超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

五十黙示録 第二巻「碧玉の巻」11~19帖

昭和36年5月6日(1961年)

 

第十一帖(二六)

宇宙の総てが高天原(タカアマハラ)であるぞ。天照大神高天原を治し、また高天原を御(しら)し、また高天原を知らす御役、月読大神は天照大神と並びて天のことを知らし、またあほうなはらの汐の八百路を治し、また夜の食す国を知らす御役、素盞鳴の大神はあほうなはらを治らし、又 滄海之原を御(しろ)し、又、天下を知(し)(治)らす御役であるぞ。

 

第十二帖(二七)
ささげるもの、与へるものは、いくらでも無限にあるでないか、ささげよささげよ、与へよ与へよ、言(ことば)こそは誰もがもてる 其(理)のささげものであるぞ、与へても与へても無くならんマコトの宝であるぞ。

 

第十三帖(二八)
まだ〇のみ追ふてゐる人民 沢山あるなれど、〇では世は治まらん、自分自身は満たされんぞ、・でなくてはならん、と申して・だけでもならんぞ、・が元ぢゃ、内ぢゃ、〇は末ぢゃ、外ぢゃ、・から固めて下されよ、〇はおのづから出来てくる、ふさはしい〇が出来てくるのぢゃ。今の世はひらけたひらけたと申しているが、それは半面だけのこと、半面がひらけると半面がとざされる世の中、開け放しの明るい世が目の前に来てゐるぞ。用意はよいか、真中うごいてはならんと申してあろう、動くのは外ぢゃ、忙しい急しいと申すのは外側にゐる証拠であるぞ、氣つけて早う中心に飛び込めよ、真中結構、日本は真中の国であるぞ、日本精神は真中精神、末代動かぬ精神であるぞ、三千世界の大掃除であるから、掃除するには、掃除する道具もゐるぞ、人民もゐるぞ、今の有様では、いつ迄たっても掃除は出来ん、益々けがれるばかりぢゃ、一刻も早く日本から、日本を足場として最後の大掃除を始めて下されよ。神が致すのでは人民がかあいそうなから、くどう申してゐるのぞ。

 

第十四帖(二九)
頭と尻尾だけでは何も出来ん、化物ぢゃ。八尾八頭(かしら)の時代はすんだのであるぞ、かんじんの胴体がないぞ、日本が胴体であるぞ、日本を何処に忘れて来たのか、自分でも判るまいがな、尻の毛まで抜かれた化物の姿、鏡にうつして見るがよい、鏡は神示ぢゃと早うから知らしてあろうがな。

 

第十五帖(三〇)
五六七のミロクの代から六六六のミロクの世となるぞ。六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動きないぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きがないからそのままでは弥栄せんのぢゃ、666となり又六六六とならねばならんぞ、新しき世の姿、よく心得よ。

 

第十六帖(三一)
メクラの人民がいくら集まって相談すればとて、すればする程ヤミとなるのぢゃ、行き詰ってあげもおろしも出来んことになるのぢゃぞ、総てを数だけで決めようとするから悪平等となるのぢゃ、メクラをいくら並べてみても何もならん、早う改心せよ、新しきタマの選挙があるでないか。

 

第十七帖(三二)
はじめに碧玉を並べて下されよ、次に赤玉、次に赤黄玉、次に黄赤玉、次に黄玉、次に黄青玉、次に青黄玉、次に青玉、次に青赤玉、次に赤青玉、次に紫水晶、合せて十一玉、この巻、碧玉の巻であるぞ。

 

第十八帖(三三)
氷と水と水蒸氣ぢゃと申してあろうがな、同じであって違ふのぞと知らしてあろう、地には地の、天には天の、神には神の、人民には人民の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの法則があり、秩序があるのであるぞ、霊界に起ったことが現界にうつると申しても其のままでうつるのではないぞ、また物質界が霊界に反影すると申しても其のままに反影するのではないぞ、総てが太神の中での動きであるから、喜びが法則となり秩序となって統一されて行くのであるぞ、それをフトマニと申すのぞ、太神の歓喜から生れたものであるが、太神もその法則、秩序、統一性を破る事は出来ない大宇宙の鉄則であるぞ、鉄則ではあるが、無限角度をもつ球であるから、如何ようにも変化して誤らない、マニ(摩邇)の球とも申すのであるぞ。その鉄則は第一段階から第二段階に、第二段階から第三段階にと、絶えず完成から超完成に向って弥栄するのであるぞ。弥栄すればこそ、呼吸し、脈拍し、進展して止まないのであるぞ。このこと判れば、次の世のあり方の根本がアリヤカとなるのであるぞ。

 

第十九帖(三四)
百は九十九によって用(ハタラ)き、五十は四十九によって、二十は十九によって用(ハタラ)くのであるぞ、この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、用(ハタラ)きは地の現れ方であるぞ、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立であるぞ、根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ。地上的考へ方で二十年を一まわりと考へてゐるが、十九年で一廻りするのであるぞ、いろは(母)の姿見よ。

 

ひふみ神示 全文

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