超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 補巻「月光の巻」11~20帖

昭和30年12月31日(1955年)

 

第十一帖(七九八)
病むことは神から白紙の手紙を頂いたのぢゃと知らしてあろう。心して読めよ。ありがたき神からの手紙ぞ。おろそかならん。
腹八分、二分は先づささげよ。運ひらけるぞ。病治るぞ。

 

第十二帖(七九九)
逃げ道つくってから追わねばならん。そなたは相手の逃げ道をふさいでギュウギュウ追ひつめるから逆うらみされるのぢゃ。逆うらみでも恨みは恨みの霊団をつくり出すぞ。
悪を抱けよ。消化せよ。浄化せよ。何も彼も太神の許し給えるものなるが故に存在する。
そなたは神にこり固まってゐるぞ。こり固まると動きのとれんことになる。一度そなたのもつ神をすてるとよいぞ。すてると掴めるぞ。

 

第十三帖(八〇〇)

木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理。数字にも文字にも それぞれの霊が宿って居り、それぞれの能(ハタラキ)をしてゐるのであるぞ。順序が判れば初段、和に徹すれば名人。

 

第十四帖(八〇一)
流れ出たものは又元にかえると申しても、そのままでは帰られんのであるぞ。天から降った雨が又天に昇るには、形をかえるであろうが、この道理をわきまえんと、悪かみかかりとなるぞ。
それはそなたの自己慾から出てゐるぞ。自己慾もなくてはならんが、段々浄化して行かねばならん。浄化して大き自己の慾とせよ。自分のみの慾となるから弥栄えんのぢゃ。弥栄えんもの神の御心に逆行。
自分で判断出来ることを何故にきくのぢゃ。神にきけば神に責任をきせるのと同様ぞ。人間の悪いくせぞ。出直せよ。

 

第十五帖(八〇二)

与えることは頂くことぢゃと申しても、度をすぎてはならん。過ぎると、過ぎるものが生れて、生んだそなたに迫って来るぞ。

 

第十六帖(八〇三)
五十九柱と申してあるが、その中の九柱はかくれた柱ぢゃ。㋳㋑㋴㋓㋵㋻㋼㋽㋾(〇の中にヤ、〇の中にィ、同様にユ、エ、ヨ、ワ、井、ヱ、ヲ)ぞ。㊀㊁㊂㊃㊄㊅㊆㊇㊈(〇の中に一、同様に二、三、四、五、六、七、八、九)ぞ。この九柱は〇ぞ。心得なされよ。現われの五十柱のかげの、かくれた九柱、心して大切申せよ。
真直ぐに真上に神をいただくと申すことは、上ばかりではないぞ。真下にも横にも前後にも立体三六〇度に真直ぐに神を頂かねばならんと云うことぞ。神人交流の第一歩。

 

第十七帖(八〇四)
そなたの仕事、思いつき結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん。神と申しても、そなたが勝手にきめた神や宗教で固めた制限された神ではないぞ。判っただけでは駄目ぞ。行じねばならん。生活しなければならん。芸術しなければならん。

 

第十八帖(八〇五)

現実的には不合理であっても、不合理にならぬ道をひらくのが、霊現交流の道であり、立体弥栄の道、行き詰りのない道、新しき世界への道である。平面のみではどうにもならない時となってゐるのに、何して御座るのか。黒船にびっくりしては間に合わん。

 

第十九帖(八〇六)

釈迦、キリスト、マホメット、其の他、世界の生命ある教祖及びその指導神を、み光の大神様とたたえまつれと申してあろが。♀☉Ф㊉(〇の下に|つき、〇の中に・、☉(〇の中に・)の下に | つき、〇の中に十)大神様の一つの現はれぞと申してあろうが。何故にみ光の大神様として斎きまつらんのぢゃ。宗教せぬのぢゃ。其処にひかり教会としての力が出ないのぢゃ。人民のうきせになやむを救うのはオホカムツミの神であるぞ。この能(ハタラキ)の神名わすれてはならん。このほうはオホカムツミの神とも現われるぞと知らしてあること忘れたのか。

 

第二十帖(八〇七)
大奥山と教会とをまぜこぜしてはならん。教会や其の他の集団は現われ、大奥山はかくれぢゃ。大奥山はこの度の大御神業にゆかりのある神と人とを引きよせてねり直し、御用に使う仕組。みて御座れ、人民には見当とれんことになるぞ。

 

ひふみ神示 全文

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/10/13/235029