超革新ひふみ神示

超革新ひふみ神示

ひふみ神示は、金をかけて先入観を植え付けようとする勢力を称賛などしてません。 「神で食うて行くことならん」ともあります。 虚心坦懐に読んでみてください。

「多神教」を論じる屁理屈者

*会話では「へりくつや」と言うかも知れないけれど

 文字にする場合は「屁理屈者」の方が

 分かりやすい氣がしまして。

 

「日本人は浅薄で、多神教社会だから

統一教会のような異端をゆるしてしまったのだ」

とかほざく輩がいたりします。

 

もうね・・・荒らしやテロリストの感情まかせの

ふるまいとほとんど同じに見えるんだよね。

自分では知的と思ってるか知らんけどさ。

 

感情的である事を表面的にとりつくろい

屁理屈をこねまわしているだけ。

 

統一教会がはびこった原因は

霊感商法」を告発した朝日新聞に対する

襲撃犯を警察が放置した事です。

 

その結果、マスコミ各社が統一教会などを

批判する事が少なくなった。

 

そして、自民党統一教会を優遇し

公安による統一教会捜査をやめさせ

逆に統一教会と関係する議員が

国家公安委員長になったりするようになった。

 

こういう、明白な原因があります。

 

マスコミが報じなければ、どんな犯罪も

知らない人が多くても無理はありません。

 

何が何でも「日本人が悪い、加害者は悪くない」みたいに

ほざきたいという輩がいるんだよね。

とても「自尊的」で、まるっきり右翼みたいなのが

エセ左翼として存在していたりする。

しゃらくせぇ!!と思う人も多いでしょう。

 

あくまで論理的に詰めてみます。

 

誰とは言いませんが(侮辱罪とか言われないように。)

ヤカラはイザヤ・ベンダサンこと山本七平さんの

文章を引用しています。

 

『「常識」の研究』文春文庫p.42)

{既成のキリスト教会は統一教会を教会(チャーチ)と認めず、これの加盟を拒否している。いわばキリスト教とは認めないわけで、認めないものがキリスト教を名乗れば異教ではなく異端となる。教会は伝統的に「異端の罪は異教の罪より重い」で、たとえば禅や儒教には寛容であっても、異端となれば排撃は峻烈になる。

 第二がユダヤ教徒の反発である。彼らは感情的よりむしろ論証的だから、激烈な排撃はないが、文鮮明の著書の一三〇ヵ所を問題とし,これをアンティセミティズム(反ユダヤ主義)と規定している。こう定義されると、アメリカではまず絶対にマスコミの支持は得られない。}

 

はぁ、そうですか?

アメリカにはモルモン教というれっきとした異端が

(聖書の他にThe Book of Mormonを聖典する教会。)

存在しますが、峻烈な排撃を受けているのでしょうか?

昔はそういう時期もあったかも知れませんが

少なくとも今はユタ州の一大勢力でしょ?

 

異端かどうか、誰がどんな基準で決めるのか?

 

そもそも、福音書のイエス=キリスト様の御教え

から離れていたら、それこそが異端でしょう。

 

キリスト教右派」は福音書の御教えから

著しくかけ離れた異端に見えますが?

 

キリスト教1 イエス=キリスト様の御教え

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/08/23/001315

キリスト教2 カルトなど

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/08/24/200349

 

はっきり言ってネストリウス派

アタナシウス派の言い分の差などは

エス様の御教えの本質から離れた話。

 

そんな所で派閥を分けて「排撃」する事は

キリスト様の御心に反するでしょう。

 

現代の「キリスト教」は、本質的な

根本的な所で御教えから逸脱している。

 

ヤカラの引用その2

東谷暁山本七平の思想』講談社現代新書p.139

戦前の愚行を生み出したとされる「空気」の支配は、戦後のわれわれをも同じように,あるいはよりいっそう強く拘束している。それは日本という文化そのものといってよいアニミズム的なものを基底におく情況倫理によって生きているからなのだと七平はいう。つまり、固定した絶対的なものがないから、「水」も「空気」に転じてしまうのである。

 

はぁ?「一神教」が「固定した絶対的なもの」で

異端を排撃するというのであれば

ファシズムか何かの事ですか??

