超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 補巻「月光の巻」1~10帖

昭和30年12月25日(1955年) ~昭和30年12月31日(1955年)

 

第一帖(七八八)
なりなりて なりあまれるところもて、なりなりて なりあはざるところをふさぎて、くにうみせなならんぞ。このよのくにうみは一つおもて(面)でしなければならん。みとのまぐはひでなくてはならんのに、おもてを一つにしてゐないではないか。それでは、こんどのことは、じょうじゅせんのであるぞ。

 

第二帖(七八九)

きすうときすうをあはしても、ぐうすう、ぐうすうとぐうすうをあはしてもぐうすうであることをわすれてはならんぞ。きすうとぐうすうをあはしてはじめて、あたらしき、きすうがうまれるのであるぞ。こんどのいわとひらきには ひるこうむでないぞ。あはしまうむでないぞ。

 

第三帖(七九〇)
こんどは、八のくまではたらん。十のくま、十のかみをうまねばならんぞ。そのほかに、かくれた二つのかみ、二つのくまをうみて、そだてねばならんことになるぞ。

 

第四帖(七九一)
あめのみなかぬしのかみのそのまへに、あめゆづる日あめのさぎりのみこと。くにゆづる月、地のさぎりのみことあるぞ。(〇の中に・、以下同様)のであるぞ。その前にあることわするるなよ。

 

第五帖(七九二)
十くさ、十二くさのかむたから、おきつかがみ、へつかがみ、八つかのつるぎ、九つかのつるぎ、十つかのつるぎ、いくたま、まがるかへしのたま、たるたま、ちかへしのたま、おろちのひれ、はちのひれ、くさくさのひれ、であるぞ。む、ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、たり、う、であるぞ。う、たり、ここ、や、なな、む、いつ、よ、み、ふた、ひと、む、であるぞ。となへよ。のりあげよ。

 

第六帖(七九三)
あまてらすおほかみは、たかあまのはらをしらすべし。また、たかあまのはらをしらすべし、また、たかあまはらをしらすべし、つきよみのおほかみは、あまてらすおほかみとともに、あめのことをしらすべし。また、あほうなはら しほのやほへをしらすべし。また、よるのおすくにをしらすべし。すさなおのおほかみは、あほうなのはらをしらすべし、また、あほうなはらをしらすべし。また、あまがしたをしらすべし。

 

第七帖(七九四)

大奥山は神人交流の道の場である。道は口で説くものではない。行ずるものである。教は説かねばならない。多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神裁ぢゃ。神裁とは神人交流によることぞ。(十二月二十五日)
神はうそつきぢゃと人民申しても、悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、こらえられるだけこらえてゐるのである。もう、ものばかりでは治まらんこと、キンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、気の毒が来ぬ前に改心結構。遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理屈すてて神にほれ参らせよ。よくこの神をだましてくれたぞ、この神がだまされたればこそ、太神の目的なってくるのぢゃ。細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。
区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。霊かかりもやめて下されよ。
人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。科学を更に浄化弥栄させねばならん。
空間、時間が霊界にないのではない。その標準が違うから無いと考えてよいのである。
奥山は奥山と申してあろう。いろいろな団体をつくってもよいが、何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。
奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。大き一つではあるが別々ぞ。今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、これが判らねば この度の大神業、判りはせんぞ。

 

※ 例えば・・・古代ギリシャでは籤引きで執政官を決めたりしています。

 選挙で金と時間を持つ者が宣伝、買収、不正工作などすると

 間違った意見の多数決になりがちですが、籤引きならそれは避けられる。

 イカサマを排除できれば神意を反映できるかも。

 

 あるいは巫女首長による「占い」などに戻れた方が望ましいのかも。

 何も言い当てられないようなイカサマ師をテロ政権が押し付ける

 ような事がなければよいわけですが。

 

第八帖(七九五)
神の御用は、神のみことのままでなくては成就せん。皆々釈迦ぞ、キリストぞ。もっと大き計画もちて御座れ。着手は出来る処からぞ。つかめる所から神をつかめよ。部分からつくり上げなされよ。
我出してはならん。そなたはそれでいつもしくじってゐるでないか。天狗ではならん。
心出来たら足場固めねばならん。神の足場は人ぢゃ。三千の足場、五千の足場。

 

第九帖(七九六)

氣の合う者のみの和は和ではない。色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、一つ家族でないか。心得なされよ。
夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。
判らんことが更に判らなくなるぞ。ききたいことは何でもきけよ。大グレ目の前。アホになれよ。一先づは月の代となるぞ。ひっくり返り、ビックリぢゃ。

 

第十帖(七九七)
一はいくら集めても一ぢゃ。二も三も四も五も同様ぞ。〇にかえり、〇によって結ばれるのぢゃ。〇がムスビぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。