超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十七巻「春の巻」21~30帖

昭和27年1月27日(1952年) ~昭和27年2月15日(1952年)


第二十一帖(六七八)

太一二㊉(〇に十、オーヒツキ)大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。無限であるぞ。このほう一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神(ハンシン)ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ。始めから全体を掴もうとしても、それは無理と申すもの。手でも足でもよい、何処でもよいから掴める所からつかんで御座れよ。だんだん判ってくるぞ。全体をつかむには全体と同じにならねばならん。その人民々々のつかめるところから掴んで参れよ。このほう抱き参らせてやるぞ。マツリから出直せよ。天地見よ。大きマツリ致して居らうがな。霊と肉のまつり第一。頭とハラのまつり結構。二二のマツリ、出船の港ぢゃ。奥から来るものは喜びぢゃ。念ぢゃ。力のもとぢゃ。生きの生命ぢゃ。神様にはハラを向けなさい。

 

第二十二帖(六七九)

宇宙の総てはこの神の現れであり、一面であるから、その何処つかんで拝んでもよいのである。その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。水の流れも宗教ぞと申してあらう。総てに神の息、通ふているぞ。一本の箸 拝んでもよいのぢゃが、ちゃんとめあて、よいめあて、きめねばならん。内の自分に火つけよ。心くらくては何も判らん。世の中は暗う見えるであろう。真暗に見えたら自分の心に光ないのぢゃ。心せよ。自分光れば世の中明るいぞ。より上のものから流れてくるものにまつりて行くこと大切ぢゃ。それがまつりの元。それが宗教ぢゃ。宗教は生活ぢゃ。生活は宗教ぢゃ。裏と表ぢゃ。

 

第二十三帖(六八〇)
順と区別さへ心得て居れば、何様を拝んでもよいと申してあろうが。日の神様ばかりに囚われると判らんことになるぞ。氣付けおくぞ。それでは理(ミチ)にならん。父だけ拝んで母拝まんのは親不孝ぞ。おかげないぞ。おかげあったらヨコシマのおかげと心得よ。手だけ尊んではいかん。足だけ尊んでもいかん。一切に向って感謝せよと申してあろうが。門もくぐらず玄関も通らずに奥座敷には行かれん道理。順序を馬鹿にしてはならんぞ。いつ迄門に立っていても何もならん、お出直しぢゃ。川がなければ水流れん道理。始はカタふんで行かなならんぞ。(ひつくの神二月三日)

 

第二十四帖(六八一)

自分すてて他力なし。人民なくて此の世の仕事出来ん。人民は道具ぢゃ。神は心ぢゃ、元ぢゃ、元だけではならん。道具だけでならん。大神は一切を幸し、一切を救ひ給ふのであるぞ。一切が神であり一切が喜びであるぞ。その人民にメグリなくしてもメグリ負ふことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり試練であるぞ。判りたか。愛するものほど、その度が濃い程、魂が入っているのぢゃ。先祖が大切していたものは大切せねばならんぞ。現界のみの理屈は通らんぞ。飛んだ目に会ふぞ。氣つけおくぞ。念じてから行へ。

 

第二十五帖(六八二)
局部的に見るから判らんのぢゃ。文字書くのは心であるが、心は見えん、手が見へるのぢゃ。手見るはまだよい方ぢゃ。筆の先だけしか見えん。筆が文字書いていると申すのが、今の人民の考へ方ぢゃ。筆が一番偉いと思ふて御座るのぢゃ。信仰に入った始はよいが、途中から判らなくなるのぢゃ。そこが大切ぞ。判らなくなったら神示(フデ)よめよ。キ頂いてよみかへるぞ。出足の港は二二の理(ミチ)からぢゃと申してあろう。真理と申してあろう。これが乱れると世が乱れるぞ。神界の乱れイロからぢゃと申してあろう。男女の道 正されん限り、世界はちっともよくはならんぞ。今の世のさま見て、早う改心、結構いたしくれよ。和は力ぞ。

 

第二十六帖(六八三)

神にまかせきると申しても、それは自分で最善をつくして後のことぢゃ。努力なしにまかせるのは悪まかせぢゃ。悪おまかせ多いのう。魂の財産は金を得るより数倍六ヶ敷いぞ。ぬれ手で粟のやり方、カスつかむぞ。むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、くやしくなったりするのは、まだめぐりあるからぢゃ。めぐりの霊界との因縁が切れて居らぬからぢゃ。愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。築き上げねばならんぞ。生み出すのぢゃ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。左には宗教、右には芸術。

 

第二十七帖(六八四)
八合目あたりに参ると総ての様子が、ほぼ見当つくぞ。それ迄は誰でもよくわからんもんぢゃ。これと云う先達があったら、先達の云うこと、云う通りについて行けよ。おかしい先達は始めからおかしいぞ。苦労し、手をかけ、金かけるほどよいもの出来るぞ。信念越えて自分より上のものにまかせきったのが理解であるぞ。信念だけでは何事も出来ん。確信は理解からぞ。

 

第二十八帖(六八五)
親子、夫婦、兄弟姉妹と生れても逆縁あるぞ。カタキ同士 結ばれることあるぞ。それは神の大き恵みぞ。それに打ちかって、新しき生命うみ出してつかへまつれ。体験ないところに宗教はない。

 

第二十九帖(六八六)
神から出るものは理(リ)にきまってゐるぞ。この平凡の理(ミチ)の道理が何故に判らんのぢゃ。得心出来んのぢゃ。それに従へばこそ向上、弥栄するのぢゃ。天狗ざから、慢心するから、理がなくなるから行き詰るのぢゃ。一応は世界一家のカタ出来るのぢゃ。が、それではならん。それを越えて、ねり直してマコトの一家となるのぢゃ。天が上で地が下で、中に あるのぢゃ。それがミロクの世ぢゃ。氣長にやれと申してあろう。長い苦心なければ よいもの出来ん。この世で出来終らねば、あの世までもちつづけても やりつづけてもよいのぢゃ。そなた達はあまりにも氣が短いぞ。それではならんのう。マコトの生活は永遠性もってゐるぞ。これないものは宗道でないぞ。

 

第三十帖(六八七)

宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分 大きく、明るくなるのぢゃ。豊かにうれしうれしぢゃ。赤いものの中にゐると赤くなって行く。理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の氣いただくぞ。神の光がいただけるのぢゃ。二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。神は解らん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。

 

ひふみ神示 全文

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