超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

超革新ひふみ神示 1~5章

< 1 >  犠牲に倒れてはならん

 

 日月神示ひふみ神示)については、様々な著者による研究・解説本が出ていますが、中でも最初に有名にした中矢伸一氏の説が最も知られているのではないかと思います。

 

インターネット上には全文掲載サイトも多数存在していますが、全文掲載している書籍は8800円と高額だったのもあって、全文は読んだ事がない方、中矢氏による「翻訳」しか読んだ事がない方も多いかも知れません。

 

 ひふみ神示は人に優しい神示です。

これが戦中の政府マスコミの思想とは幾分、いや正反対なほど違っている事に氣づいている人がどれくらいいらっしゃるでしょうか?

 

中矢氏もそういう部分を隠しているわけではないものの、「大日本帝国こそが古来の日本の姿そのもの」という世界観を持ってないか、あやうくも見受けしている者です。優しい神示だという事を示すために、まずは、この箇所を読んでいただきたい。

 

「今までは悪の世でありたから、己殺して他人助けることは、此の上もない天の一番の教といたしてゐたが、それは悪の天の教であるぞ。己を活かし他人(ひと)も活かすのが天の道ざぞ、神の御心ぞ。他人殺して己助かるも悪ぞ、己殺して他人助けるも悪ぞ、神無きものにして人民生きるも悪ぞ。神ばかり大切にして人民放っておくのも悪ぞ。神人ともにと申してあろが。神は人に依り神となり、人は神によって人となるのざぞ。まことの神のおん心わかりたか。今までの教へ間違っていること段々判りて来るであろがな。」(1945年7月21日)

 

1945年7月と言えば、ポツダム宣言(26日)が出される時期で、終戦間際です。

大日本帝国政府は回天魚雷、特攻隊などの、自国民を犠牲にする兵器・戦術を多用していた事は知られている通りかと思いますが、これらは「己殺して他人助けること」を良しとするものでした。

 

 優しい神示は、そうした政府のあり様を否定するものでもあります。現代の我々は、言われてみれば「大神様の大御心はそんなにお優しいものなのだなぁ」と理解できるかも知れませんが、よくよく考えてみれば、戦中これを公表するのは中々に危険な事だったかも知れません。

 

 「日本について学びたいから神示を学ぶ」という発想の方もいらっしゃるかと思いますが、「大日本帝国こそが日本」というような発想が抜けない場合、赤子心で神示を学ぶのは中々に困難な事ではあるまいかと思います。

 

 戦後の「55年体制」が確立された後になっても、他ならぬ著者(自動書記の霊媒)の岡本天明先生ですら、神示を理解していないとお叱りを受けているのです。

 

「ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。何故に神示を読まぬのぢゃ。」

(1956~58年頃)

 

< 2 > 与える政治

「今の政治はむさぶる政治ぞ、神のやり方は与へぱなしざぞ、@(ウズ)ぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与へるものあるのざぞ、おしみなく、くまなく与えて取らせよ、与へると弥栄へるぞ、弥栄になって元に戻るのざ、国は富んで来るぞ、神徳 満ち満つのぢゃ、この道理判るであらうがな。取り上げたもの何にもならんのぢゃ、ささげられたものだけがまことじゃ、乗るものも只にせよ、田からも家からも税金とるでないぞ、年貢とりたてるでないぞ、何もかも只ぢゃ、日の光見よ、と申してあらうが、黄金(きん)はいらんと申してあろが、暮しむきのものも只でとらせよ、只で与へる方法あるでないか、働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、与へる方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与へぱなしぢゃ、其処に神の政治始まるのぢゃぞ、神の経済あるのぢゃ。やって見なされ、人民のそろばんでは木の葉一枚でも割出せないであらうが、この方の申す様にやって見なされ、お上は幸でうもれるのぢゃ、余る程与へて見なされ、お上も余るのぢゃ、此の道理判りたか。仕事させて呉れと申して、人民 喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるぞ、皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。むさぶると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、そろばん捨てよ、人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな。六月十七日、かのととりの日、ひつくの神。」

 

この箇所をありのままに読んだならば、いかに「大日本帝国」のあり様と大神様の大御心がかけ離れているか、当然わかるべきだと思います。が、体制妄信している場合は、「大神様のおっしゃる事もすごいけれど、大本営も人間脳としては無理もないよなぁ」くらいの理解で済ませ、それ以上は考えず、素通りで済ませている方も多いのかも知れません。

