超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十四巻「黄金の巻」91~100帖

昭和24年11月17日(1949年) ~昭和25年1月18日(1950年)


第九十一帖(六〇二)
愛の人間は深く、智の人間は広く進むぞ。経(タテ)と緯(ヨコ)であるぞ。二つが織りなされて、結んで弥栄える仕組。経のみでならん。緯のみでならん。この世に生れてはこの世の御用、この世の行せねばならん道理。この世に生れて、この世の行せねば、生れた時より悪くなるぞ。草木より役に立たんものとなるぞ。草木に変へると申してあらう。神が変へるのでない。自分でなり下がるのであるぞ。判りたか。(一月三日)


第九十二帖(六〇三)
つつましく、正しくして行けば その国々で一切不足なく暮して行けるやうに何も彼も与へてあるに氣付かんのか。天災地変は人間の心のままと申してあらう。豊作、凶作 心のままぞ。今のままで行けば何うなるか、誰にも判らんであらうが、神示通りに出て来ること、未だうたがってゐるのか。ひつくとみつくの民あると申してあらう。ひつくの民は神の光を愛の中に受け、みつくの民は智の中に受ける。愛に受けると直ちに血となり、智に受けると直ちに神経と和して了ふのであるぞ。二つの民の流れ。(一月三日)


第九十三帖(六〇四)
そなたが神つかめば、神はそなたを抱くぞ。神に抱かれたそなたは、平面から立体のそなたになるぞ。そなたが有限から無限になるぞ。神人となるのぢゃ。永遠の自分になるのであるぞ。他のために行ぜよ。神は無理申さん。始めは子の為でもよい。親の為でもよい。自分以外の者の為に、先ず行ぜよ。奉仕せよ。嬉し嬉しの光さしそめるぞ。はじめの世界ひらけるぞ。一本足では立てん。二本足がよいぞ。やがては明くる二三(フミ)の朝、二二(フジ)は晴れたり、日本晴れ。(一月三日)


第九十四帖(六〇五)
落ちてゐた神々様、元へお帰りなさらねば この世は治まらんのであるぞ。一人一人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。それは地獄の悪のやり方。一人一人は力弱くとも一つに和して下されよ。二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出るぞ。それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ。誰でも死んでから地獄へ行かん。地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。曲って世界を見るから、大取違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。其処に幽界出来るのぢゃ。有りてなき世界、有ってならん。(一月三日)


第九十五帖(六〇六)
四季はめぐる。めぐる姿は@(ウズ。「の」と同じ方向。以下同様)であるぞ。@は働き、上れば下り、下れば上る。この神示読んだ今が出船の港、神の恵みの時 与へられてゐるのぢゃ。明日と申さず実行せよ。明日は永遠に来ないぞ。無いものぞ。今のみあるのぢゃ。(一月三日)


第九十六帖(六〇七)
ウシトラコンジン様を先づ理解せよ。どんなことでも叶へてやるぞ。理解するには、理解する心、先づ生まねばならん。われよしでは拝めんコンジンさまぞ。天地総てのもの、生きとし生けるもの悉く、よりよくなるやうに働いてゐるのであるぞ。それが神の心、稜威(みいつ)ぞ。弥栄と申すものぞ。その時、その人間のキに相応した神より拝めん。悪いキで拝めば何んな立派な神前でも悪神が感応するのぢゃ。悪神拝んでも正しき愛と喜びあれば、善き念が通ずるならば、悪神引込んで、それぞれの善き神 現はれるのぢゃ。この道理よく心得よ。(一月三日)


第九十七帖(六〇八)
生命すててかからねば、まことの理解には入れん道理。身慾信心では駄目。いのち捨てねば生命に生きられん道理。二道二股 多いと申してあらう。物の文明、あしざまに申す宗教は亡びる。文明も神の働きから生れたものぢゃ。悪も神の御働きと申すもの。悪にくむこと悪ぢゃ。善にくむより尚悪い。何故に判らんのか。弥栄と云ふことは歩み一歩づつ喜び増して行くことぞ。喜びの裏の苦に捉はれるから判らんことに苦しむのぢゃ。苦と楽 共に見てよと申してあらう。偶然の真理、早う悟れよ。(一月三日)


第九十八帖(六〇九)
大切なもの一切は、神が人間に与へてあるでないか。人間はそれを処理するだけでよいのであるぞ。何故に生活にあくせくするのぢゃ。悠々、天地と共に天地に歩め。嬉し嬉しぞ。一日が千日と申してあらう。神を知る前と、神を知ってからとのことを申してあるのぞ。神を知っての一日は、知らぬ千日よりも尊い。始めは自分本位の祈りでもよいと申してあるなれども、何時までも自分本位ではならん。止まると悪となるぞ。神の理(ミチ)は弥栄ぞ。動き働いて行かなならん。善と悪との動き、心得なされよ。悪は悪ならず、悪にくむが悪。(一月三日)


第九十九帖(六一〇)
内にあるもの変へれば外からうつるもの、響いて来るもの変って来るぞ。内が外へ、外が内へ響くのぢゃ。妻にまかせきった夫、夫にまかせきった妻の姿となれよ。信仰の真の道ひらけるぞ。一皮むけるぞ。岩戸ひらけるぞ。不二晴れるぞ。(一月三日)


第百帖(六一一)
真理を理解して居れば心配いらん。失敗も財産ぞ。真剣で求めると真剣さずかるぞ。求めるとは祈ること。よく祈るものは よく与へられる。日々の祈りは行であるぞ。百年祈りつづけても祈りだけでは何もならん。それは祈り地獄ぢゃ。祈り地獄 多いのう。肉体人は肉体の行せねばならん。日々の祈り結構いたしくれよ。次の祈りは省みることぞ。いくら祈り行じても自分省みねば、千年行じても何もならん道理ぢゃ。同じ山に登ったり降ったり、御苦労のこと、馬鹿の散歩と申すもの。悔いあらためよと申してあらう。省みて行ずるその祈り弥栄えるぞ。平面の上でいくら働いても、もがいても平面行為で有限ぞ。立体に入らねばならん。無限に生命せねばならんぞ。立体から複立体、複々立体、立々体と進まねばならん。一から二に、二から三にと、次々に進めねばならん。進めば進む程、始めに帰るぞ。 に到るぞ。立体に入るとは誠の理解生活に入ることぞ。無限に解け入ることぞ。イワトあけなば二二輝くぞ。弥栄々々。(一月十八日)

 

ひふみ神示 全文

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