超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十四巻「黄金の巻」21~30帖

昭和24年11月17日(1949年) ~昭和25年1月18日(1950年)

 

第二十一帖(五三二)
言はれる間はよいぞ。読まれる間はよいぞ。綱切れたら沖の舟、神信じつつ迷信に落ちて御座るぞ。日本の国のミタマ曇ってゐることひどいぞ。外国、同様ながら筋通ってゐるぞ。型にはめると動きないことになるぞ。型外せと申してあらうが。自分で自分を監視せよ。顕斎のみでも迷信、幽斎のみでも迷信、二つ行っても迷信ぞ。二つ融け合って生れた一つの正斎を中として顕幽、両斎を外としてまつるのが大祭りであるぞ。荒、和、幸、奇、ミタマ統べるのが直日のみたま。みすまるのたまぞ。今度は直日のみでなくてはならん。直日弥栄えて直日月㊉(⨁、〇に十)の能(ハタラキ)となるのぞ。食物 氣つけよ。信仰は感情ぞ。飢えた人には食物。神よ勝て。人間 勝ってはならんぞ。かのととり。一二十


第二十二帖(五三三)
神まつれ、祖先まつれ、子孫まつれ、心まつれ、言葉まつれ、行まつれ、食物まつれ、着るものまつれ、住居まつれ、土地まつれ、感謝感謝で喜び来るぞ。奇跡では改心出来んのであるぞ。かのととりの日。ひつ九十


第二十三帖(五三四)
この神示読むとミタマ磨けるぞ、ミガケルぞ。神示読むと改心出来るぞ。暮し向きも無理なく結構にヤサカ、弥栄えるぞ。まだ判らんのか。苦しいのは神示読まんからぢゃ。金の世すみて、キンの世来るぞ。三年目、五年目、七年目ぢゃ、心得なされよ。欲しいもの欲しい時食べよ。低うなるから流れて来るのぢゃ。高うなって天狗ではならん道理。頭下げると流れ来るぞ。喜び、愛から来るぞ。神様も神様を拝み、神の道を聞くのであるぞ。それは(☉、〇に・)と@(「の」方巻きの渦)と∂(前述@とは逆巻きの渦)とによって自分のものとなるのぢゃ。融けるのぢゃ。一つ境があるぞ。世界の人民一人一柱 守りの神つけてあるぞ。人に説くには人がいるぞ。役員 取違ひしてゐるぞ。われよし信仰だからぞ。あまり大き過ぎるから判らんのも道理ながら、判らんでは済まん時来てゐるぞ。いざと云ふ時は日頃の真心もの云ふぞ。付け焼刃は付け焼刃。神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。内の生活することぞ。内外共でなくてはならん。残る一厘は悪の中に隠してあるぞ。かのととり。一二十


第二十四帖(五三五)
口で知らすこと判る人には、判るぞ。大切なことはミミに聞かしてあるぞ。天狗ざから、軽く見るから分らんのざぞ。神示はいらんのぢゃ、ふではカスぢゃぞ。皆 ・ (テン)を見失ってゐるぞ。 ・ (テン)あるのが判るまい。云ふてならん。仕組は出来上がらんと、人民には判らん。仕上げ見て下され。立派ぢゃなあ。で悟りて下されよ。云ふだけで聞けば実地に出さんでもよいのぢゃ。実地には出したくないのぢゃ。この道理、よく悟りて呉れよ。実地に出しては人民 可哀さうなから、こらへこらへて くどう申してゐる内に、早うさとりて下されよ。かのととりの日。一二十


第二十五帖(五三六)
こんなになったのも この方等が我が強過ぎたからであるぞ。我出すなと申してあろう。この度のイワト開きに使ふ身魂は、我の強い者ばかりが、めぐりだけのこと償って、償ふことぞ。天地かもう神でも我出せんことであるぞ。神々様も懺悔して御座るぞ。まして人民。てん👁(絵文字で目)かいしん まだまだのまだであるぞ。かのととりの日。一二十


