。
この話を書く方が分かりやすい人もいらっしゃるかと思います。
大本教においては、
男神・国常立大神様が「厳の身魂」の神霊とされ、
それを宿す肉体は女性(変性男子)とされています。
女神・豊国主大神様が「瑞の身魂」の神霊とされ、
それを宿す肉体は男性(変性女子)とされています。
また、「厳の御魂と瑞の御魂との合同の働き」を
「伊都能売御魂の御働き」とする解釈もあるようです。
神社においては、
厳の身魂の現身(うつしみ)は瀬織津姫様、
瑞の身魂の現身(うつしみ)はニギハヤヒ様
なのかも知れません。
大本教と東北の関りは、他にもあります。
出口和明氏が生まれた際、王仁三郎聖師様は
また鳥海山(現代ではチョウカイサンと読みますが、本来はトミヤマらしい)では聖師様が「坤の金神」(豊国主様)の神がかりとなり歌を詠まれたそうです。
トミヤマと言えばナガスネヒコ様とニギハヤヒ様の伝承と関わってきます。当然のように、降臨伝承があります。山形には中国の殷の時代の遺物もあり、鳥海山は大陸から東北に行く場合の目印となったようです。
< 14 > ニギハヤヒ朝ヒノモト
飛騨一宮・水無神社の主祀神・大歳大神
奥宮のある位山のイチイの木から勺(笏)が作られる
という話もあります。
主祀神へと入れ替わっている、応神天皇。
滋賀の朝日山神社は、
2代・綏靖天皇、3代・安寧天皇、4代・懿德天皇と
応神天皇と、白山姫命が御祀神です。
これは、応神天皇が初代神武である事を暗示している
と思います。
ややこしい話ですが、九州から出発した東征初代の
神武天皇は、九州から出ていない可能性があります。
東征二代目はいわゆるイリ王朝の崇神天皇(ミマキイリヒコ)
ではないかと考えています。
そのため「はつくにしらすスメラミコト」が二人いるのではないかと。
ないかと考えられます。そこで、鍵となっているのは
ではないかと考えられます。
また神社伝承においては、白山菊理(くくり)媛様が
水瓶に蓮の花を差して持つ姿の事も多いです。
白山媛様は薬師如来となるようです。
霊峰白山は薬師嶽とも呼ばれて来ました。
神社伝承においては、スサノヲの大神様の御子が
ニギハヤヒ大神様だったりもします。
谷川健一氏の「白鳥伝説」などの話を総合すると
https://ameblo.jp/cyrus2/entry-11917457710.html
香春あたりから河内に入り、
「神武東征」3代目の応神天皇に国を譲った後は
尾張氏と協力関係となり、
尾張氏の祖である天火明(あめのほあかり)と
同一視されるようになり、静岡、伊豆、
茨城、仙台や多賀城、遠野、青森と
東遷・北上していったようです。
遠野三山の早池峰神社でも、八戸でも
イチイの木が見られます。
そして、日本中央(ひのもとのまなか)と書かれた
事となるのです。
ニギハヤヒ朝の故地では、しばしば前方後「方」墳が見られます。
西山古墳が、前方後方墳と下方上円墳を
組み合わせたような特殊なものです。
「父が守護霊様などから伺っている話」から類推すると
おそらくは白山媛様の御陵なのです。
何の証明にもなってないかも知れませんが。
父は天理教について「 国つ神の教えと天つ神の教えの
混ざった観音信仰的なもの」と教わったそうです。
白山媛・瀬織津姫信仰と起源を同じくする事を示唆しています。
天理教のみかぐら歌は郡上踊りなどの姉妹のようなものかも知れません。
(郡上市の白鳥町には長滝白山神社があり、白山信仰の中心の一つです。)
ひふみ神示 第二巻「下つ巻」
第七帖 (四九)
「この神示(ふで)読んでうれしかったら、人に知らしてやれよ、しかし無理には引張って呉れるなよ。この神は信者集めて喜ぶやうな神でないぞ、世界中の民みな信者ぞ、それで教会のやうなことするなと申すのぞ、世界中大洗濯する神ざから、小さいこと思うてゐると見当とれんことになるぞ。」
超革新ひふみ神示 もくじ