ありのままに読むなら「極左」もびっくりの超極左の言動ではないかと。いや・・・「左翼とは悪人の事だ」くらいに思っている方は「すばらしい大神様は右翼の進化系」と思うのかも知れません。けれど、実際の「共産主義者」は「資本家による収奪は良くない」という真っ当な事を言っているだけの事も多いわけで、「共産主義とはファシズムの事」みたいな定義とは関係ないわけです。

 ひふみ神示には「自由も共産も共倒れ」という箇所もありますが、これはいわゆる「西側」も「東側」も駄目になる、という話でして、「東側の共産主義者社会主義者」が実際は資本家の隠し子とか隠し孫だったりする事実もあるわけです。

「資本家による収奪は良くない」と主張する人の全てが「だからスターリンが立派!」と言い出すわけではなく、むしろソ連や中国のやり方は共産主義ではない、社会主義ではない、と指摘・糾弾する事も多いわけです。

 相手の主張を知ろうとせずに、ダメと決めつけてかかるのもよろしくない。誰の魂の奥も良心(アートマン、仏性、神性、奇霊)は存在します。

「理解大切。理解結構。思考しなければ これからは何も出来んぞ。拝み合ふことは理解し合ふことぞ。手合せて拝むばかりでは何も判りはせんぞ。何故に、心の手 合せんのぢゃ。心の手とは左行く心の手と右行く心の手と和すことぢゃ。サトルことぢゃ。苦しんで苦しんで苦しみぬいて得たことは楽に得たことぢゃ。その楽に得たことのみ自分の身につくのぢゃ。血ぢゃ。肉ぢゃ。」

 この辺りで神示がいかに人間体制の常識を超越しているか、氣づきはじめていただけたら幸いですが・・・異論は理解したくないという方も、もう少しお付き合いいただけたらと思います。

「己の知では分らん、大神様とはアベコベのこと考へてゐては逆さばかりぢゃ、神示よく読んで誠の仕組仕へ奉れよ。」

 

< 3 >  正道のいくさ

「人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか。」

「是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。」

もうこうなって来ると、現代の兵器全般の全否定とも言えます。もちろん、兵器を持つ賊が存在している中で、自分だけ丸腰というわけにもいきませんが・・・実際は猟銃などの許可をもらってる方や自衛官などを除くと、丸腰の中で暴力団の跋扈する社会で生きているというのもまた事実です。しかも、しばしば肉体がボロボロになるほど酷使されながら。

 では、自衛官が実は日本人の敵だった場合はどうするのでしょうか?

 そんな仮定は無意味と主張する方もいらっしゃるでしょう。けれど、自民党統一教会公明党創価学会の関係は知られている通りであり、自衛隊の世話もしているパソナという派遣会社の社長は創価学会員である事も知られています。

 「絶対大丈夫!」と決めつければ済むのなら、そもそも警察も消防署も要りません。

原子力発電所の事故にしても「絶対起こるはずない」と事実無根の机上の空論がまかり通って来ました。随分政治や社会問題の話ばかりするな、現実を離れて心豊かにしたかったのに」と思う方もいらっしゃるかも知れませんが、神示が警告しているのはその辺の油断の危うさについて、なのです。

「折しもあれや日の国に、一つの光 現はれぬ、これこそ救ひの大神と、救ひ求むる人々の、目にうつれるは何事ぞ、攻め来る敵の大将の、大き光と呼応して、一度にドッと雨ふらす、火の雨何んぞたまるべき」

神示を理解していないとこういう事になるかも知れないから、深く理解してくれよ、という話なのです。それを戦中には大声では言えないから、特に敗戦が決定的となり、戦後になってこそはっきり示されているわけです。

 「大本営は絶対に日本人の味方のはず」では済まないのです。

 対処に時間がかかりそうな場合は、現実を見たくなくなる心理も分からないではないのですが、それでは危ないよという話なのです。

 神示を軽く考えていた人も多いのではないでしょうか?

