超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

五十黙示録 第四巻「竜音の巻」1~10帖

昭和36年8月3日(1961年)


第一帖(六〇)
この巻「竜音の巻」、つづく巻五は「極(きわみ)の巻」、巻六は「至恩の巻」、巻七は「五葉の巻」ぞ。この五十黙示(いせもくじ)の七巻は神、人共に与へたもの、一巻からつづいたものぞ。同じ意をもつものが天国にもあるのであるぞ。合せて三十巻、これで岩戸までの神示の終りぞ、前に出した「黄金の巻」からの七巻(日月地聖典下編)は人民に与へたものであるぞ。


言(こと)やめて 草の片葉も 陽にのび行かな。


八十(やそ)隈手 行きにし神は 今かへります。


素盞鳴の 命しらせる 海原ぞやよ。


天ヶ下 おつるくまなく 照らす大神。


高低(たかひき)の 伊百理(いほり)かきわけ きこし召すらむ。


罪と言ふ 罪はあらじな 神の子なれば。


ひふみ百千万(ももちよろず)と 咲(ゑ)ます 元つ太神。


八十伴男(やそとものを) 百(もも)足り足りて 仕へまつらむ。


行く水に 清めて仕ふ 極みの宮殿(みあらか)。


言霊の 栄ゆる御歌に はらひてましを。


みそぎして 祝ふ生命(いのち)ぞ 弥栄ましませ。


安国の 瑞穂(みづほ)の国と 御(しら)し給ひぬ。


八重雲の 十重雲千別き 千別き天降(あも)りぬ。


千木高知り 美頭(みづ)の御殿(みあらか) 咲(え)み仕へなむ。


許々太久(ここたく)の 罪はあらじな 大岩戸あく。


四方の国 咲(え)み集うらし 真中の国に。


よきあしき 皆はらひませ 科戸(しなど)の風に。

 


第二帖(六一)
八束穂(やつかほ)の 十束穂(とつかほ)とこそ 実らせ給へ。


みかのはら みて並べてぞ 天地(アメツチ)の座に。


御服(みそ)輝(かが)し 明妙照妙和妙(あかてるにぎ) 風のまにまに。


巫(かむなぎ)の 大御心のまま 弥栄へむ。


千木千木し 瑞の御舎(みあらか) 仕へまつらむ。


御宝前(おんまえ)に 宇豆の幣帛(みてくら) たたへまつ栄。


大神の 咲(えみ)に弥栄ゆ 生国足国(いくくにたるくに)。


狭(さ)き国は 広く峻(さか)しき 国は平に。


日のみかげ 百島千島 おつるくまなく。


青雲の たなびく極み 座(し)きます宝座(みくら)。


甘菜辛菜(あまなからな) 地の極みまで 生ひて尚生ゆ。


見はるかす 四方の国みな えらぎ賑はふ。

 


第三帖(六二)
世界中が霊かかりとなると申してあるのは今のことであるぞ、かかりてゐる世界自身わからなくなっているぞ、サニワせねばならん、サニワの方法書き知らすぞ。世界を、日本を、自分をサニワせねばならん。目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤(もっと)もらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。また天使の霊が母体に宿り人民として生れてくる事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ。


第四帖(六三)
〇(霊)界と申しても神界と幽界に大別され、又神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申してゐるのであるぞ。幽界は本来は無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ。


第五帖(六四)
幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりの殆どは この幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であってもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き筈(はず)のものを生み出し それが又地上界に反影してくるのであるから心して下されよ。今の人民 九分九厘は幽界とのつながりをもつ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ。


第六帖(六五)
霊的良識は、神示や神典類によって、又体験によって養はれ、又高度な科学書も参考となるものぞ、科学を馬鹿にしてはならん。幽界の霊であっても高度のものともなれば、神界の高級神霊と区別することが六ヶ敷いぞ。初歩のサニワの誤り易いところであり、又霊眼するものの誤り易いところ、注意しなければならん、例へば霊光の如きものも強く大きくて中々にサニワ出来ないぞ。


第七帖(六六)
仙人と申すものは如何に高度なものであっても、それは幽界に属す、仙人界には戒律があるからぞ、神界には戒律なし、戒律ある宗教は亡びる、マコトの宗教には戒律はないぞ。しかし神界にも仙人的存在はあるぞ。


第八帖(六七)
竜体をもつ霊は神界にも幽界にもあるぞ、竜体であるからと申して神界に属すると早がってんならん。


第九帖(六八)
霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。その霊界が総ての霊界であるかの如く思ふものであるぞ。同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのであるなれど、段階が異なってくると判らなくなるのであるぞ。他の霊界は霊自身のもつ感覚の対象とならないからである。人民界のことをよく知ってゐる霊は、人民界を去って間もない霊か、地上世界に長く住んでゐた動物霊か、人民に憑依してゐた霊であるぞ。特別な使命をもつ天使は別として、人霊以外の霊で人民に憑依するのは、日本では天狗風(てき)、神風(てき)、仙人風(てき)、狐風(てき)、狸風(てき)、猫風(てき)などが大部分であるから気つけおくぞ。


第十帖(六九)
人間の肉体に他の霊が入って自由にしてゐるのだと、多くの霊覚者やサニワが信じてゐるなれど、事実そう見へるなれど、それは誤りであるぞ。人間の肉体は原則として真理の宿り給ふ神の生宮であるから、下級霊は中々に入ることは出来ん。例外はあるなれど、肉体霊、外部霊、副守護霊等の想念は、時によって動物的、幽界的となるものであるから、それと同一波調の動物的霊が感応する、感応はするが肉体の内部迄は入り込めない、しかし感応の度が強ければ入ったと同様に見へる状態となるのである。先祖霊も大体同様であるぞ。

 

ひふみ神示 全文

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