超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十九巻「秋の巻」11~20帖

昭和27年4月11日(1952年)

 

第十一帖(七五二)
親と子は、生むと生まれるとの相違出来てくるぞ。又上の子と下の子と、左の子と右の子とは違ふのであるぞ。違へばこそ存在する。

 

第十二帖(七五三)
神について御座れよ。理屈申さず、ついて御座れよ。地獄ないと申してあろう。人は神の喜びの子と申してあらう。人の本性は神であるぞ。神なればこそ天国へ自づから行くのぢゃ。住むのぢゃ。

 

第十三帖(七五四)
人民、うそが上手になったから中々油断ならんぞ。下々の神さまも、うそ上手になったなぁ。善ぢゃ悪ぢゃと申してゐるが、人民の善はそのまま霊人の善でないぞ。そのまま霊人の悪でないぞ。心して呉れ。

 

第十四帖(七五五)

グッとしめたり、ゆるめたりして呼吸しなければならん。其処に政治のうごきあるぞ。経済の根本あるぞ。逆にしめる事もあるぞ。善と申し悪の御用と申すことの動き、そこから出るのぢゃ。じっとしてゐてはならん。ジッとしてゐる善は善でないぞ。

 

第十五帖(七五六)
何程 世界の為ぢゃ、人類の為ぢゃと申しても、その心が、我が強いから、一方しか見えんから、世界のためにならん。人類の為にならんぞ。洗濯ぢゃ洗濯ぢゃ。自分が生んだもの、自分から湧き出るものは、いくら他に与へてもなくならんぞ。与へよ、与へよ、与へてなくなるものは自分のものでないと申してあろう。無くなると思ふのは形のみ見てゐるからぢゃ。カラのみ見るからぢゃぞ。本質は無限に拡がるぞ。与へる程よりよく、神から与へられるぞ。井戸の水のようなもんぢゃ。汲めば汲むほどよくなる仕組。

 

第十六帖(七五七)

統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点の・でくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのでないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向かうことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等悪平等。一色であってはならんのう。下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。幾度も幾度も上下にひっくりかへり、又ひっくりかへりビックリぢゃ。ビックリこねまわしぢゃ。

 

第十七帖(七五八)
神示が一度で判る人民にはミタマシズメやカミシズメやカミカカリはいらん。判らんからやらしてゐるのぢゃ。やらせねば判らんし、やらすとわき道におちゐるし、いやはや困ったもんぢゃのう。

 

第十八帖(七五九)
人民は神のへそとつながってゐるのであるぞ。へその緒さへつながって居ればよく、神人であるぞ。・と・とつながって更に大き・につながってゐるからこそ動きあり、それぞれのハタラキあり、使命を果たし得るのであるぞ。同じであって全部が合一しては力出ないのであるぞ。早う心いれかへと申してあるが、心とは外の心であるぞ。心の中の中の中の心の中には・が植付けてあるなれど、外がまっくらぢゃ。今迄のやり方では行けんこと判りて居らうがな。いらんものは早うすてて了へよ。直々の大神様は二(ツキ)の大神様なり。

 

第十九帖(七六〇)

中今(ナカイマ)と申すことは、・今と申すこと。・は無であるぞ。動きなき動きであるぞ。そのことよくわきまへよ。今迄のこと、やり方かえねばならん。一段も二段も三段も上の広い深い、ゆとりのあるやり方に、神のやり方に、規則のない世に、考へ方、やり方、結構であるぞ。

 

第二十帖(七六一)
科学に・入れると宗教となるのぢゃ。・は数。カネは掘り出せん。生み出してくれよ。

 

ひふみ神示 全文

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