 軍事独裁体制に戻されたりしないように、日本国憲法で人権を守られ、言論の自由がある内に、徹底議論しておくべきではないでしょうか?それが正道のいくさという事です。

 大本営に異論を唱えて波風立てるのはよくないという方もいらっしゃいますが、実際に戦禍となり大被害を被るより、議論で済ませる方がよいのです。

「神示で知らしただけで得心して改心出来れば大難は小難となるのぢゃ、やらねばならん、戦は碁、将棋、位の戦ですむのぢゃ、人民の心次第、行ひ次第で空まで変ると申してあろがな、この道理よく心得なさりて、神の申すこと判らいでも、無理と思ふ事も貫きて下されよ、これがマコトぢゃ。」

「今度 捕へられる人民 沢山にあるが、今度こそはひどいのざぞ。牢獄で自殺するものも出来て来るぞ。女、子供の辛いことになるぞ。九分通りは一度出て来るぞ、それまでに一度盛り返すぞ、わからんことになったら愈々のことになるのざぞ。みたま磨けよ。」

「先の取越苦労は要らんぞ、心くばりは要るぞと申してあろがな。神が道つけて楽にゆける様に嬉し嬉しでどんな戦も切抜ける様にしてあるのに、臣民 逃げて眼塞いで、懐手してゐるから苦しむのぞ。我れよしと云ふ悪魔と学が邪魔してゐる事にまだ氣付かぬか。嬉し嬉しで暮らせるのざぞ。日本の臣民は何事も見えすく身魂授けてあるのざぞ、神の御子ざぞ。掃除すれば何事もハッキリとうつるのぞ。早よ判らねば口惜しい事出来るぞ。言葉とこの神示と心と行と時の動きと五つ揃たらマコトの神の御子ぞ、神ぞ。」

 

大本営に全権委任しておけば大丈夫、などという話ではないのです・・・

深く理解してください。

女子供を苦しませたくないのなら。日本人を守りたいのなら。

 

政府の「大丈夫に決まってる!」には論理的根拠が無いのです。理がない。

「神から出るものは理(リ)にきまってゐるぞ。この平凡の理(ミチ)の道理が何故に判らんのぢゃ。得心出来んのぢゃ。それに従へばこそ向上、弥栄するのぢゃ。天狗ざから、慢心するから、理がなくなるから行き詰るのぢゃ。」

 

< 4 >悪魔の理屈と神の理

「火と水で岩戸開くぞ、知恵や学でやると、グレンと引繰り返ると申しておいたが、
さう云へば知恵や学は要らんと臣民早合点するが、知恵や学も要るのざぞ。」

 

戦中・戦後すぐの神示は軍人が好みそうな

「智や学はでは駄目」式の表現の方が多のも事実。

ですが、岡本天明先生は、もともと大本教にいた人物で

大本神諭には、もっとはっきりした表現もあります。

 

大本神諭 大正3年旧9月17日
「一層何も彼も卓越(ずぬけ)た学のある守護神でありたら、
解るのも早いなれど、今の途中の鼻高の学者は、
世界が茲まで迫りて来て居るのに、
未だ日本の国の天からの責任が解らん様な事であるから、
何時まで延ばしても限が無いから、
天地のビックリ箱を明けて、神力を見せてやるぞよ。」

 

大本神諭 大正6年旧5月6日
「一層学力(がくりき)の勝貫(ずぬけ)た霊魂に、

使はれて居る肉体でありたら、筆先が能く解るなれど、

中途の学では解らんから、綾部の大本の元の役員は、

普通(ひととうり)では出来んから、大勢は要らんぞよ。」

 

つまり日月神示で言う「学」、大本神諭で言う中途の学とは

「常識」「大本営発表」妄信丸暗記の事。

ですから「体制は絶対の正義」と妄信してる限り

「学に騙されている」事になるのです。

 

神示は何度も何度も繰り返し、確かめる事、

吟味検証する事、サニワする事の大切さを説くものです。

 

「今の人民の迷信と思ふものの中に正信あるぞ。正信と思ふものの中に迷信多いぞ。理解は正信。」

「偽の愛、偽の智と申すのは、神を信じない人民の愛と智であることを知れよ、この人民たちは神の声を聞いても聞こへず、神の現れを見ても見へないのであるぞ、目をとぢ耳にふたしてゐるからぞ、今の人民よ学者よ金持よ、早う考へ方を変へねば間に合わん、心の窓 早うひらけよ。」

 

<  5  >岩戸閉めの歴史

「日本について学びたい」方は、5度の岩戸閉めと聞けば

「幕末の開国が4度目で、敗戦が5度目」くらいに勘違いなさる方も多いのではなかろうかと思いますが、ひふみ神示に書かれているのはそんな話ではありません。

 

神武天皇が4度目で、仏魔渡来が5度目なのです。

これを理解している方が、どれくらいいらっしゃるでしょうか?

