超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十六巻「黒鉄の巻」21~30帖

昭和25年1月22日(1950年)~昭和25年10月18日(1950年)

 

第二十一帖(六三九)
身も心も嬉し嬉しなるのがまことの神ぢゃ。ものの嬉しさだけではゼロぢゃ。たまの嬉しさだけでもゼロぢゃ。よく心得なされよ。死後のみ説く宗教はゼロの宗教ぢゃ。迷ふでないぞ。この世で天国に住めんもの、天国に行ける道理ないのぢゃと申してあらう。神は人間の命、人間は神の容れものであると申してあらう。人間の極まるところは神であるぞ。霊人は中間の存在ぞ。人間は神への土台ぞ。この道理判るであらうが。(☉、〇に ・ 。以下同様)は三五七ぞ。三のから三五の。三五七の。(一月二十二日)

 

第二十二帖(六四〇)

顔まで変ってゐるのに未だ氣づかんのか。病気に皆がなってゐるのに未だ氣づかんのか。何事も早い改心結構。自分で自分の心の中は中々につかめんものであらうがな。その中に又心あり、又中に心があるのぢゃ。心は神界ぞ。霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々ぢゃ。うなぎつかみと申してあらうが。ヌラリクラリと掴んだ筈が掴んでないぞえ。掴むには身と魂と一つに和せねばならん。 ・ から愛と智とが生れると申してあらうが。智と愛との和合によって ・ が又生れるのぢゃ。 ・ は喜びであるぞ。 ・ の別の ・ であるぞ。その ・ から又別の愛と智が生れ、又別の ・ が喜びとなり、その喜びの愛と智の喜びと結んで、又喜びの ・ 生れるのぢゃ。神は額から入って顔全体に至り、全身に及ぶものであるぞ。(一月二十二日)

 

第二十三帖(六四一)
何事も体験結構。今の人民の迷信と思ふものの中に正信あるぞ。正信と思ふものの中に迷信多いぞ。理解は正信。神の氣通うたら、その氣を人間にうつす御役、救ひの御役を結構につとめあげて呉れよ。自分の自由にならんことは大き自分が自由にしてゐるのであるぞ。神となれば、神人となれば何事も心のまま。神とは神、大神とは一十(カミヒト)のこと。(一月二十二日)

 

第二十四帖(六四二)

悪とはカゲのことであるぞ。斜めに光を頂くから影出来るのぢゃ。影は主人でないぞ。絶対は何と申しても絶対ぞ。相対から神を求めると、相対の神が顕はれるぞ。相対で神の道に導くこと中々ぢゃ。必ず後戻り、判りはせんぞ。この神示、肚に入ったらグレンと変りて来るぞ。早う肚に入れて下されよ。間に合はん。天の声は内から聞こえて来る。人間の言葉は外から聞こえて来る。霊耳と申すのは内からぞ。耳ふさいでも聞こえて来るのぢゃ。悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ。(一月二十二日)

 

第二十五帖(六四三)
心は草にも木にも石にもあるぞ。天にまたたく星にもあるぞ。ただ薄いか厚いかの相違であるぞ。 ・ の中の ・ に悪は入れんのであるぞ。外の ・ の中に、外の智の中に悪が入るのぢゃ。人間の智の中には悪も善も入るぞ。入るからこそ、これは善ぢゃ、これは悪ぢゃと判るのぢゃ。人間の自由は其処にあるのぢゃ。自由なければ発展ないぞ。弥栄ないぞ。霊を信ずる者は霊と語り、肉を信ずる者は肉と語り得るのぢゃ。人間そのものから湧き出づる喜びは無いぞ。よく心得なされよ。(一月二十二日)

 

第二十六帖(六四四)

神は理屈ではない。理であるぞ。生きた自由自在の、見当とれん、絶対であるぞ。只求めるより他に道ないぞ。親呼ぶ赤児の声で神を求めよ。神に呼びかけよ。総てを投げ出せよ。まかせ切れよ。神は喜びの光となって、そなたに現はれて来るぞ。理屈の信仰に囚はれると邪道。赤児心の理解は第一ぞ。(一月二十二日)

 

第二十七帖(六四五)
神は人間の想念の中に入ってゐるのぢゃ。想念が一致するから神の想念が人間に伝はるのぞ。人間の言葉となって人間に現はれる。言は神であるが人間でもあるぞ。自分が自分に語るのであるぞ。この道理、よく心得なされよ。時まちて起き出て下されよ。恨みの霊は中々にとけんぞ。思ひは能(ハタラ)き、実在と申してあらうが、間違ひでも恨まれると、恨みがまとひつくぞ。心して神を求め、心して幽界からのキ断ちて下されよ。判ったと思うたら天狗ぞ。かへりみるとよくなる仕組。(一月二十二日)

 

第二十八帖(六四六)

喜びにとけ入るから嬉しいのぞ。喜びから遠ざかるから悲しいのぞ。そんなこと分ってゐると申してゐるが、ほんとに身体に分ってゐまいぞ。喜びに入る門は愛からぢゃ。真からじゃ。二道あるなれど愛から入るのが入り易いが、愛からでは誤り易い。生れてすぐ歩けるものでないぞ。始めから何も彼も出来るものでない。氣長に進んで行けよ。内の念と外の念とあるぞ。二つであるぞ。一つであるぞ。三つであるぞ。心大きく、広く天地に放さねば、天地のキを吸ふこと出来んぞ。(一月二十二日)

 

第二十九帖(六四七)
運命は自由自在のものではあるが、又強ひるものでもあるぞ。大きくも、小さくも、薄くも、厚くも、その人の心次第に変るぞ。もとは霊界にあるからぞ。嬉し嬉しで運命を迎へる氣、結構ぞ。この世のことだけで この世のこと動かんぞ。霊界との関係によって、この世が動いてゐる道理判らねばならん。早う神の心に、神意さとれよ。遠慮いらん。何事も天から出て来るのぢゃ。天からとは心からのことぢゃ。(一月二十二日)

 

第三十帖(六四八)

表ばかり見てゐるから判らんのぢゃ。水晶の心なれば三千里先のこともありやか。人民と云ふものは奇跡見ても、病気になっても、中々改心出来んものぢゃ。死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。それは外からのものであるからぢゃ。まことの改心は、中の中の ・ のキいただいて、ほっこんの改心出来ねばならん。死後の生活知らすことはよいなれど、それのみによって改心せよと迫るのは悪のやり方。奇跡を見せ、病気を直してやるのもよいのぢゃが、それのみによって改心を迫ってはならん。それのみで道を説いてはならんぞ。そんなこと位でマコトのホッコンの改心が出来るならば、人間は遠の昔に改心して御座るぞ。今迄のやうな宗教は亡びると申してあらうが。亡びる宗教に致して下さるなよ。(一月二十二日)

 

ひふみ神示 全文

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