第二十六帖(五三七)
与へてあるのに何故手出さぬ。よりよき教に変るのは宗祖のよろこぶこと位 判るであらう。うまいこと申して人集めると、うまいこと申して人が去るのであるぞ。二四(ニシ)と一ケ四(ヒガシ)に宮建てよ。建てる時近づいたぞ。間に合ふ守護神 九分通り悪になってゐるぞ。経には差別あるぞ。緯は無差別ぞ。この道理判らねば一列一平とならん。金欲しい者には金もうけさしてやれよ。欲しいもの与へてやれよ。人間心、神心、逆様ぢゃ。与へることは戴くこと。まだ判らんか。皆何も天国に行くやうになってゐるではないか。この世でも天国、あの世でも天国、目出度いなあ。地獄説く宗教は亡びるぞ。地獄と思ふもの、地獄つくって地獄に住むぞ。地獄はげしくなるぞ。人間の力だけでは、これからは何も出来ん。アカの世からキの世になるぞ。世は、七度の大変りと知らしてあらう。二(ツギ)の世はキの世。口静かせよ。かのととり。一二十


第二十七帖(五三八)
何故、喜び受けぬのぢゃ。宗教は無くなって了ふぞ。誠光るのぢゃ。光のマコトの宗教生れるのぢゃ。その時は宗教でないぞ。心得なされよ。かしはでとカシハデと二つあるぞ。拍手はちかひとチカヒのしるし。手摺(す)るのは願ひのしるし。かのととり。一二十


第二十八帖(五三九)
外が悪くて中がよいといふことないのぢゃ。外も中も同じ性もってゐるのぢゃ。時節来てゐるから、このままにしておいても出来るが、それでは人民 可哀さうなから、くどう申してゐるのぢゃ。三千年花咲くぞ。結構な花、三年、その後三年であるぞ。二(ツギ)の三年めでたやなあ めでたやなあ、ヒカリのふで裏迄 読んで見なされ、よく解ってビシビシその通りになっておろうがな。このほう念じてやれよ。この火(ほう)この水(ほう)ぞ。この火ばかりと思ふなよ。火と水(ヒトミ)ざぞ。善き火(ホー)に廻してやるぞ、良き水(ホー)の御用も回してやるぞ。しくじりも人間にはあるぞ。しくじったらやり直せよ。しくじりは火と水の違ひぞ。このことよく心得てなされよ。しくじり、しくじりでなくなるぞ。何も思案投首 一番罪深い。皆それぞれに喜び与へられてゐるでないか。何不足申すのざ。かのととり。一二十


第二十九帖(五四〇)
二二の盗み合ひ、世の乱れ。心して怪しと思ふことは、たとへ神の言葉と申しても一応は考へよ。神の言葉でも裏表の見境なく唯に信じてはならん。サニワせよ。薬、毒となることあると申してあらうが。馬鹿正直、まことの道 見失ふことあると申してあらうが。道は易し、楽し。楽しないのは道ではないぞ、奉仕ではないぞ。世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。目醒まさねばならんのぢゃ。それが順序と申すもの。神示で知らしてあらうが。ここは種つくるところ、種は人民でつくれんぞ。神の申すやう、神の息 戴いて下されよ。天の道、地の道、天地の道あるぞ。人の道あるぞ。何も彼も道あるぞ。道に外れたもの外道ぢゃぞ。前は一筋ぞ。二筋ぞ。三筋ぞ。曲ってゐるぞ。真直ぐであるぞ。心得なされ。節分から♀☉Θ㊉(〇の下に | 縦線、〇の中に・、〇の中に・・、〇の中に十。オーヒツキ)♀☉(〇の下に | 縦線、〇の中に・。オーカミ)と現れるぞ。讃えまつれ。三年の大ぐれ。かのととり。一二十


第三十帖(五四一)
一四三(ビョーサマ)一四三(ビョーサマ)、改心 早う結構ぞ。道知るのみでは何にもならん。道味はへよ、歩めよ、大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢゃ。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。無き地獄、人が生むぞ。罪ぞ。曲ぞ。今迄は影の守護であったが岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃うた守護になりたら、まことの守護ぞ。悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ。かのととり。一二十

 

ひふみ神示 全文

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