超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十七巻「春の巻」41~50帖

昭和27年1月27日(1952年) 至 : 昭和27年2月15日(1952年)

 

第四十一帖(六九八)
天には天の道、地には地の道、人民には人民の道あると申してあろう。同じ道であるが違ふのぞ。地にうつし、人民にうつす時は、地の約束、人民の約束に従ふのぞ。約束は神でも破れんのであるぞ。次元違ふのであるから違ってくるぞ。違ふのが真実であるぞ。それを同じに説いたのが悪の教。同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ。上から来るものは光となって流れてくるのざ。光に本来影はないのであるが、動くから影がうまれる。それを影でない影と申すぞ。悪でない悪あると申してあろうがな。天には天の自由、地には地の自由、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、それぞれの自由あるぞ。その性の高さ、清さ、大きさなどによって、それぞれの制限された自由あるぞ。自由あればこそ動くぞ。自由とは弥栄のこと。光は神から人民に与へられてゐる。光に向かふから照らされる。光は 、真、善、美、愛となり、又そのうらの〇、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。御用の善となり、御用の悪となる。悪にくむは外道の善、外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凸凹にうつり、それが再び霊界にうつる。それが幽界と申してあらう。その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのざ。善にも外道あるぞ。心得よ。光は天のみでなく、地からも人民からも、すべて生命あるものから出てゐるのであるが、その喜びの度に正比例してのものであるから、小さい生命からの光は判らんのであるぞ。

 

第四十二帖(六九九)

いくさは善にもあり、悪にもあり、右には右の、左には左の、上には上の、下には下の、中には中の、外には外のいくさあるぞ。新しき御代が到来しても いくさはなくならん。いくさも歩みぞ。弥栄ぞ。ぢゃと申して今のような外道のいくさでないぞ。人殺し、生命殺すようないくさは外道。やればやる程はげしくなるぞ。正道のいくさは人を生かすいくさ、やればやるほど進むのぢゃ。今の人民いくさと申せば、人の殺し合ひと早合点するが、それは外道のいくさ。天国へのいくさもあるぞ。幽界へのいくさもあるぞ。人民の云ふ今のいくさ、今の武器は、人殺す外道の道、それではならんのう。外道なくして下されよ。外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。新しき霊界は神人(カミヒト)共でつくり出されるのざ。それは大いなる喜びであるからぞ。神のみ旨であるからぞ。新しき世はあけてゐるぞ。夜明ければヤミはなくなるぞ。新しきカタはこの中からぞ。日本からぞ。日本よくならねば世界はよくならん。外道の武器すてよ。外道の武器生かして、活かして、いのちを生かす弥栄の武器とせよ。かへられるでないか。

 

第四十三帖(七〇〇)
与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。戦争か平和かと人民申してゐるなれど、道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。神示よく読めば示してあるのであるぞ。ほかに道ないと きめてかかるから判らんのざ。生れ赤児になれば判るぞ。知らしてやりたいなれど、知らして判るのでは自分のものとならん。自分が体得し、自分から湧き出ねば自分のものでないぞ。つけ焼刃は危ない、危ない。気狂ひに刃物ぞ。平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな。神人共にとけ合ふことぞ。外道でない善と悪ととけ合ふのぞ。善のみで善ならず。悪のみで悪ならず。外道は夜明けくれば消えて了ふぞ。夜明けの御用大切と申してあろうが。外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ。

 

第四十四帖(七〇一)

念入れかへるぞ。念入れかへるとは、新しき霊界つくることぞ。新しき霊界つくるとは、太神の真中にとけ入ることぞ。

 

第四十五帖(七〇二)
一時は人民なくなるところまで行くと申してあらうが。人民なくしても人民なくならん。洗濯して掃除して、新しき道 早う進めよ。おそくなる程 六ヶ敷く苦しくなるぞ。近目で見るから判らん。日本の、世界あけたり。あな爽々(スガスガ)し、日本晴れぞ。二二(フジ)は晴れたりとは、真理の世に出づことぞ。天のこと地にうつすときは、地の力出るように、地の息吹き通ふように、弥栄するように、念を地の力と現はれるように、正しくうつして下されよ。邪気入ってはならん。

 

第四十六帖(七〇三)

今の武器は幽界の裏打ちあるぞ。神界の裏打ちある武器でなくてはならん。まことの武器ぞ。ヒックリであるぞ。念からつくり出せよ。その念のもとをつくれば、神から力を与へるから、この世の力と現はれるぞ。念の凸凹から出た幽界を抱き参らさねばならんのざ。中々の御苦労であるなれど、幽界を神界の一部に、力にまで引きよせねばならん。

 

第四十七帖(七〇四)
念が新しき武器であるぞ。それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど。ものごとには順と時あるぞ。もとのキから改めて下されよ。尊き御役。

 

第四十八帖(七〇五)

念なりと、今の人民申す思想はマコトの念でないぞ。思想は思想ぞ。念とは力であるぞ。実在であるぞ。喜びであるぞ。喜びは神ぞ。弥栄。(二月十二日、ひつく神)

 

第四十九帖(七〇六)
これぞと思ふ人があったら、その理(ミチ)の人について御座れよ。一寸先見へん人民ぢゃ。先達の後からついて御座れ。それが一番よいことぢゃ。人、見出すこと六ヶ敷いのう。十年、二十年行じても、目あて違ってゐたら何にもならんぞ。このほうの道へ御座れ。正しき光の道によれよ。十日で、一月で見ちがへる程になるぞ。死んだ気で神示(フデ)をそなたの身にうつせよ。涙流せよ、汗流せ、血流せよ。天災や地変は大き肉体の応急処置の現れであるぞ。部分的に、人間苦しめる様に思ふてはならん。一日一度は便所へ行かなならんであろうがな。人間、この世の五十年をもととして考へるから判らなくなるのざ。永遠弥栄の生命、早う体得結構。

 

第五十帖(七〇七)

その人によってふさわしい行がある。誰でも同じでない。一合食べる人もあれば一升食べる人もあるぞ。身につかんもの、身につかん行は、いくらしても何もならん。いらん苦労はいらんと申してあろう。風呂には時々入るが、魂の風呂に行く人 少ないぞ。より高い聖所へ参りて魂のアカ落せよ。神示よんで落して下されよ。アカ落さずに神の光見えんと申して、おかげないと、われよし申して御座るなれど、風呂に入らずに、アカつくとは怪しからんと申すのと同じでないか。何故に判らんのぢゃ。全体の為 奉仕するはよいが、自分すてて全体なく、自分ないぞ。全体を生かし、全体と共に部分の自分が弥栄えるのであるぞ。早合点 禁物。

 

ひふみ神示 全文

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