イエス=キリスト様の御教え
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/山上の垂訓
山上の垂訓(説教)
『マタイによる福音書』5章 3節~12節
5-3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
非常に詩的で素朴で、直感的に響きます。
だからこそ信者もいるわけです。
昔は「幸いなるかな、心の貧しき者」のような
古語のような訳を多く見かけ
その方が詩的な味わいがあったけれど
今はこのような「口語訳」の方が親しまれるのでしょうか。
あ、日本語が苦手な方向けなのか?
「心の貧しい人たち」をどう解釈するかは
他の部分も見れば明らかです。
18章10節~14節
ttps://ja.wikisource.org/wiki/ルカによる福音書(口語訳)#第18章
10「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
つまり「自虐的」であるように説いているわけです。
どこにも「自尊的であれ」などという右翼思想はありません。
「傍若無人で、傲慢で、どんな犯罪も正当化する
自己中心的なサイコパスは偉い」などという話ではなくて
自分の未熟な事を自覚し反省し謝罪している人の方が
「自分は完璧で無謬で優れてるから独裁しても何をしても正義」
などとうぬぼれた輩よりも神々に赦される、という話です。
「エロヒム」は複数形である事が分かります。)
全財産を寄付せよと信者に呼び掛けた事を暴露されて
逆ギレしてテレビ局や新聞社を襲撃するような輩とは大違いです。
どうして、そんな連中をメシアだのキリストの再臨などと思うのでしょう?
その件に関して「義のために責められたる者」は
間違いなく、朝日新聞の、亡くなられた記者さんです。
犯罪を暴露されて「迫害されてる!」などとほざくのは
サイコパス。極度の自己中心主義者。
「集団ストーカー」被害を受けてる私も
「義のために責められたる者」のはしくれには入るかと。
「自尊的」であるように説いているのに
今はいろいろとおかしな人脈の中にいる
"X JAPAN"のYoshikiなども
代表曲であるEndless Rainの歌詞は優れています。
あの曲に関しては、ヒットすべくしてヒットしたと言えるかなと。
”Endless rain,fall on my heart 心の傷に
Let me forget all of the hate,all of the sadness"
という部分ですが、訳すと
「終わりなく降る雨よ、心の傷に降り注げ。
全ての憎しみを、悲しみを、忘れさせておくれ」
みたいな感じです。
憎む事などを正当化する事なく、
無くしたいと願っている。
己を律する「自虐的」な心がある。
自力では無理だからと他力に頼っている。
であり、ある意味においては自分。個我もまた
至高の神のあらわれでもある天地大宇宙の一部
とも言えるわけですが、祈りに応えてくださる
のは、身近な守護の神霊様だったりもするかも。
他の曲は「サディスティック・デザイアー」
(他虐熱望)などなので、知らなかった方は
あまりに美化せず、期待しすぎない方がよいです。
ひらすら優れてるとデビューできない疑惑。
ヒットした1曲の他は一般受けしないなんて方や
グループは、たくさんいらっしゃいます。
ディズニーにはいろいろ疑惑があるものの
ディズニー映画「ノートルダムの鐘」は
キリスト様の御教えや、原作者ユゴーの
意図をよく汲んでつくってくれてると思います。
(原作は「ノートルダム・ド・パリ」。)
ジプシーのエスメラルダの独唱シーン
「神よ、階級外賤民(被差別民)を救いたまえ」
God Help The Outcasts
https://www.youtube.com/watch?v=MEEpavnk7Uw
このシーンは取税人の祈りの再現とも言えます。
ヴィクトール・ユゴーは偽善者が大嫌いで
形式主義を嫌い、本質を見ようとする人。
もっとも、ディズニーがこれを取り上げた
背景にはフン族が「ジプシー」に混じってた
から、なんて事もありそうですが・・・。
ユゴーの趣旨は売春婦を擁護するキリスト様と同じかなと。
イエス=キリスト様の御教えは、なかなかに強烈です。
ほとんど、誰も実践などできそうにもない御教えの
オンパレードと言ってもよい。例えばこんな感じ。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ
(マタイによる福音書5章38節~47節)
ttps://www.bible.com/ja/bible/1820/MAT.5.口語訳
「そなたは無低坑主義が平和の基だと申して、右の頬を打たれたら左の頬をさし出して御座るなれど、それは真の無抵坑ではないぞ。よく聞きなされ、打たれるようなものを そなたがもってゐるからこそ、打たれる結果となるのぢゃ。まことに磨けたら、まことに相手を愛してゐたならば、打たれるような雰囲気は生れないのであるぞ。頬をうたれて下さるなよ。生れ赤児見よと知らしてあろうが。」
五十黙示録 第五巻「極めの巻」
第十五帖 (〇九三)
「右の頬をうたれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元ぢゃと申してゐるが、その心根をよく洗って見つめよ、それは無抵抗ではないぞ、打たれるようなものを心の中にもっているから打たれるのぞ。マコトに居れば相手が手をふり上げても打つことは出来ん、よくききわけて下されよ。笑って来る赤子の無邪気は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ。世界一家天下泰平ぢゃ、左の頬を出すおろかさをやめて下されよ。」
強烈!! まぁ悪魔主義者が大嫌いな私には
その境地に達するのはなかなか難しそうです。
反神親悪(反日親蛮)の右翼連中が
そういう輩どうしでつるんでるのを
すごいなどとは全く思いませんが。
「ナザレのイエス様もその域まで達しては
いなかったから義のために責められたのではないか」
と突っ込みを入れる方もいらっしゃるかも知れませんね。
ええ、そうかも知れません。
ひふみ神示の大神様も八つ裂きにされたというお話です。
それだけ超困難な話で、
たいていの場合は「被害者側の落ち度」を責めるより
加害者を責めるべきではなかろうかと思ったりもします。
確か園子温が海外で何か受賞した後の
天狗になってる時に面接したという女優さんが
その受賞を何とも思っておらず、それに
感づいた園子温がキレだして、結局
役をもらう話は無しになった、とかいう話を
書いていらっしゃったけれど、
そういうのね・・・キレる奴の方がよほど
悪いよね、とも思う。
けれど、宗教的に言えば、そういう輩をも
親心で愛する事のできる人の方が優れている
という事にはなるでしょうし、もちろんそれは
なかなか難しいけれど、何でもかんでも
怒るような事を正当化する事はないわけです、
本当に宗教的な人であれば。
ひふみ神示 補巻「月光の巻」
第五十五帖 (八四二)
「そなたはよく肚をたてるが、肚がたつのは慢心からであるぞ。よく心得なされよ。
下肚からこみあげてくる怒りは大きな怒りであるから、怒ってよいのであるなれど、怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かくして下されよ。怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。」
高慢ちきの逆ギレ蛮賊どもをよしとするわけではなく
連中の犯罪への怒りをよしとするわけです。
ただ、それでも、できるだけ短く、
できるだけ純粋にという事です。
そこは常に己を内省し、己から糺す人こそが
宗教的なのであって、右翼やエセ左翼は
全然宗教的ではありません。
つまり・・・「日本人はもっと怒らないと」
とか煽る小池百合子とか、
デモ主導者とかは悪魔的な要素が濃いかなと。
本当の左翼(革新)の中には
「保守政党」などよりはるかに
宗教的な人もいらっしゃいますが。
キリスト教2 カルトなど
https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/08/24/200349
に続きます。