それからずっと暗黒時代という話なのです。

 

i  千引の岩戸

「岩戸しめの始めはナギ(伊耶那岐命)ナミ(伊耶那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。」

 

ii 天照大神の時

「次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。」

 

iii 素盞鳴命に罪を着せ追放

「次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。」

 

iv 神武天皇人皇として即位

神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。」

 

v 仏魔の渡来

「仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。」

 

神示によるとこうなのです。

幕末がどうの、敗戦がどうのという話ではないどころか、むしろ敗戦で岩戸が開けたというニュアンスすら感じられるほどです。


「こんなよき世は今迄になかりたのぢゃ、膝元(ひざもと)に居ても言葉ばかりの願ひ聞こえんぞ、口と心と行と三つ揃った行い、マコトと申して知らしてあろが。時節来てゐるなれど、わからん人民多い故 物事遅くなりて気の毒なるぞ、今暫くの辛抱なるぞ、神は人民に手柄立てさしたいのぢゃ、許せるだけ許してよき世に致すのぢゃ、ここまで開けたのも神が致したのぢゃ」

 

なお、神話時代(ナギ・ナミ両大神様、天照大神様、素盞鳴大神様)に関しては、実際にそういう事があったというよりも、「神話が外来思想のものに書き換えられた」事を指しているかも知れません。

出雲国風土記における神(かむ)須佐乃烏(すさのお)の命(みこと)は登場箇所は少ない。

伊弉奈枳命は登場せず、御子神として登場する熊野(くまの)加武呂(かむろ)命が須佐之男命と同一視されているそうです。

何度も登場するのは大穴持(おおなもち)命。

 

記紀におけるナギ・ナミ両大神様は、

国産みの場面では「伏羲と女媧」

(中国南部・倭人の神話の竜蛇神)のようで

冥界下りの部分では、ギリシャ神話の

オルペウスとエウリュディケーのようです。

おそらくは外来神話のストーリーに、名前だけ、日本の神々の名だけ拝借し当てはめているのではないかとも推測されるわけです。

 

「日本の上に立つ者に外国の教伝へて外国魂に致したのは今に始まった事ではないぞ、外国の性根入れたのが岩戸閉めであるぞ、五度ざぞ、判りたか。それを元に戻すのであるから今度の御用中々であるぞ、中つ枝からの神々様には判らん事ざぞと申してあることもガッテン出来るであろがな。」

 

そして、「天の岩戸開き」の「神話」では、神々が天照大神様を騙して引っ張り出すわけですが、騙すのを良しとする発想そのものが、日本的でなく、謀略を良しとする渡来人の思想とも考えられます。

「何事も方便と申して自分勝手なことばかり申してゐるが、方便と申すもの神の国には無いのざぞ。まことがことぞ、まの事ぞ、ことだまぞ。これまでは方便と申して逃げられたが、も早 逃げること出来ないぞ、方便の人々早う心洗ひて呉れよ、方便の世は済みたのざぞ、いまでも仏の世と思うてゐるとびっくりがでるぞ」

 

「日本が日本がと、まだ小さい島国日本に捉はれてゐるぞ。世界の日本と口で申してゐるが、生きかへるもの八分ぞ。八分の中の八分は又生きかへるぞ。生きかへっても日本に捉はれるぞ。おはりの仕組はみのおはり。骨なし日本を、まだ日本と思うて目さめん。九十九十(コトコト)と申してカラスになってゐるぞ。古いことばかり守ってゐるぞ。古いことが新しいことと思うてゐるなれど、新しいことが古いのであるぞ。取違ひいたすなよ。」

「八分の二分はマコトの日本人ぢゃ。日本人とは世界の民のことぢゃ。一度日本すてよ。日本がつかめるぞ。日本つかむことは三千世界をつかむことぞ。悪の大将も、そのことよく知ってゐて、天地デングリ返るのぢゃ。」

 ここまで至れば、神示とは常識や右翼思想の全否定とすら言えるのではないか、と思われます。

 実際、ギリシャ神話以前と比べてみないと、神示の意図は分からないかと思います。海外の神話については後でまた触れます。

超革新ひふみ神示 もくじ

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2023/07/16/220718