超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十七巻「春の巻」31~40帖

昭和27年1月27日(1952年)~昭和27年2月15日(1952年)

 

第三十一帖(六八八)
今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。境遇に不足申すなよ。現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。其処にこそ神の光、よろこび現れるのぢゃ。逃げ道つくれば迷ひの道に入るぞ。楽に得たもの、楽に失う。

 

第三十二帖(六八九)

信仰の始めは感情に支配されがちぢゃ。理智を強く働かせねばならんぞ。人間は絶えずけがれてくる。けがれは清めることによって、あらたまる。厄祓ひせよ。福祓ひせよ。想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。中の霊は天国へ行っても、外の霊はこの世に残るぞ。残ることあるぞ。残ってこの世の事物にうつって同じこと、所業をくりかへすことあるぞ。早く洗濯せよと申してあろうがな。梅の実から梅が生へるのぢゃ。その梅に実出来て又梅が生へるのぢゃ。人間も生れかわっても死にかわっても、中々に悪いくせは直らんもんぢゃぞ。それを少しづつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのぢゃぞ。宗教は霊、芸術は体ぞ。(二月一日、ひつく神)

 

第三十三帖(六九〇)
新玉の 真珠の波も 草も木も 春立ちそめて よみかへりけり。

今の科学は科学のことは判るが、それより上のことは判らん。今の科学はあるものがあると云ふことだけしか判らんのぢゃ。よい求めにはよい感応、よい感応によい働き、よい理解となり、よい生活 生れる。間違った求めには間違った神、間違った生活 生れるぞ。道理ぢゃナア。窮屈であってはならん。しかつめらしく固くなってゐてはならんぞ。笑ひの道、喜びの道にこそ神のハタラキあるのぢゃ。宿命は宿されたもの。一つのワクに入ってゐるのであるぞ。運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。磨け磨け、ミタマ磨き結構。信念だけでは行き詰るぞ。

 

第三十四帖(六九一)

自分は自分の意志で生れたのではないのぢゃ。その時、その環境を無視出来ん。その法則に従はねばならん。草を拝めば草が神となり、機械拝めば機械が神ぢゃ。食物拝めば食物が神となる。心せよ。神は人民を根本から永遠の意味でよくしようと、マコトの喜び与へようとしてゐるのぢゃ。局都的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ。おかげは、すぐにはないものと思へ。すぐのおかげは下級霊。まゆにつばせよ、考へよ。現在の環境を甘受せよと申してあるが、甘受だけでは足らん。それに感謝せよ。積極的に感謝し、天地の恩に報じねばならん。誠の真理を知らぬ人間に神は判らん。

 

第三十五帖(六九二)
念じつつやれ。神の為と念じつつやれば神のためとなる。小さい行為でも霊的には大きはたらきするのぢゃ。自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。行き止まるのぢゃ。われよしとなるのぢゃ。調和が神の現れであるぞ。霊と調和せよ。肉体と調和せよ。人と調和せよ。食物、住居と調和せよ。世界と調和せよ。うれしうれしぞ。一生かかってもよいぞ。おそくないのぢゃ。自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。悪いくせ直さねばならん。これが第一歩、土台ぢゃぞよ。

よきことは 人にゆづりて 人をほめ 人たてるこそ 人の人なる。

敬愛の まこと心に まことのり まこと行ふ 人ぞ人なる。

(春立つ日、ひつく神)

 

第三十六帖(六九三)

何事に向っても先づ感謝せよ。ありがたいと思へ。始はマネごとでもよいぞ。結構と思へ。幸と思へ。そこに神の力 加はるぞ。道は感謝からぞ。不足申せば不足うつるぞ。心のままとくどう申してあろうが。病気でないと思へ。弥栄と思へ。病治るモト生れるぞ。キがもとぞ。何事くるとも何クソと思へ。神の力 加はるぞ。おそれはおそれ生むぞと申してあろうが。一聞いて十さとらねばならんぞ。今の人民には何事も平面的に説かねば判らんし、平面的では立体のこと、次元の違ふことは判らんし、ハラでさとりて下されよと申してあろう。

 

第三十七帖(六九四)
相手八と出たら二と受けよ。人民と申すものはモノに囚われるから何事も判らんから、十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとして判らんことになるぞ。十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ。又十二と受けるテもあるぞ。二十と出たら八十と和せよ。立体になれば それだけ自由になるのざ。世界広くなるのぞ。早う立体さとりくれよ。

 

第三十八帖(六九五)
の次に(16方放射線)があり、その次に(8方放射線)があり、(4方放射線)あると申してあろう。立体から複立体、複々立体、立立体と申してあろうが。×と÷と和せば⋇(の左右の・・をーでつないで上書きした感じ)となるぞ。複立体であるぞ。(16方放射線)が複々立体、が立立体ぞ。(☉、〇に・。以下同様)がその元であるぞ。判りたか。となれば超自由、超自在、超無限ぞ。それだけに又超完成であるぞ。超未完成でもあるぞ。神は全智全能から超全智全能に弥栄してゐるぞ。六ヶ敷いようなれど、このことよく判りて下されよ。新しき段階に入る門ぞ。

 

第三十九帖(六九六)
道は三つと申してあろう。三とは参であるぞ。3(スリー)でないぞと申してあろう。無限であるぞ。平面的に申せば右と左とだけでないぞ。その右の外に、又 左の外に道でなき道あるぞ。それを善の外道、悪の外道と申す。外道多いのう。中の中には中の道あるぞ。中の中の は無であるから動きないぞ。動きないから無限の動きぢゃ。その の外の中は人民にも動きみゆるぞ。この道は中ゆく道ざと申してあろうが、中の の道は太神の道、中行く道が神の道、中の道が人の道ぢゃ。判りたか。

 

第四十帖(六九七)

思想と申すのは広い意味で、太神から出てゐるのではあるが、幽界からの力が強く加わってゐるのぢゃ。ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。悪の気、断たねばネンとはならんぞ。

 

ひふみ神示 全文

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