それって「国家神道」そのものではないですか??

何を馬鹿な事を言ってるのかと。

と言うと、右翼からもエセ左翼からも同意を

得られないかも知れませんが、私からすれば

右翼とエセ左翼は本質的に同じ。

様々な思想をおおらかに受け止める文化こそが

ファシズムであるかのように

ファシズムによる支配をよしとする者がほざくなど

戯言もたいがいにせよ、という話です。

 

むしろ、たかが一個体に過ぎない者が

「自分が絶対法則神でござい!」と

のぼせあがってテロで支配しようとする

というのが問題なんですよ。どう見ても。

高慢ちきの越権行為。神をないがしろにする賊。

 

ローマ帝国では

神と御子(キリスト様)と聖霊

三位一体とする派閥が正統とされ

それで一神教とか何とか言ってる

かも知れませんが、

 

そもそも旧約聖書新約聖書は異質

というのも客観的な事実ではないかと。

旧約聖書は「汝の敵をも愛せよ」という思想で

貫かれたりはしていません。

 

旧約聖書福音書だけとっても異質だし

 

旧約聖書の「エロヒム」は明らかに複数形なのに

一神教だとか言い張る事こそが

「浅薄」ではないのかと。

 

だけれども、いちいちそんな程度で

目くじらたててとがめていたらキリがないから

互いにどうでもよい部分はおおめに見てもよいのでは?

というのが非ファシズムでよろしいのではないかと。

 

その線引きをするのは「良心」であり

ブラフマン=アートマンであり

ある意味、「固定した絶対的なもの」

始源の大神様の絶対意志とも言えます。

 

ですが、その表れは千変万化する。

「無限に進化・向上・昇華するという

法則」だけが不変、という見方もできる。

 

「漸近線」に永久に近づいていくが

決して到達点を見る事はできない、

というような世界ですが・・・

 

至高の大神様(ブラフマン=アートマン

だけを一神とし、他を天使とか聖霊とか

御子とか化身とか呼ぶのが一神教かも

知れませんが、そうなると

キリスト教」は「一神」の御教え

ではなくなるから、「三位一体」とする・・・

それこそが詭弁でしょう、本当を言えば。

 

日本語では天使とか聖霊

神と呼ぶ、というだけの事で、

レッテルに執着するのは馬鹿げた事とも見えます。

 

そもそも「多神教」とは

「いくつもの価値基準法則が存在している」

という話ではなく、

様々な神霊が存在しているという

事実そのままの世界観です。

 

何を馬鹿げた混同をしてるのかと。

「唯一の価値基準法則がある」を「一神教」と呼び

「様々な価値基準法則がある」のが「多神教」だと

解釈する時点で、どうかしている。屁理屈。

 

厳密に言えば、地球の天地創造の大神様も

「至高の法則神」ではなく

その表れの一個体、という事になるかと。


至高の大神様=多神=汎神

という見方が、最も正確かも知れない。

 

「至高の法則神」が、おいそれと

預言者にかかる事もないでしょう・・・

必ず、「一個体」を持つ大神様、

神様と、段階を経ているかと。

 

高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく

それぞれの段階を経て感応する

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/09/21/221837

らしい、としか言えないかも知れませんが。

 

・・・いや、「至高の法則神」は

人間の言語・文章で何か伝える

という事はないものの、「良心」

として各自の心の奥に存在する

とも言える。魂が澄んでいるほど

良心=アートマン=ブラフマンの判断が

直覚として個々の魂にそのまま伝わる。

 

精神良心

心の内を図にしてみました。

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/08/14/173645

 

例えば地球神(アッラー)様を超えるような

銀河系の中心神様が1人の地球人にかかる

ような必要性は、そもそも普通はないでしょう。

けれど、「至高の法則神」は、いかなる

無神論者の中にでも存在する。神性、仏性。

 

私には、山本七平さんの理屈は浅薄に見えるし

日本人を悪と主張するために山本説を絶対とし

引用してるような方々こそが品性下劣に見えます。

見当違いというより濡れ衣こじつけ。

 

万教同源 宗派の差異

https://cyrus2.hatenablog.jp/entry/2022/08/28/100857