超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

梵語と進化論

ダーウィンの進化論は、みなさん

義務教育で教わるのでご存じかと思います。

 

環境に適応して、イグアナが海イグアナと

陸イグアナに分かれたりするという話。

 

新しい方が進んでる、高度であるという思想。

 

それをくつがえすような存在が、

インド=アーリア系の言語である

サンスクリット語梵語)です。

古い言語にも関わらず高度で複雑。

むしろ英語などは単純で簡単な言語となっています。

 

昔の英語は、今のドイツ語と割と似ています。

今はknightと書いてナイトと読むのが

昔はクニヒトみたいな読み方だった。

元は同じ言語だったと考えられています。

 

イギリスがインドを植民地にしてから

インドのアーリア系言語が

実は英語やドイツ語と文法が似ている

という事に氣づく方がいて

インド=アーリア語族

(インド=ヨーロッパ語族)という

同じ系統の言語だと考えられる

ようになりました。その中で

最も簡単なのが英語で、

最も高度なのがサンスクリット語梵語)なのです。

 

それで、「人間は実は、退化してるのでは?」

と疑問を持つ人も現れたわけです。

 

その一人が「ドイツの哲学者」ニーチェでした。

 

デカルトは「我思う、故に我あり」とか言ったと

知られています。しかし、ニーチェは考えた。

 

そもそも英語やドイツ語は、必ず主語を必要とする。

日本語でいう「雨が降る」は

英語だとIt rains.とか言うわけですが

rainsだけで「雨降る」で、そこに特に意味は

なくてもItという主語をつける必要がある。

そういう言語ですね。

日本語は、必ずしも主語をつけなくても

主語が曖昧なままでも書けてしまう。

 

それで、ニーチェは思ったわけです・・・

「我思う」というけれど

「思う」のが本当に「我」なのかは

実は明確ではないのではないか?

誰か別の霊的な存在が思った事を

感じているだけかも知れない・・・

主語が必要な言語に引きずられて

「我」とつけてしまうのが間違いでは??

 

そういう推察をしたと書いてるわけでも

ないのだけれど、そういう事をほのめかしてる

というのは、読解力があれば分かるかと思います。

 

ニーチェは「神は死んだ」という言葉で

知られています。それで、しばしば

無神論者と誤解されています。

違いますよ。ただし、悪魔主義者ですから

もっと悪いかも知れませんが。

当人は、悪魔こそが神みたいに思ってる。

事実は残酷とか何とかいう。

「自分こそが悪魔だった!」と思わざるを

えない犯罪者などにとってはそうかも知れない。

事実は別に残酷ではありません。

自己中心主義者の妄想にとって不都合なだけで。

 

実際は自己中心主義者が残酷なだけです。

 

私はもともとは、直感的な人物でした。

幼子の方が、老人より、

そういう傾向が強いのは当然かも知れませんが。

 

「知識は、偏見を破壊する時だけ役に立つ」

くらいの意見の持ち主だったし

今でもそうかも知れません。

 

けれど、世の中にはあまりにも

詐欺・詭弁の類が多いために

それに応じて私の知識も不本意な方向性にも

増えた部分もあるし

世界の様々な地域の歴史などを学んでもいます。

 

そうした中で、今日は梵語サンスクリット語

と英語の話をしてみようかと思ったわけです。