超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 第二十九巻「秋の巻」1~10帖

昭和27年4月11日(1952年)

 

第一帖(七四二)
同じ神の子でも本家と分家とあるぞ。本家は人間ぢゃ。分家は動植物ぢゃ。本家と分家は神の前では同じであるが、位置をかへると同じでないぞ。三十年で世の立替いたすぞ。これからは一日ましに世界から出て来るから、如何に強情な人民でも往生いたすぞ。神は喜びであるから、人の心から悪を取り除かねば神に通じないぞと教へてゐるが、それは段階の低い教であるぞ。大道でないぞ。理屈のつくり出した神であるぞ。大神は大歓喜であるから悪をも抱き参らせてゐるのであるぞ。抱き参らす人の心に、マコトの不動の天国くるぞ。抱き参らせば悪は悪ならずと申してあろうが。今迄の教は今迄の教。

 

第二帖(七四三)
人民は土でつくったと申せば、総てを土でこねてつくり上げたものと思ふから、神と人民とに分れて他人行儀になるのぞ。神のよろこびで土をつくり、それを肉体のカタとし、神の歓喜を魂としてそれにうつして、神の中に人民をイキさしてゐるのであるぞ。取り違ひせんように致しくれよ。親と子と申してあろう。木の股や土から生れたのではマコトの親子ではないぞ。世界の九分九分九厘であるぞ。あるにあられん、さしも押しも出来んことがいよいよ近うなったぞ。外は外にあり、内は内にあり、外は内を悪と見、内は外を悪として考へるのであるが、それは善と悪でないぞ。内と外であるぞ。外には外のよろこび、内には内のよろこびあるぞ。二つが和して一となるぞ。一が始めぞ、元ぞ。和して動き、動いて和せよ。悪を悪と見るのが悪。

 

第三帖(七四四)

霊界での現れは同じであっても、現実界に現れる時は違ふことあるぞ。それはモノが異なるからぞ。二二はもとのキぞ。ナルトとはその現れのはたらき。

 

第四帖(七四五)
道徳、倫理、法律は何れも人民のつくったもの。本質的には生れ出た神の息吹きによらねばならん。神も世界も人民も何れも生長しつつあるのざ。何時までも同じであってはならん。三千年一切りぢゃ。今迄の考へ方を変へよと申してあらう。道徳を向上させよ。倫理を新しくせよ。法律を少なくせよ。何れも一段づつ上げねばならん。今迄のやり方、間違ってゐたこと判ったであらう。一足飛びには行かんなれど、一歩々々上って行かなならんぞ。ぢゃと申して土台をすててはならん。土台の上に建物たてるのぢゃ。空中楼閣 見て居れん。

 

第五帖(七四六)
へその緒はつながってゐるのであるから、一段奥のへそえへそえと進んで行けば、其処に新しき広い世界、大きくひらけるのであるぞ。自分なくするのではなく高く深くするのであるぞ。無我でないぞ。判りたか。海の底にはキンはいくらでもあるぞ。幽界と霊線つなぐと自己愛となり、天国と霊線つなげば真愛と現れるぞ。よろこびも二つあるぞ。三つあるぞ。大歓喜は一つなれど、次の段階では二つとなるのであるぞ。

 

第六帖(七四七)
他を愛するは真愛ぞ。己のみ愛するのは自己愛ぞ。自己愛を排してはならん。自己愛をひろげて、大きくして真愛と合致させねばならん。そこに新しき理(ミチ)ひらけるのであるぞ。自己愛を悪魔ととくは悪魔ぞ。無き悪魔つくり、生み出すでないぞ。一段昇らねば判らん。

 

第七帖(七四八)

公のことに働くことが己のため働くこと。大の動きなすために小の動きを為し、小の動きなすために個の動きなすのであるぞ。・に・あり、又・あると申してあるぞ。

 

第八帖(七四九)
何事もよろこびからぞ。結果から又よろこび生れるぞ。この道理わかれば何事もありやか。

 

第九帖(七五〇)
みろくの世となれば世界の国々がそれぞれ独立の、独自のものとなるのであるぞ。ぢゃが皆それぞれの国は一つのへそで、大き一つのへそにつながってゐるのであるぞ。地上天国は一国であり、一家であるが、それぞれの、又自づから異なる小天国が出来、民族の独立性もあるぞ。一色にぬりつぶすような一家となると思ふてゐるが、人間のあさはかな考へ方ぞ。考へ違ひぞ。この根本を直さねばならん。霊界の通りになるのぢゃ。

 

第十帖(七五一)
外の喜びはその喜びによって悪をまし、内の喜びはその喜びによって善をますなれど、マコトの喜びは外内と一つになり、二つになり、三つになった喜びとならねば、弥栄ないぞ。

 

ひふみ神示 全文

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