超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

ひふみ神示 補巻「月光の巻」41~50帖

昭和33年2月10日(1958年) ~昭和34年3月3日(1959年)

 

第四十一帖(八二八)

そなたはいつも深刻な顔をして考へ込んでゐるが、考へ方にも幾通りも御座るぞ。考へは迷ひと申してあるのは、そなたのような場合ぞ。そなたは苦に向ひ苦にかったつもりで、苦を楽しんで御座るが、苦は曲ることぞと知らしてあろうが。苦をつくり出してはならんぞ。苦を楽しむより、楽をたのしむ心高いぞと知らしてあろう。苦しむと曲り、楽しむとのびるぞ。二月十日。

 

第四十二帖(八二九)
未来にもえることが現在に生きることであるぞ。そなたは現在に生きる努力が足らん。夢ばかり追ってゐてはうたかたぢゃ。そなたは先祖に対する考へ方が間違ってゐるぞ。先祖はそなたではないか。地下にあるそなたの根が先祖でないか。根のない草木はすぐ枯れる道理ぢゃ。先祖は家をついだ兄がまつってゐるから、分家した自分は先祖はまつらいでもよいのぢゃと申して御座るなれど、よく考へて下されよ。根から芽が出て幹となり枝が栄えてゐるのと同様ぞ。枝には根はいらんと申すのと同じような間違ひであるぞ。分家しても先祖まつらねばならん。先祖をおろそかにするでないと、気付けてあるでないか。

 

第四十三帖(八三〇)
そなたはまだ方便をつかってゐるが、方便の世はすんでゐるのぞ。方便の教とは横の教、いろはの教、平面の教のことぞ。仏教もキリスト教も回教もみな方便でないか、教はみな方便ぢゃ。教ではどうにもならん。ぎりぎりの世となってゐるのぞ。理(ミチ)でなくてはならん。変らぬ太道でなくてはならんぞ、方便の世はすんでほうべんの世となり、そのほうべんの世もやがて終るぞと知らしてあろうが。理とは三界を貫く道のことぞ。字宙にみちみつ のあり方ぞ。法則ぞ。秩序ぞ。神の息吹きぞ。弥栄ぞ。喜びぞ。判りたか。

 

第四十四帖(八三一)
この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ。そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないそ。実行せねばならん。地上人は物としての行動をしなければならんぞ。口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか。

 

第四十五帖(八三二)

マコトに祈れと申してあろう。マコトとは〇(マ)123456789(コ)10(ト)のことと申してあろう。只心でゐのるばかりでは、自分で自分をだますこととなるのぢゃ。自分をいつわることは神をいつわることとなるのぢゃ。マコトでゐのれば何事もスラリスラリとかなふ結構な世ぞ。

 

第四十六帖(八三三)
考えてゐては何も成就せんぞ。神界と交流し、神界に生き、神界と共に弥栄すればよいのぢゃ。人間だけの現実界だけで処理しようとするのが今迄の考えぢゃ。今迄の考えでは人間の迷ひぞと申してあろうがな。迷ひを払って真実に生きよ。みたましづめぢゃ。加実しづめぢゃ。そなたは信仰のありかたを知らんぞ。長い目で永遠の立場からの幸が、歓喜がおかげであるぞ。局部的一時的には いやなことも起ってくるぞ。天地を信じ、自分を知り、人を理解する所にこそ まことの弥栄あるぞ。だますものにはだまされてやれよ。一先づだまされて、だまされんように導いて下されよ。そなたはそんな場合に我を出すからしくじるのぞ。だまされてやろうとするからカスが残るのぞ。まことにだまされる修業が大切ぢゃなあ。

 

第四十七帖(八三四)

八のつく日に気つけと申してあろう。八とはひらくことぞ。ものごとはひらく時が大切ぢゃ。第一歩の前に〇歩があるぞ。〇歩が大切ぞ。心せよ。そなたは行き詰って苦しんで御座るなれど、それは間違った道を歩んで来たからぞ。行き詰りは有りがたいぞ。省みる時を与えられたのぢゃ。ミタマ磨きさえすれば何ごともハッキリとうつりて、楽に行ける道がちゃんとつくってあるのぢゃ。その人その人に応じて如何ようにでも展け行くぞ。犬猫でさえ楽々と栄えてゐるでないか。洗濯次第でどんな神徳でも与えるぞ。二月十八日。

 

第四十八帖(八三五)
世界中を泥の海にせねばならんところまで、それより他に道のない所まで押しせまって来たのであるが、尚一厘のてだてはあるのぢゃ。大神様におわび申してすっかり心を改めて下されよ。神々さまも人民さまも心得ちがひ多いぞ。泥の海となる直前にグレンとひっくりかえし、びっくりの道あるぞ。

 

第四十九帖(八三六)

そなたの用意が足らんぞ。日々の人間の御用を、神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、弥栄の道であり大歓喜であるぞ。いつでも神かかれるように神かかってゐるように、神かかっていても、われにも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬をわすれてゐる境地が、まことのみたましづめであり、神かかりであるぞ。そこらでなさる行も、それに到る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ。気つけ合ってよきに進んで下されよ。そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならんぞ。人を助ければその人は神が助けるのであるぞ。この道理なぜに判らんのぢゃ。人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すもの。神にも道はまげられんぞ。

 

第五十帖(八三七)
何も六ヶ敷いこと申すのではない。自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けばよいのぢゃ。内にあるものを浄化すれば、外から近づくものがかわって来る道理。内の自分を洗濯せずにゐて、きたないものが近づくとか、世の中がくらいとか不平申して御座るなれど、そこにそなたの間違いがあるぞ。木でも草でも中から大きくなって行くのぢゃ。三千年に一度の時がめぐり来てゐるのであるぞ。為せば成る時が来てゐるのぢゃ。為さねば後悔ぞ。時すぎて種まいても、くたびれもうけ。そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申してゐるが、すべては大神の肚の中にゐて、一応 大神が許しなされて居ればこそ存在し、いのちしてゐるのであるぞ。悪くうつるのは心のかがみがくもってゐるからぞ。悪い世の中、悪い人と申すことは、神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ。新しき世界には新しきてんしてんかをこしらえねばならん。このこと間違えるでないぞ。珍らしき御型(方)が出て来てびっくりぢゃ。びっくりしなければヒックリとはならんぞ。神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。人民ももう化けては居られんぞ。九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。教では世は正されん。教のつどいはつぶれて了うのぢゃ。無理してはならん。そなたの無理押しは よいことをわるく曲げるぞ。

 

ひふみ神示 全文

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