超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十四巻「黄金の巻」71~80帖

昭和24年11月17日(1949年) ~昭和25年1月18日(1950年)


第七十一帖(五八二)
世界がそなたにうつってゐるのぞ。世界見て己の心早う改心致されよ。世はグルグルと七変り、改心の為 世界の民皆、今度は引上げ一旦みなあるぞ。経(タテ)のつながりを忘れ勝ちぢゃ。平面のことのみ考へるから平面のキのみ入るぞ。平面の氣のみでは邪であるぞ。動機善なれば失敗は薬。(十二月十四日)


第七十二帖(五八三)
世界の人民 皆改心せよと申すのぞ。どんなめぐりある金でも持って居ればよいやうに思うて御座るなれど、めぐりある金はめぐりそのものと判らんか。家の治まらんのは女が出るからぞ。夫立てると果報は女に来るぞ。天界に住む者は一人々々は力弱いが和すから無敵ぞ。幽界に住む者は一人々々は強いが孤立するから弱いのぞ。仲よう和してやれと申す道理判りたか。そなたは何万年の原因から生れ出た結果であるぞ。不足申すでないぞ。十二月十四日。


第七十三帖(五八四)
四十八柱、四十九柱、それぞれの血筋の者 引き寄せておいて、その中から磨けた者ばかり選り抜く仕組。磨けん者 代りのミタマいくらでもあるぞ。お出直しお出直し。世界が二分ぢゃなあ。もの見るのは額でみなされ。ピンと来るぞ。額の判断 間違ひなし。額の目に見の誤りなし。霊界には時間、空間は無いと申してゐるが、無いのでないぞ。違って現はれるから無いのと同様であるぞ。あるのであるぞ。悪の霊はミゾオチに集まり、頑張るぞ。こがねの巻は百帖ぞ。こがね しろがね とりどりに出るのぢゃ。あわてるでないぞ。(十二月二十七日)一二十


第七十四帖(五八五)
貰うた神徳に光出す人民でないと、神徳をわれよしにする人民にはおかげやらん。自分が自分で思ふやうになるまいがな。自分が自分のものでないからぞ。自分のものなら自由になると申してあらうが。道を進めば楽に行ける。道行かんで山や畠や沼に入るから苦しむのぞ。神の仕組の判る人民二三分出来たら、いよいよにかかるぞ。未だ未だ改心足らん。神せけるぞ。魂にめぐりあると何してもグラリグラリと成就せんぞ。めぐりのままが出て来るのであるぞ。心のよきもの、神にまつりて、この世の守護神と現はすぞ。理屈は判らんでも真理は掴めるぞ。信念と真念は違ふぞ。信念は自分のもの。信念超えて真念あるぞ。任せきったのが真念ぞ。迷信が迷信でなくなることあるぞ。ぢゃと申して信念がいらんのでないぞ。もう待たれんから判りた人民一日も早く奥山に参りて神の御用結構につとめあげて下されよ。世界中を天国にいたす御用の御役、つとめ上げて下されよ。人間の念力だけでは何程のことも出来はせんぞ。その念力に感応する神の力があるから人間に判らん、びっくりが出て来るのざぞ。(一月三日)一二十


第七十五帖(五八六)
戦や天災では改心出来ん。三千世界の建直しであるから、誰によらん。下の神々様もアフンの仕組で、見事成就さすのであるが、よく神示読めば、心でよめば、仕組九分通りは判るのであるぞ。死ぬ時の想念がそのままつづくのであるから、その想念のままの世界に住むのであるぞ。この世を天国として暮す人 天国へ行くぞ。地獄の想念、地獄生むぞ。真理を知ればよくなるぞ。そんなこと迷信と申すが、求めて見なされ。百日一生懸命 求めて見なされ。必ずおかげあるぞ。神があるから光がさして嬉し嬉しとなるのであるぞ。(一月三日)一二十


第七十六帖(五八七)
真理を知って、よくならなかったら、よく省みよ。よくなるのがマコトであるぞ。悪くなったら心せねばならん。善人が苦しむことあるぞ。よく考へて見い。長い目で見てよくしようとするのが神の心ぞ。目の前のおかげでなく、永遠の立場から、よくなるおかげがマコトのおかげ。神徳は重いから腰ふらつかんやうにして下されよ。その代り貫きて下されたら、永遠(トワ)にしぼまん九の花となるぞ。二二(フジ)に、九(ク)の花どっと咲くぞ。拍手は清めであるが、神様との約束固めでもあるぞ。約束たがへるでないぞ。(一月三日)一二十


第七十七帖(五八八)
不二の仕組とは動かん真理、@(「の」と同じ巻き方の渦。ウズウミ)のナルトの仕組とは弥栄の限りなき愛のことであるぞ。神の理(ミチ)に入り、理(ミチ)をふんで居れば、やり方一つで何でもよく、嬉し嬉しとなるぞ。世の元から出来てゐるミタマの建直しであるから、一人の改心でも中々であると申してゐるのに、ぐづぐづしてゐると間に合はん。気の毒出来るぞ。めぐりと申すのは自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。美の門から神を知るのが、誰にでも判る一番の道であるぞ。芸術から神の道に入るのは誰にでも出来る。この道理判るであらうが。審判の廷(サバキのニワ)に出たならば、世界は一人の王となるぞ。御出まし近うなったぞ。自分よくして呉れと申してゐるが、それは神を小使に思うてゐるからぞ。大きくなれよ。(一月三日)一二十


第七十八帖(五八九)
悪で行けるなら悪でもよいが、悪は影であるから、悪ではつづかんから早う善に帰れと申すのぞ。先祖は肉体人を土台として修業するぞ。めぐりだけの業をせねばならん。(一月三日)一二十


第七十九帖(五九〇)
心、入れかへ奥山へ参りて、その場で荷物を持たすやうになるから、ミタマを十分磨いておいて下されよ。神が力添へるから、どんな見事な御用でも出来るのであるぞ。(一月三日)一二十


第八十帖(五九一)
慾が深いから先が見えんのぢゃ。悪神よ、今迄は思ふ通りに、始めの仕組通りにやれたなれど、もう悪の利かん時節が来たのであるから、早う善に立ちかへりて下されよ。善の神まで捲き入れての仕放題、これで不足はもうあるまいぞや。いくら信仰しても借銭なくなる迄は苦しまねばならん。途中でへこたれんやうに、生命がけで信仰せねば借銭なし六ヶ敷いぞ。途中で変る紫陽花(アジサイ)では、御用六ヶ敷いぞ。(一月三日)一二十

 

ひふみ神示 全文

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